昨日は、職場の人間関係のゴタゴタに巻き込まれ、なんだかひどく腹が立ち、お陰で今朝は3時半に目が覚めてしまった。
自己愛性人格障害について調べているうちに、私の母もこれだったのではないかと思い始めた。
当てはまる部分とそうでない部分があるけれど。
まず、母は、私たち子供に見せる顔と、世間に見せる顔がまったく違う。
世間に対しては、ニコニコして笑い上戸で明るくていい人だが、子供の前ではいつも不機嫌で、愚痴ばかりで、臭い顔をしているのだ。
実家に行っても、ニコニコ出迎えてもらったことなど一度もない。
いつも、あ、来たの?と、当たり前のように言われる。
次に、私は三姉妹なのだが、母はいつもその場にいない子供の愚痴を言う。
私に対しては、他の2人の姉妹の愚痴を言い、姉妹に対しては、私の愚痴を言うのだ。
お陰で、私達姉妹は何度も揉めている。
それから、母は何か決めなくてはならないときは、自分で決めずに、私達姉妹3人に相談して、その中の誰かの考えに従う。
それで、何か問題が起これば、娘の誰かのせいにする。
決して自分は悪くない。
そのせいで、私達姉妹が争うことになる。
母はいつも高みの見物してるのだ。
また、母は、娘にこうしてほしいと頼むことができない。
いつも、困ってることを娘に言い、娘からやってもらうことを期待するのだ。
例えば、母がどこかに行きたくて、でも誰も車に乗せて行ってくれないとき、困ったとは言うが、お願いできないかとは決して言わない。
そして、母の思い通りに娘が動いてくれないと、こんなに年取って足が悪くて辛いのに、とか、もう私なんかあと何年も生きられないのに、とか、早く死にたい、とか、言って、話をすり替えて同情を得ようとするのだ。
あと、昔から感じていたのだが、母にとっては娘は道具というか、母の望み通りに動く存在であって欲しいようだ。
母の願いをなんでも叶えてくれる娘であってほしいのだ。
娘の自由を尊重するよりも、家を継ぐことや自分の面倒を見てもらうことが、母にとっては一番重要な事なのだ。
もし万が一、娘が病気になったりしたら、自分の面倒を見てくれる人がいなくなるという意味で、娘を心配するようだ。
それから、母は、周りの友達と自分を比較して、友達の方が幸せだと、すごく嫉妬する。
逆に友達に何か不幸な出来事があると、機嫌が良いのだ。
今の自分がどれだけ恵まれているかなど、理解できない。
比較対象は、あくまでも恵まれている友達なのだ。
それに対して自分は何て不幸なんだと、いつも思っているようだ。
ま、娘を馬鹿にしたりする事はないのだけれど、自己愛性人格障害に当てはまる部分も多いと思った。
何より、自己愛性人格障害者から言われて、無意識に自信をなくす事があったが、それは、自己愛性人格障害者が私を貶めて、自分を優位に立たせるために行っている事を知り、自分は自信をなくす必要などなかった事を理解できた事が、1番大きい収穫だ。
私は、自己愛性人格障害者から、狙われやすいタイプだ。
私が人を馬鹿にしたり、強く言えない事を、自己愛性人格障害者は見抜いている。
だから、私も、自己愛性人格障害の事を理解し、利用されないように武装しなけれなならない。
私を馬鹿にして、自信を無くさせるのが、自己愛性人格障害者の攻撃手段なのだから、何を言われようと、堂々としていれば良いのだ。
自信をなくすことなど全くない。
自己愛性人格障害者のその手には乗らない、という事だ。
最近は、ずっと自己愛性人格障害について調べている。
なんか、これを終わらせなければ、次に進まないのだ。
私は、今まで、自己愛性人格障害と言える人とかかわりを持ったのは二人だ。
でも、その時は、自己愛性人格障害などというものは知らず、人間的におかしい人、なるべく関わらないようにしなければならない人、という感じだった。
なので、今更ながら、自己愛性人格障害について勉強してみて、なるほど~と納得することが多い。
まず、私のお舅だが、お舅は、言葉の暴力、切れる、ターゲットを一人に絞る、などのストレートな自己愛性人格障害だった。
私はお舅からターゲットにされていた。
お舅は、私とお姑以外には、暴言を吐くことはなく、特に孫と息子は可愛がっていた。
お姑にも暴言を吐くことはあったが、一番のターゲットは私だった。
暴言は、毎日ではなかったが、たまにふと何か気に障ることがあると、突然切れた。
暴言を吐かれても、ものすごいストレスを感じたが、私は黙って我慢することが多かった。
でも、あまりにも我慢できないときは、軽く言い返したことがあった。
すると、その何十倍ものお返しの暴言が返され、最後には、殺すぞ!とまで、脅された。
たえられなくて何回か実家に帰った。
そのたびに、もう二度と言わないと、お舅は言ったが、治ることなく繰り返された。
そんな生活が15年くらい続き、私は不眠症と不安症と自律神経を病んでしまった。
15年目に、私はお舅とお姑の反対を押し切り、旦那の了解を得て、二階にキッチンを作った。
これで、お舅と顔を合わせることが、極端に減った。
そして、お舅の私に対する暴言もほとんどなくなり、かわりにお姑に対する暴言が増えた。
たまに、下で何か怒鳴り声が聞こえたときは、ドアを閉めて好きな映画などを見ていたので、私に怒鳴っていたとしても私は気にならなかった。
そうなのだ。このタイプの自己愛性人格障害への対処法は、とにかく物理的に逃げるのが一番なのだ。
顔を合わせない、怒鳴り声が聞こえない場所に逃げるのだ。
うまくやっていくなんてことは、このタイプの自己愛性人格障害ではまったく無理な話なのだ。
次に、私の若いころからの友人だが、彼女はフレネミータイプの自己愛性人格障害だ。
彼女は、一見するととても愛想よく、明るく仕事もできて、何の問題もなさそうに見える。
だが、親しくなると、こ馬鹿にしたり、ひっかきまわしたり、仲間に私のことを悪く言ったり、友人の私を尊重しないのだ。
そのようにするのは、ターゲットである私に対してだけであって、他の人からは、親切で明るくていい人と思われているのだ。
このタイプの自己愛性人格障害とは、付き合わないに越したことはないが、そっけなくして恨まれたりするのも嫌なので、一線をひいて付き合うことはできると思う。
対処法だが、彼女には、他の友達を紹介しない、悩みを相談しない、プライベートな話は選んでする、家族交際はしない、特に旦那を交えて飲みに行ったり遊びに行ったりしない、などを気を付けている。
前に、結婚したばかりのころ、旦那を交えて四人で飲みに行こうと、彼女から誘われたが、すかさず断った。
彼女にひっかきまわされるのが嫌なのだ。
彼女は、人の旦那にまでちょっかいを出すような女性なのだから、本当に気を付けなくてはならない。
以前、結婚前に付き合っていた人に対しての悩みを、彼女に相談して、ぐちゃぐちゃにされたことがあるのだ。
なので、今の旦那と結婚するときは、結婚が決まるまで彼女には何も教えなかったくらいだ。
それで、私の友人の1人は、完璧に自己愛性人格障害だと分かった。
今更感はあるが。
もっと早く自己愛性人格障害について調べればよかった。
また、亡くなったお舅も、自己愛性人格障害で、モラハラをする人だった。
この2人は、同じ自己愛性人格障害でも、タイプが違う。
友人は、それとは気づかないように嫌味を言ったり、けなしたり、利用したり、馬鹿にしたりして、人を見下すタイプだ。
お舅は、人を傷つけてもなんとも思わず、自分に逆らったら癇癪を起こすタイプだ。
自己愛性人格障害も、いくつかのタイプに分かれるらしい。
共通してるのは、相手の人格を認めない、人を見下す、自分以外は自分の家来、ターゲットを必要とする、などだろう。
で、思ったのだが、自己愛性人格障害の人は、同じような自己愛性人格障害の人を決してターゲットにしない、ということだ。
だって、同じ自己愛性人格障害なら、お互いに貶め合い、けなし合い、馬鹿にし合い、暴言を吐き合い、お互い傷つくだけと、分かりきっているからだ。
なので、ターゲットに選ばれるのは、良心的で素直で優しい人なのだ。
そういった良心的な人を利用し、傷つけ、自信を失わせ、ボロボロにしていくのだ。
自己愛性人格障害の人には絶対に近づいてはならない。
傷つけるけれど優しい時もあるから、なんて思って、つきあい続けてはならない。
本当に良心的な人は、人を絶対に傷つけたりはしないから。
私は、自己愛性人格障害の友人とは距離を置いて付き合っている。
たまに一緒に食事に行くことはあっても、2人で旅行には決して行かない。
馬鹿にする人と旅行など行きたくもない。
それで、思ったのだが、これに全て当てはまるわけではないが、少し似ていると思う私の友人がいることに気がついた。
その友人は、私のことを利用していると前から感じていた。
その友人には、他の友人に対するような友情を感じることができないのだ。
その友人は、私を尊重したりかばったりすることが無いのだ。
そして、自分の優位性、正当性を保つため、グループの人に対し私のことを悪く言っていたのだ。
いつでも、その友人は私よりも上に立ちたいのだろう。
なので、私の欠点を、粗探しをして、見つけると大喜びして、グループの人に話し、私を馬鹿にして笑うのだ。
境界性の人は、印象操作が上手いのたそうだ。
自分は良い人で私がダメな人というイメージをグループの人達に植え付けるのが上手いのだ。
すると、グループの人は友人の言うことを信じ、私についての印象を悪くするのだ。
本当の友人なら、友達を貶めるようなことは絶対にしないのに、境界性の人は平気で友達を貶めるのだ。
ある日、こんな出来事があった。
私は友人の家に遊びに来ていた。
するとそこに、グループの人から電話があった。
グループの人は、友人がまだ私と付き合ってるの?と聞いていたようだ。
すると、友人は、誘われるからしょうがなくね、と答えたのだ。
それが私に対する礼儀だろうか。
私はそこまで蔑まれているのだと、その時思った。
友人も、嫌なら私と付き合わなければいいのに、なぜか私と付き合い続けるのだ。
友人にとっての私とは、優越感を与えてくれる存在でしかないのだろう。
つまり、引き立て役ということだ。
私もそんなら、その友人との付き合いをやめればいいのに、いまだに浅く付き合い続けている。
害が及ばないと思う範囲で。
今回、この境界性パーソナリティ障害のブログを読んで思ったことがある。
それは、もし、自分に対しての周りの評価が良くなく、周りから避けられている場合、自分の責任ではない場合もある、ということだ。
もちろん、自分が本当に悪人なら、周りの評価や評判も悪いのは当たり前だ。
しかし、思い当たることもないのに、周りから避けられたり評価が低い場合、もしかしたらそれは、境界性の人が上手に印象操作している可能性があるということだ。
私は、今まで、全ては自分の責任だと思って生きて来た。
周りからの、評判が良くないのも自分が至らないからだと思って来た。
しかし、そうではない場合もあるということだ。
頭の良い境界性の人は、周りの人を取り込むのに長けている。
境界性の人はとても口が上手いので、境界性の人のターゲットにならない限り、誰も見抜けない。
境界性のターゲットになる人は、親切で人の悪口を言わず優しい人だ。
そういう人が、境界性の人の支配を拒絶し、離れた時、境界性の人は被害者のふりをして、周りにその人の悪評を上手に印象操作するのだそうだ。
私は、結婚するまでは、家族と住んでいました。
そして、家族から嫌われたりせず、まあ、父からも母からもそれなりに愛されてきたのです。
兄弟喧嘩はよくやりましたが、仲良くしてきました。
ところがです。
結婚して、夫の父と母と同居することになったのです。
夫の母は、私に対して好意的に接してくれましたが、夫の父は、私のことを何も知らないうちから、私を嫌いだ、というオーラを醸し出していました。
初めて会った時から、私を嫌っていたのです。
夫の父のその思いは、何十年一緒に過ごしても、変わることはありませんでした。
彼は、何かにつけて、私を言葉の暴力を使って虐めてきました。
そんな状態だったので、私は、夫の父にはずっと心を閉ざし続けてきたのです。
夫の父は、私のことは嫌いでたまらないというオーラを発してきましたが、息子や孫、夫の配偶者つまり夫の母に対しては、好意的なオーラを発してきました。
さて、このような環境に置かれた場合、人によっては、なんとか好かれようと努力する人もいるでしょう。
努力の結果、最初は嫌われていたけれど、だんだん好きになってもらえるかもしれません。
(NHKの朝ドラ、「ごちをうさん」では、嫌われても嫌われても好かれようと努力してましたね。)
そのように、努力することが、正しいことなのかそうでないのかは、私にはわかりません。
ただ、私にはそのように努力することができなかっただけです。
私は、自分と波動が違う人を、どうしても受け入れられないのです。
そういう人と仲良くすることができないのです。
人に対して、マイナスの波動を出す人から好かれたいとは思わないのです。
たとえ、それが家族だとしても。
マイナスの波動を出す人が、もし自分の夫だったら、もちろん離婚していたでしょう。
しかし、夫ではなく夫の父だったから、なんとか心を閉ざしながら、同居していられたのでしょう。
家族は仲よくしなくてはいけない、という世間の常識があるので、私を否定的に見るご近所さんが多いようです。
私は常識にはとらわれたくありません。
だから、誰かが、悪意を持って悪い噂を流せば、人はその噂の方を信じてしまう。
実際は、とても良い人なのに、他人は悪い噂の方を信じる。
だから、その人を避けたり、何もわからないのに嫌ったりするようになる。
でも、ある意味、それはしょうがない事かもしれない。
人は、危ない人と、最初から付き合いたくないからだ。
だが、全く悪くないのに、誰かに、悪意を持って悪い噂を流されたら、本当に嫌だし悔しい事だ。
自分はそんな人間じゃないと言ったところで、誰も信じてはくれないだろうし、悪い噂を流した人を非難したところで、他人は信じるかどうかはわからない。
そんな時は、じっと我慢し、噂を流した人など無視して、前向きに生きるしかないのだ。
悪意を持って悪い噂を流した人は、それが悪いカルマとなり、いつか必ずその人に悪いカルマが返るのだ。
それが、カルマの法則だからである。
自分は、誰の悪い噂も流さずに、日々努力していけばいいのである。