俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

仕事を作る人

2008-05-06 15:22:19 | Weblog
 仕事を作る人がいる。仕事を増やす人とも言われる。こういう人は概ね部下からは嫌われている。
 仕事を作る人は大抵管理主義者で詳細な報告を求める。営業部門なら詳細な日報を求めるし、事務部門なら何に使うのか分からない面倒な資料作りを命じる。本人はこれによって統制のとれた組織になると一人ご満悦の様子だが作らされるほうにとっては迷惑な話だ。新たな仕事(作業)によって労働時間が増える。昨今の残業削減の風潮の中では本来やるべき仕事を削ってでも上司の求める無駄な仕事を優先してこなさざるを得ない。当然こんな部署の業績は悪化する。
 こんな人は社会人失格だと私は思うのだが、意外なことに上司からは管理能力が高いと評価されて昇進することが多い。こんな馬鹿な評価をしているから、日本ではブルーカラーの生産性は高いにもかかわらずホワイトカラーの生産性は世界一低いと言われるのだろう。
 勿論「仕事を創る人」もいる。新しいビジネスを生み出す創造的な人はこんな管理主義者を評価せず、その結果「元気な企業」が生まれる。

運動速度の相対性

2008-05-06 15:08:38 | Weblog
 動く物体の危険性はその絶対速度ではなく相対速度と方向によって増減する。
 同じ方向へ同じ速度で移動するなら他人に物を手渡すこともできる。電車の中なら勿論のこと、別の自動車の間でもそれは可能だ。速度は相対的であり、同じ速度で同じ方向に進むならその相対速度はゼロになる。
 逆方向へ進む場合は加算される。100km/hの自動車同士が正面衝突をすれば200km/hに相当する力が加わる。
 140km/hで走るトラックから後ろに向かって140km/hのボールを投げたらどうなるか?140km/h-140km/h=0となる。このことは「トリビアの泉」でも紹介された。トラック内のカメラが捕らえた映像では荷台から投げられたボールは唸りを上げるような勢いで飛んでいった。しかし地上から見た映像ではボールは荷台から出た瞬間にポトリと真下に落ちた。慣性の法則に基づけば当然のことだが私はこの映像を見て大笑いした。
 マラソンのスタートでは大勢が一斉に走り出す。全員がほぼ同じ速度で走るから滅多に混乱は生じない。もし斜めに走る人や後ろに走る人や極端に遅い人がいれば大混乱に陥るだろう。
 ところで歩道は今どんな状態だろうか。交通法規上は右側通行だが左側を歩く人のほうが圧倒的に多い。歩行者は4km/hぐらいでぶらぶら歩いている。2人連れ・3人連れで歩く人は概ねもっと遅く歩く。子供は予想できない方向へ突然動く。ここに自転車が加わればどうなるか。
 自転車は多分10km/h以上でなければ安定走行できない。それより遅いと不安定になる。ぶらぶら歩いている人と直進する自転車が同じ場所にいればぶつかって当然だ。全車両が同じ方向に走る車道のほうが安全とさえ思える。
 速度も方向も違う動体を同じ場所で共存させることは不可能だ。動体がランダムに動けばぶつかることは必然だ。方向を一定に定め、更に速度を合わせない限り衝突は避けられない。
 歩道上で歩行者と自転車を共存させるためには、最低限でも方向か速度を調整する必要がある。歩行者が一方向に一列で進むという秩序ある状態が実現できないうちに自転車の走行迄認めるのは無理がある。

’60年代の洋楽

2008-05-02 10:31:42 | Weblog
 ’60年代の洋楽は画期的な時代だったと思っている。それ以前からアメリカから流入していたポップスやジャズやロックに、更にフォークソングなどが加わっただけではなく、フランスからはシャンソンが、イタリアからはカンツォーネが流入した。
 フランスのシルヴィ・バルタンやフランス・ギャル(今考えれば無茶苦茶な名前だ)、イタリアのジリオラ・チンクェッティなどの才色兼備の美人歌手も洋楽を一層華やかなものにした。
 アメリカの美人歌手の印象は薄い。レスリー・ゴーアという美人歌手がいたが日本ではどの程度評判になっていただろうか。むしろ女優のアン・マーグレットのほうが評判になっていたように思える。
 洋楽が定着したのは社会問題にまでなったビートルズに負うところが大きい。しかし当時のビートルズに対する評価は「不潔な不良の音楽」だった。
 ’60年代の後半にアメリカから「サイモンとガーファンクル」とカーペンターズが登場すると内外の音楽の格差は最大となった。
 皮肉なことに、内外のレベル差を縮めたのは「アイドル歌手」だった。ぽっと出の新人歌手を売り出すためにそれまでの邦楽とは違った新しい音楽が試された。山口百恵さんを始めとするアイドル歌手の歌はそれまでの歌謡曲とは一線を画した。
 最初の下手くそ歌手だと私が思っている南沙織さんの「17歳」や「潮風のメロディ」や、やはりヴィジュアル系歌手の麻丘めぐみさんの「悲しみのシーズン」や「白い部屋」はこういう状況から生まれた名曲だと思っている。

死ぬ権利

2008-05-02 10:08:18 | Weblog
 イギリスにはかつて「自殺をしたら死刑」という法律があった。さすがに余りにも馬鹿馬鹿しい法律なので廃止されたが、この法律は「自殺というキリスト教の教えに背いた行為には極刑を科するべきだ」という考えに基づく。
 今でもニューヨーク州には「ビルから飛び降りたら死刑」という奇妙な法律がある。ビルから飛び降りたら99%は死ぬのだから無意味な法律と思えるが、法律を悪事に対する規制とするなら必ずしも意味が無い訳ではない。
 飛び降り自殺は最近流行りの硫化水素自殺と同様迷惑な自殺だ。関係の無い人を巻き添えにしてしまう可能性が結構高い。
 死にたい人は、周囲に迷惑を与えない方法を使うなら勝手に自殺して構わないと思う。呼吸することですら苦痛である人やほんの少しの動きでも激痛を伴う人が苦痛から逃れるために死を選ぶのは正当な行為だ。こんな人を励まして苦痛に耐えさせることこそ不道徳だ。癌の末期の苦痛に対して必要な対策は延命ではなく鎮痛だろう。

転記

2008-05-02 09:50:55 | Weblog
 暇な職場では無駄な仕事(作業)が横行するものだが、その最たるものは「転記」だと思う。「清書」や「引用」と称して転記が行われるが、転記をすれば転機ミスが発生し、転記を繰り返せばまるで伝言ゲームのように当初の内容から懸け離れたものになってしまう。
 転記をするよりはオリジナルのものをそのまま使うかコピーをして使えば良い。もしオリジナルのままでは意味が伝わりにくいと考えるなら、注釈を赤ペンなどで書き加えたら良い。学術書でも同じだが、解釈を加えるごとに原典の意味から遠ざかってしまう。