たとえ、自分が何もなしていないように思えても、自分と関わった人々に、自分は確かに自分の生き様を見せている。
学校の同級生、職場の人たち、ご近所、おじさん、おばさん、甥っ子や姪っ子、友達et cetera。
もうずっと会ってない人にも、自分に対する記憶が残っているかもしれない。
ましてや、我が子や夫、親や兄弟姉妹なら尚更、自分の記憶は残り続ける事だろう。
また、自分の何気ない親切が、自分の知らないところで、誰かの記憶に残ってるのかもしれない。
たとえ、今付き合いが無くても、自分の生き様はどこかで見られている。
そして、それによって尊敬されたり、落ちたと思われたりするのだろう。
例えば、昔付き合った人同士は、別れてからもお互いにずっとどこかで見ている。
実際に見ているのではなく、生き様を心で見ているのだ。
風の便りで入ってくる情報などで、その人の生き様を知ることがある。
私達は、別れたら終わりとか、縁が切れるわけではなく、自分の記憶は確かに相手の心に残り、そして別れた後も、ずっと心の目でお互いに生き様を見ていくのだろう。
そう考えると、自分の生き様は、とても大事だ。
いい加減ではダメなのだ。
私は今でも亡き父の後ろ姿が忘れられない。
毎朝、仕事に自転車で走って行くときの後ろ姿だ。
小さな町工場で働く父は、立派な肩書はなかったが、一生懸命働いて子供達を育ててくれた。
学校の同級生、職場の人たち、ご近所、おじさん、おばさん、甥っ子や姪っ子、友達et cetera。
もうずっと会ってない人にも、自分に対する記憶が残っているかもしれない。
ましてや、我が子や夫、親や兄弟姉妹なら尚更、自分の記憶は残り続ける事だろう。
また、自分の何気ない親切が、自分の知らないところで、誰かの記憶に残ってるのかもしれない。
たとえ、今付き合いが無くても、自分の生き様はどこかで見られている。
そして、それによって尊敬されたり、落ちたと思われたりするのだろう。
例えば、昔付き合った人同士は、別れてからもお互いにずっとどこかで見ている。
実際に見ているのではなく、生き様を心で見ているのだ。
風の便りで入ってくる情報などで、その人の生き様を知ることがある。
私達は、別れたら終わりとか、縁が切れるわけではなく、自分の記憶は確かに相手の心に残り、そして別れた後も、ずっと心の目でお互いに生き様を見ていくのだろう。
そう考えると、自分の生き様は、とても大事だ。
いい加減ではダメなのだ。
私は今でも亡き父の後ろ姿が忘れられない。
毎朝、仕事に自転車で走って行くときの後ろ姿だ。
小さな町工場で働く父は、立派な肩書はなかったが、一生懸命働いて子供達を育ててくれた。