(山中新田に下る途中の景色)
<あまりにも美しすぎませんか?>
芦ノ湖に着いたのが11時、昼食をとって11時半には走り始めました。
まず、芦ノ湖畔にある杉並木。
以前、日光杉並木マラソンで杉並木を走りましたが、ここも立派な杉並木。
ただ、距離が短い!
そして、箱根の関所を通過
旧東海道は、より静かでひっそりとするのですが、面白い変化に富んだ街道になります。
こんな、ひなびた石塔群があり、
まさかの獣道かと思うような天井の低いトンネルをくぐり
木々が倒れていて、こんな荒れた道もあれば
こりゃ、本当に旧東海道なのか?と思うような息苦しいほどの狭い急登道もあり、実に楽しくなります。
かと思うと、今度は歩道のない車道だけの旧東海道(ここは危ない)
途中、ゴルフ場や藤やツツジが咲いてる場所を通過、右の写真のような入り口から、また静かな街道になったりします。
こんな竹のトンネルが100mぐらい続いたり(甲石坂)
なぜか、徳川有徳公(暴れん坊将軍吉宗のこと)遺石碑がありました。
調べたら、茶屋が近くにあって、その茶屋で休息をした吉宗より永樂銭を賜りそれ以後は「永楽屋」と名乗たそうですが、この碑は昭和10年に、宮ノ下の割烹料理店が資金をだして建てられたそうな。
その、石碑の斜め反対側に兜石なるものがあります。
兜の形状ににてるからと思ったら、豊臣秀吉が、急坂で休憩するのに脱いだ兜を掛けた石ということらしいです。
俺的には疑問符がついてしまうが、・・・?
本当は、先ほどの笹のトンネルの甲石(かぶといし)坂の下にあったが、すぐ近くの国道の拡張工事の際にこの石が工事の障害になり、移動したとのこと。
ところが掘ってみるとこの甲石、かなりの巨石だったので、地表に出ている部分だけカットしたらしい。
ド根性石だったわけです。
ですので地下の部分はまだ、以前の場所にあるのだそうです。
山ツツジの咲く道辺りは、石畳に慣れ、結構とばして歩いていました。
この辺は明るくて気持ちのいい場所
その旧東海道が突然、民家の庭先に出ます。
枯葉だらけの石畳もありました。
雲助徳利の墓
以下のような説明書きがありました。
この墓は昔から「雲助の墓」と言われています。墓石には盃と徳利が浮き出しており、その下に「久四郎」という名前が彫られています。彼は松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入りました。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きができるので、文字が読めない雲助たちの手紙を読んで雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。しかし、普段はお酒を飲んでごろごろしていたので命を縮めることになってしまったのです。彼を慕い彼に助けられた雲助仲間は、ある日相談して金を出し合い、生前お世話になったお礼に、立派なお墓をたてて恩返しすることにしました。そして、その墓には彼が一生飲み続けた酒を、盃と徳利で刻むことにしました。これが彼に対する最大の供養と考えたのです。
「箱根の雲助」は、悪者の代表のように言われています。しかし、もし雲助がいなかったら、箱根の坂をのぼれない弱い女性や病人はどうしたのでしょう。重い荷物は誰が運んだのでしょう。このほほえましい徳利の墓を見ていると、雲助たちの温かい人情が伝わってくるような気がします。なお、この墓の最初の位置は、山中の一里塚のあたりでしたが、いつの日かこの地に移ってきました。酒飲みの墓ですので、ふらふらして一箇所に落ち着かないようです。
平成10年12月 三島市
なかなか良い話なんで、そのまま載せました。
なお、陶器の世界でも雲助徳利なるものがあるみたいで、
【雲助徳利 うんすけとっくり】
主として焼酎を入れるのに用いた注ぎ口のある下手物徳利。
大小さまざまあって主に九州 ・ 山陽方面の窯から製出された。
焼酎は雲助が好んで用いた物であるためこの名がある。
略して雲助ともいう。
(原色陶器大辞典より)
勉強になりました。
なお、五街道雲助という落語家もいるみたいです。
そこから、しばらくすると表題画像のような開けた明るい旧東海道になります。
ああ、気持ちがいい・・・そう、思える場所なんですよ。
その石畳はこうです。↓
これだけで、もう明るい侘び寂びの世界!
あまりにも美しすぎませんか?
(つづく)
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NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
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芦ノ湖に着いたのが11時、昼食をとって11時半には走り始めました。
まず、芦ノ湖畔にある杉並木。
以前、日光杉並木マラソンで杉並木を走りましたが、ここも立派な杉並木。
ただ、距離が短い!
そして、箱根の関所を通過
旧東海道は、より静かでひっそりとするのですが、面白い変化に富んだ街道になります。
こんな、ひなびた石塔群があり、
まさかの獣道かと思うような天井の低いトンネルをくぐり
木々が倒れていて、こんな荒れた道もあれば
こりゃ、本当に旧東海道なのか?と思うような息苦しいほどの狭い急登道もあり、実に楽しくなります。
かと思うと、今度は歩道のない車道だけの旧東海道(ここは危ない)
途中、ゴルフ場や藤やツツジが咲いてる場所を通過、右の写真のような入り口から、また静かな街道になったりします。
こんな竹のトンネルが100mぐらい続いたり(甲石坂)
なぜか、徳川有徳公(暴れん坊将軍吉宗のこと)遺石碑がありました。
調べたら、茶屋が近くにあって、その茶屋で休息をした吉宗より永樂銭を賜りそれ以後は「永楽屋」と名乗たそうですが、この碑は昭和10年に、宮ノ下の割烹料理店が資金をだして建てられたそうな。
その、石碑の斜め反対側に兜石なるものがあります。
兜の形状ににてるからと思ったら、豊臣秀吉が、急坂で休憩するのに脱いだ兜を掛けた石ということらしいです。
俺的には疑問符がついてしまうが、・・・?
本当は、先ほどの笹のトンネルの甲石(かぶといし)坂の下にあったが、すぐ近くの国道の拡張工事の際にこの石が工事の障害になり、移動したとのこと。
ところが掘ってみるとこの甲石、かなりの巨石だったので、地表に出ている部分だけカットしたらしい。
ド根性石だったわけです。
ですので地下の部分はまだ、以前の場所にあるのだそうです。
山ツツジの咲く道辺りは、石畳に慣れ、結構とばして歩いていました。
この辺は明るくて気持ちのいい場所
その旧東海道が突然、民家の庭先に出ます。
枯葉だらけの石畳もありました。
雲助徳利の墓
以下のような説明書きがありました。
この墓は昔から「雲助の墓」と言われています。墓石には盃と徳利が浮き出しており、その下に「久四郎」という名前が彫られています。彼は松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入りました。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きができるので、文字が読めない雲助たちの手紙を読んで雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。しかし、普段はお酒を飲んでごろごろしていたので命を縮めることになってしまったのです。彼を慕い彼に助けられた雲助仲間は、ある日相談して金を出し合い、生前お世話になったお礼に、立派なお墓をたてて恩返しすることにしました。そして、その墓には彼が一生飲み続けた酒を、盃と徳利で刻むことにしました。これが彼に対する最大の供養と考えたのです。
「箱根の雲助」は、悪者の代表のように言われています。しかし、もし雲助がいなかったら、箱根の坂をのぼれない弱い女性や病人はどうしたのでしょう。重い荷物は誰が運んだのでしょう。このほほえましい徳利の墓を見ていると、雲助たちの温かい人情が伝わってくるような気がします。なお、この墓の最初の位置は、山中の一里塚のあたりでしたが、いつの日かこの地に移ってきました。酒飲みの墓ですので、ふらふらして一箇所に落ち着かないようです。
平成10年12月 三島市
なかなか良い話なんで、そのまま載せました。
なお、陶器の世界でも雲助徳利なるものがあるみたいで、
【雲助徳利 うんすけとっくり】
主として焼酎を入れるのに用いた注ぎ口のある下手物徳利。
大小さまざまあって主に九州 ・ 山陽方面の窯から製出された。
焼酎は雲助が好んで用いた物であるためこの名がある。
略して雲助ともいう。
(原色陶器大辞典より)
勉強になりました。
なお、五街道雲助という落語家もいるみたいです。
そこから、しばらくすると表題画像のような開けた明るい旧東海道になります。
ああ、気持ちがいい・・・そう、思える場所なんですよ。
その石畳はこうです。↓
これだけで、もう明るい侘び寂びの世界!
あまりにも美しすぎませんか?
(つづく)
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