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旧中仙道ランニング「中仙道走膝痛シ」・・・浦和宿~桶川宿(その2、半魚人)

2015年12月30日 | 中山道走膝痛シ(旧中山道ランニング)
八百姫大明神

これは、旧中仙道からちょっと100mほど外れた住宅街の中にひっそりとある祠である。
人魚の肉を食べて800歳まで生きたとされる伝説の八百比丘尼(やおびくに)がしばらく滞在した場所の石碑である。

八百比丘尼については次を参照されたい。→人魚を食べた娘の墓「八百比丘尼入定地 空印寺」【福井】

人魚というとアンデルセンの人魚姫のイメージなので、美しい人魚のその肉を食べてしまったというと恐ろしい話だと思ってしまう。


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス画(ウィキペディアの「人魚」よりお借りしました。)

だが、日本の人魚はちょっと違っていた。


(ウィキペディアの「日本の人魚」よりお借りしました。)

殆ど妖怪か怪獣の類である。
なんとなく、ちょっとホッとする。
だが、こんなもの気持ち悪くて食べられたものではない。
だが、祭られている女性は、なんの肉だか判らずに食べてしまったようだ。



だが、人魚というと、俺はもっと違うもの、「半魚人」を想像してしまうのだ。


海の司教。1531年バルト海にて捕獲とある。(ウィキペディア「半魚人」よりお借りしました。)

それも、オートマチックに脳裏に浮かび上がる「半魚人」は、2つあるのである。

まず、」第一は怖かったホラーマンガ、楳図かずおの「半魚人である。
怖いもの見たさでビビりながらページをめくり夢中で読んでいたが、それでもやはり夢に出そうで、一人で寝るのが怖くなったのを覚えている。


(画像はKenの漫画読み日記。よりお借りしました)


(画像はウメズ・ダイアローグ(4)半魚人よりお借りしました。)

そして、第二は俺が5歳のころTVでみた海底人8823である。
2億年前に、地球に大接近したツイフォン彗星のため海底に沈んだ高度な文明を持つエルデ大陸の生き残り人だが、これも、半魚人といえる。


これは、まだ5歳であったにもかかわらず、今でも主題歌を覚えているから、相当に強烈に影響を与えた番組だった。

主題歌

話は、旧中仙道から段々離れてしまいそうなので、ここでやめることにする。




道標を兼ねた馬頭観音供養塔(左側面に道案内あり)


南無三界萬霊塔




東大成の庚申塔(江戸時代前期の1697年建立)
正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されている。
また、近在の井上・清水・黒須・吉田・坪居・小川など14人と、 おまつ、お加めなど22人の女性の名が刻まれており、平方村(上尾市)の石屋・治兵衛の作である。
庚申信仰は、古くは中国の晋の時代、道教の思想から端を発し、奈良時代の日本に伝わった後、日本固有の信仰と結びついて発展ものだ。

以下、ウィキペディアの「庚申塔」より抜粋
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庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、庚申の日の夜 寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。

庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった。
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江戸時代の庶民にとって、今の様に仕事中でも電車の中でもスマホでゲームができてしまうように、簡単に娯楽が楽しめたわけではない。
だから、庚申(かのえさる)の日というのは60日毎に巡ってくるので、それを口実にできる2か月に1回の寝ずの楽しい宴会は最高だっただろう。
だから、この信仰はたちまち広まったと思われる。

しかも、60年に一度の庚申の年に庚申塔を建立することを原則としていたから、実際のところは、もっと多くの庚申塔があったはずである。
だが、残念なことに、明治時代の愚行である「明治天皇や神道に“権威”を与える為に行われた神仏分離と廃仏毀釈」によって、時の政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めたらしい。

余談ではあるが、この時に、猛反対をした
知の巨人、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチといわれている、あの
南方熊楠を俺は尊敬している。
命懸けで熊野の森と杜(もり、神社)を守ろうと、明治政府に体当たりをかけた人物である。

こういう太い人間になりたいものだ。



旧街道は、国道17号線を横切る。
その途端に交通量は減った。
排ガスを多量摂取しなくてすむようになった。


休憩しようと思って入ったローソンだが、WCがなく、パス!

その先にあったセブンに入り、休憩。
大福もちと暖かい紅茶ラテを購入。


天満宮
もとはここに茶屋が2軒あったらしい。


天神橋バス停の堀の合間にヒッソリとある庚申塔


加茂神社

ここは大宮宿と上尾宿の中間地点である。
英泉はここを上尾宿として描いている。

『木曾街道 上尾宿 加茂之社』英泉画 


小学校敷地内にある樹齢120年のセンダンである。

実がたくさんついていた。

センダンには南方熊楠にまつわる話がある。

以下、南方熊楠顕彰館のHPより抜粋
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センダンの花

古くはオウチといわれ楝、樗の漢字があてられる。神島にも自生し、遠目に見るとフジの花のように美しいと熊楠は讃え、昭和4年、ご進講のあと「有難き御世に樗の花盛り」とその心境を詠った。また、臨終の床で「天井に紫の花が咲いている」と詩のような言葉を遺したが、それは夢うつつに現れたセンダンの花だろうといわれている。
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「南方」続きなのだが、これまた、偶然ではあるが、神木のすぐ近くに南方神社があった。



「南方神社」=「諏訪神社」である。
諏訪の祭神「建御名方命(たけみなかたのみこと)」の別名「南方刀美(みなかたとみ­)」からとった名称
で、どういうわけか、南方神社と呼ぶのは鹿児島地方独特の習慣らしい。
だが、なぜこの遠く離れた埼玉の土地で、諏訪神社ではなく南方神社と呼ぶのであろうか?
実に不思議なことである。

俺が行ったときは、祭りの稽古だと思うが神社の脇の集会所らしきところで太鼓の練習をしていた。



ここまで「南方」続きなので、オマケに言ってしまおう。

南方というと 漫画及びテレビドラマ『JIN-仁-』の主人公、南方仁が浮かんでくるだろう。
一説によると、その主人公のモデルは『南方熊楠』といわれているのだ。






(つづく)






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