お互い友達だとしても、だから無条件に相手を守ることこそが、友情なのだろうか?
それは、友情じゃなく、相手に対する甘えでしかないのではなかろうか。
例えば、ここに若い女性AとBがいるとする。
二人は友達である。
ある日、AとBは、二人で居酒屋に行った。
楽しく飲んでいたら、ある中年のおじさん数人が絡んできた。
Aはお酒に酔っていた。
Bも酔ってはいたが、このような中年のおじさんと飲むのは嫌で、早く帰りたがっていた。
Bは、Aをうながして、帰ろうとしたが、Aは酔っぱらっていて帰ろうとしない。
しょうがなく、BはAを置いて、家に帰ってしまった。
その後、Aはおじさん達に連れられて行き、遊ばれてしまった。
さて、その後、AはBを、ひどくなじった。
友達なのに、なぜ自分を置いて家に帰ったのだと。薄情過ぎると。
でも、あの場合、もし、Bも家に帰らずにAに付き合っていたら、BもAと同じように、おじさん達に遊ばれてしまっただろう。
あの場合、Aは、酔っていたとはいえ、自分自身を守ろうとせず、BがいくらAに帰ろうと言っても帰ろうとはしなかったのだ。
いったい悪いのはAとBどっちなのだろう。
お互いに自分の身を自分で守る意識があったら、こんな事態にはならなかっただろう。
AはBのせいにして、自分はまったく悪くないと回りに言いふらした。
酔った自分を助けてくれなかったBが悪いと。
私は、Bは悪くないと思う。
Bは、Aを助けようとした上に、自分の身を守ろうとしただけだ。
友達だから、自分が犠牲になっても悪い事に付き合うのが友情だ、というのは、大きな間違いだ。
自分の身を自分で守ろうとせず、何かあったら友達のせいにするようなAとは、行動を共にしてはならなかったのだ。
すべては自己責任で行動しなければならない。
人のせいにしてはならない。
あの場合、Aは酔ったせいにして、自分を守ろうとしなかったから、ああいう結果になったのだ。
だから、その結果の責任はAにあるのであり、Bにはない。
自分を守ることが利己主義なのではない。
自分を守れない人は他人も守れない。
自分を愛せない人は他人も愛せないのと同じだ。
とかく、ニュースなどでは、人のために犠牲になって死んだ人を美談として褒めたたえる。
しかし、自分の身の安全の守り方を子供達にしっかり教えることの方がずっと大切な事だ。
親や配偶者や兄弟や友達や恋人や学校や先生が守ってくれると、教えてはならない。
困難な状況に出会った時、いかにして自分の身を守るか、それを子供たちに教えなければならない。
学校や先生が守ってくれると子供に教えた結果が、あの大川小学校の悲劇なのだと思う。
例えば、大地震がきたら、海辺の人はそれぞれがただちに山に走らなければならない。
友達や親や配偶者や兄弟など、お互いを待っていたのでは、お互いが助からない。
親も友達も兄弟も待たないで、それぞれが山に走らなければ、誰も助からないのだ。
みんなが自分の身を自分で守ったならば、大勢の人が助かる可能性があるのだ。
子供には、危ないところには近づかない、深い川には入らない、遠くまで海で泳いでいかない、地震が来たら誰も待たないで一人で逃げる、など、自分の身を自分で守る事を教えなければならないのだ。