つづいて野田尻宿に向かっていきます。
中央高速の建設により砦跡が全て破壊されてしまって石碑がたってました。
---------〔現地解説板より 上野原市教育委員会〕
鳶が崎から矢坪坂付近までの丘陵を長峰と呼んでいました。この長峰の鳶が崎や鳶の巣はたびたび北条氏と武田氏が小競り合いをした中世の古戦場でした。ここに加藤丹後守景忠が砦を築き、外敵進攻に備えたと言われます。
ここは古から交通の要所であったので戦国時代甲斐と関東の武将の勢力争いで、
この地を戦略拠点とするため長峰(山城)を築いたという。
江戸時代になり砦の傍らを通る山道が甲州街道として整備された。
長峰砦についての歴史の詳細は不明だが、戦国期に上野原の加藤丹後守が、その出城として築いたといわれる。
現在は中央自動車道の工事によって消滅し、かたわらに石碑があるのみである。 工事に先立つ発掘調査によって郭、堀切、横堀の跡が見つかった。
また尾根筋を縫うように幅1m余りの道路跡が断続的に確認され、江戸期の「甲州街道」に相当すると見られている。
---------
画像は◆戦国の足跡を求めて...since2009◆よりお借りしました。
砦と聞くだけで、黒澤明監督の時代劇「隠し砦の三悪人」が思い出されます。
なんとなく、その辺の野原で黒澤明が映画でも撮ってるかのような気になります。
隠し砦の三悪人(プレビュー)
それと砦(小さな城)といえば「小よく大を制す」的な話で、「のぼうの城」も浮かびますね。
中国なら「墨攻」でしょうか。
孫子の兵法的な話は人生にも通じていて面白いです。
芭蕉句碑
中央高速自動車道の建設中、その破壊された長峰砦跡には「濁り池」、「殿の井戸」と呼ぶ泉があったようですが、その砦跡には俳人松尾芭蕉とその門人の各務支考の句碑も発見されています。
古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
あかりてはさかりて明けては夕雲雀(支考)
この池のそばに、この句碑があったので甲州人は有名な「古池や蛙飛び込む水の音」の句は、このあたりで詠まれたのだと主張しているみたいです。
(西国三十三所 第十二番札所、岩間山正法寺だという人も、いやいや深川の芭蕉庵だという人もいて、よくわからないらしい)
さてさて、自分にとって、このなんということもない?石碑を随分と昔に是非みたい!と思った人がいました。
というのも、ネットで野田尻宿とか、次の宿場の犬目宿とかを調べていたら「つげ義春、猫町紀行」という言葉が出てきたんです。
青年漫画誌『ガロ』のカルト系の作家、つげ義春です。
画像はUnderground Magazine Archivesよりお借りしました。
(なお、画像中にあるつげ忠男はつげ義春の弟です。)
「猫町紀行」はつげ義春の随筆で、ウィキペディアで調べたら、こう書かれてました。
---------以下、ウィキペディアより一部抜粋
犬目宿は現在の甲州街道を上野原で別れ、さらに旧道を10kmほど進んだ先の山中にある宿場である。2人は、上野原で名物の酒饅頭を買い、旧道を走り鶴川を通過し野田尻宿を目指した。中央道の建設で跡形もなくなった松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の古池の石碑と野田尻宿を見たいと考えたからである。
---------
そこで、早速、図書館で借りてみました。
「猫町紀行」は「貧困旅行記」の中に納められていました。
文章を読むと、二人は実際には石碑を見つけることができないまま野田尻宿へ、向かったようでした。
そこからは、犬目宿に向かっているのですが、以下、次のような文になっています。
「・・・
両側は鬱蒼とした樹木に目隠しされた見通しの悪い、うっかりすると雑草の中に消えてしまいそうな心細い道であった。迷ったような気配を感じながらも、どうにか登りきると高台の頂上に出た。頂上にはすぐ交差する道があり横切るとまた下り坂であったが、私は横切る一瞬の間にその道の左右に目をやり、そこがどうやら犬目宿でないかと思った。五、六メートルの道幅をはさんで宿場らしい趣の家が立ち並んでいたのである。
猫町紀行より(つげ義春の犬目宿の印象である)
ちょうど陽の落ちる間際であった。あたりは薄紫色に包まれ、街燈がぽーっと白くともっていた。
・・・(中略)
急に目の前にした光景をみて、ことさら別世界に、人里離れた隠里に迷い込んだように思えたのだった。
・・・」
自分もこのあと、犬目宿に向かうのですが、つげ義春の書く通り、旧甲州街道は旅人にとっては、とんでもない雑草の中の心細い道になっていきます。
そして、人里離れた隠里の意味が解るのです。
高速脇にあった謎の怪しい構築物
トイレがたくさん並んでいるように見えるのです?
〇〇サティアンの〇〇装置みたいな・・・ようにもみえます。
なんだろう?
気になってしょうがありません。
誰か、教えて!
この妙に景色の良い坂を気持ちよく一気に下ると中央高速の反対側に出られる小さな小さなトンネルがありました。
出た反対側にあった高速道路上に出られる階段
あがったところに高速バスの停留所があるようです。
もしランの途中でバテバテになったら、ここから東京に帰れる直行バスにのれるみたいです。
ここら辺りは、バス停も駅もないので旅ランのマニアックな重要ポイントですね。
真っ直ぐな街道沿いの鄙びた野田尻宿です。
日本橋から20番目の比較的小さな宿場。
お店みたいな商業施設はみられません。
そしてお決まりのようにある明治天皇の休憩所碑
ちょっと休んだだけでも記念碑が立つのでしょうか?
とにかく、長かった江戸時代の幕藩体制を突然に壊し、明治維新で存在すら知らない天皇の存在、有難味を庶民の心に強烈に根付かせるため、明治天皇はボーっとしてるわけにいかず大変だったんでしょうね。
ひとつひとつの家が大きいですね。
これは鄙びた郵便局ですね。
なぜかポストが2つです。
古いのはオブジェですかね。
新しいポストはゲゲゲの鬼太郎ポストにしてあればより風情があったかな。
川合集落の西外れにあった野田尻宿の鎮守で珍しい名前の犬嶋神社
野田尻宿の西端の西光寺前にお玉ヶ井という石碑がありました。
---------
お玉井戸(以下、龍鱗よりお借りしました)
山梨県上野原市
野田尻が宿場として栄えていた昔、大椚から入る所に長峰の池という池があり、風趣に満ちていた。その頃、野田尻宿のえびす屋という宿屋にお玉という美しい女中がおり、近在の若者たちのあこがれの的だった。おかげでえびす屋は大賑わいだったが、ひときわ目立つ美しい若者が夜ごと通うようになった。
お玉と若者は恋に落ち、夜な夜な逢瀬を重ねたが、帰ってくるお玉がいつも全身びっしょりなのをいぶかしく思い、主人が訳を訊いた。すると、お玉は恋人は長峰の池の主であるのだという。そして、もう屋敷に仕えるわけにはいかなくなった、お暇をいただきたい、という。
わが娘のように可愛がっていたお玉であったので主人も悩んだが、ついには折れて、涙ながらに暇を出した。お玉は深く感謝して、野田尻は水が足りなくて困る土地なので、望む場所にきれいな水を出しましょう、といって去った。こうしてできた井戸がお玉井戸と呼ばれた。お玉自身が池の主の竜神だった、という話もある。
---------
「大椚から入る所に長峰の池」というと、あの「古池や・・・」の長峰砦の池の事ですよね。
この辺りでは、水こそは生活にかかせないものであるとともに、長峰砦の辺りは水利という観点で籠城戦に強い戦略的にも価値のある場所であったという事でしょうか?
大きな臨済宗の西光寺、創建は天長元年(824)
このお寺の右側の細い道が旧甲州街道です。
最初、道なりに行ってしまい気がついて引き返しました。
道脇にある石仏群
萩野一里塚跡に到着
ここも道を間違いやすい場所です。
右の細い坂が旧甲州街道になります。
そこに案内板が立てかけてありました。
矢坪坂の古戦場跡の案内板
---------
大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂 と言い、昔は、山腹と崖との間を道が入り組む要害の地でした。
享禄3年(1530)4月23日、甲斐国の郡内領主であった小山田信有 の軍勢が、相模国の北条氏綱 を矢坪坂で迎え撃ち、激戦を展開しました。戦いの末、小山田勢は敗れ、多数の死者が出たと伝えられています。
現在、戦いをしのぶ跡はありませんが、付近では時々、矢じりが掘り出されることがあったといいます。
一説によると、矢坪の武甕槌神社(軍勢神社)や神殿の丹勢神社 は、この戦いの際に祀られたといわれています。
平成29年3月 上野原市教育委員会
---------
案内板からすると、ちょっと面白そうな地形のようです。
そう、猫町紀行の世界に入っていくのでした。
(つづく)
当ブログは若者の自立を支援する団体、NPO法人ネイチャーズを応援しています。
NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
当ブログはボランティア団体不登校・ひきこもりの親の会 FIRST STEPを応援しています。
人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加してます。宜しかったらポチっとクリック願います!
中央高速の建設により砦跡が全て破壊されてしまって石碑がたってました。
---------〔現地解説板より 上野原市教育委員会〕
鳶が崎から矢坪坂付近までの丘陵を長峰と呼んでいました。この長峰の鳶が崎や鳶の巣はたびたび北条氏と武田氏が小競り合いをした中世の古戦場でした。ここに加藤丹後守景忠が砦を築き、外敵進攻に備えたと言われます。
ここは古から交通の要所であったので戦国時代甲斐と関東の武将の勢力争いで、
この地を戦略拠点とするため長峰(山城)を築いたという。
江戸時代になり砦の傍らを通る山道が甲州街道として整備された。
長峰砦についての歴史の詳細は不明だが、戦国期に上野原の加藤丹後守が、その出城として築いたといわれる。
現在は中央自動車道の工事によって消滅し、かたわらに石碑があるのみである。 工事に先立つ発掘調査によって郭、堀切、横堀の跡が見つかった。
また尾根筋を縫うように幅1m余りの道路跡が断続的に確認され、江戸期の「甲州街道」に相当すると見られている。
---------
画像は◆戦国の足跡を求めて...since2009◆よりお借りしました。
砦と聞くだけで、黒澤明監督の時代劇「隠し砦の三悪人」が思い出されます。
なんとなく、その辺の野原で黒澤明が映画でも撮ってるかのような気になります。
隠し砦の三悪人(プレビュー)
それと砦(小さな城)といえば「小よく大を制す」的な話で、「のぼうの城」も浮かびますね。
中国なら「墨攻」でしょうか。
孫子の兵法的な話は人生にも通じていて面白いです。
芭蕉句碑
中央高速自動車道の建設中、その破壊された長峰砦跡には「濁り池」、「殿の井戸」と呼ぶ泉があったようですが、その砦跡には俳人松尾芭蕉とその門人の各務支考の句碑も発見されています。
古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
あかりてはさかりて明けては夕雲雀(支考)
この池のそばに、この句碑があったので甲州人は有名な「古池や蛙飛び込む水の音」の句は、このあたりで詠まれたのだと主張しているみたいです。
(西国三十三所 第十二番札所、岩間山正法寺だという人も、いやいや深川の芭蕉庵だという人もいて、よくわからないらしい)
さてさて、自分にとって、このなんということもない?石碑を随分と昔に是非みたい!と思った人がいました。
というのも、ネットで野田尻宿とか、次の宿場の犬目宿とかを調べていたら「つげ義春、猫町紀行」という言葉が出てきたんです。
青年漫画誌『ガロ』のカルト系の作家、つげ義春です。
画像はUnderground Magazine Archivesよりお借りしました。
(なお、画像中にあるつげ忠男はつげ義春の弟です。)
「猫町紀行」はつげ義春の随筆で、ウィキペディアで調べたら、こう書かれてました。
---------以下、ウィキペディアより一部抜粋
犬目宿は現在の甲州街道を上野原で別れ、さらに旧道を10kmほど進んだ先の山中にある宿場である。2人は、上野原で名物の酒饅頭を買い、旧道を走り鶴川を通過し野田尻宿を目指した。中央道の建設で跡形もなくなった松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の古池の石碑と野田尻宿を見たいと考えたからである。
---------
そこで、早速、図書館で借りてみました。
「猫町紀行」は「貧困旅行記」の中に納められていました。
文章を読むと、二人は実際には石碑を見つけることができないまま野田尻宿へ、向かったようでした。
そこからは、犬目宿に向かっているのですが、以下、次のような文になっています。
「・・・
両側は鬱蒼とした樹木に目隠しされた見通しの悪い、うっかりすると雑草の中に消えてしまいそうな心細い道であった。迷ったような気配を感じながらも、どうにか登りきると高台の頂上に出た。頂上にはすぐ交差する道があり横切るとまた下り坂であったが、私は横切る一瞬の間にその道の左右に目をやり、そこがどうやら犬目宿でないかと思った。五、六メートルの道幅をはさんで宿場らしい趣の家が立ち並んでいたのである。
猫町紀行より(つげ義春の犬目宿の印象である)
ちょうど陽の落ちる間際であった。あたりは薄紫色に包まれ、街燈がぽーっと白くともっていた。
・・・(中略)
急に目の前にした光景をみて、ことさら別世界に、人里離れた隠里に迷い込んだように思えたのだった。
・・・」
自分もこのあと、犬目宿に向かうのですが、つげ義春の書く通り、旧甲州街道は旅人にとっては、とんでもない雑草の中の心細い道になっていきます。
そして、人里離れた隠里の意味が解るのです。
高速脇にあった謎の怪しい構築物
トイレがたくさん並んでいるように見えるのです?
〇〇サティアンの〇〇装置みたいな・・・ようにもみえます。
なんだろう?
気になってしょうがありません。
誰か、教えて!
この妙に景色の良い坂を気持ちよく一気に下ると中央高速の反対側に出られる小さな小さなトンネルがありました。
出た反対側にあった高速道路上に出られる階段
あがったところに高速バスの停留所があるようです。
もしランの途中でバテバテになったら、ここから東京に帰れる直行バスにのれるみたいです。
ここら辺りは、バス停も駅もないので旅ランのマニアックな重要ポイントですね。
真っ直ぐな街道沿いの鄙びた野田尻宿です。
日本橋から20番目の比較的小さな宿場。
お店みたいな商業施設はみられません。
そしてお決まりのようにある明治天皇の休憩所碑
ちょっと休んだだけでも記念碑が立つのでしょうか?
とにかく、長かった江戸時代の幕藩体制を突然に壊し、明治維新で存在すら知らない天皇の存在、有難味を庶民の心に強烈に根付かせるため、明治天皇はボーっとしてるわけにいかず大変だったんでしょうね。
ひとつひとつの家が大きいですね。
これは鄙びた郵便局ですね。
なぜかポストが2つです。
古いのはオブジェですかね。
新しいポストはゲゲゲの鬼太郎ポストにしてあればより風情があったかな。
川合集落の西外れにあった野田尻宿の鎮守で珍しい名前の犬嶋神社
野田尻宿の西端の西光寺前にお玉ヶ井という石碑がありました。
---------
お玉井戸(以下、龍鱗よりお借りしました)
山梨県上野原市
野田尻が宿場として栄えていた昔、大椚から入る所に長峰の池という池があり、風趣に満ちていた。その頃、野田尻宿のえびす屋という宿屋にお玉という美しい女中がおり、近在の若者たちのあこがれの的だった。おかげでえびす屋は大賑わいだったが、ひときわ目立つ美しい若者が夜ごと通うようになった。
お玉と若者は恋に落ち、夜な夜な逢瀬を重ねたが、帰ってくるお玉がいつも全身びっしょりなのをいぶかしく思い、主人が訳を訊いた。すると、お玉は恋人は長峰の池の主であるのだという。そして、もう屋敷に仕えるわけにはいかなくなった、お暇をいただきたい、という。
わが娘のように可愛がっていたお玉であったので主人も悩んだが、ついには折れて、涙ながらに暇を出した。お玉は深く感謝して、野田尻は水が足りなくて困る土地なので、望む場所にきれいな水を出しましょう、といって去った。こうしてできた井戸がお玉井戸と呼ばれた。お玉自身が池の主の竜神だった、という話もある。
---------
「大椚から入る所に長峰の池」というと、あの「古池や・・・」の長峰砦の池の事ですよね。
この辺りでは、水こそは生活にかかせないものであるとともに、長峰砦の辺りは水利という観点で籠城戦に強い戦略的にも価値のある場所であったという事でしょうか?
大きな臨済宗の西光寺、創建は天長元年(824)
このお寺の右側の細い道が旧甲州街道です。
最初、道なりに行ってしまい気がついて引き返しました。
道脇にある石仏群
萩野一里塚跡に到着
ここも道を間違いやすい場所です。
右の細い坂が旧甲州街道になります。
そこに案内板が立てかけてありました。
矢坪坂の古戦場跡の案内板
---------
大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂 と言い、昔は、山腹と崖との間を道が入り組む要害の地でした。
享禄3年(1530)4月23日、甲斐国の郡内領主であった小山田信有 の軍勢が、相模国の北条氏綱 を矢坪坂で迎え撃ち、激戦を展開しました。戦いの末、小山田勢は敗れ、多数の死者が出たと伝えられています。
現在、戦いをしのぶ跡はありませんが、付近では時々、矢じりが掘り出されることがあったといいます。
一説によると、矢坪の武甕槌神社(軍勢神社)や神殿の丹勢神社 は、この戦いの際に祀られたといわれています。
平成29年3月 上野原市教育委員会
---------
案内板からすると、ちょっと面白そうな地形のようです。
そう、猫町紀行の世界に入っていくのでした。
(つづく)
当ブログは若者の自立を支援する団体、NPO法人ネイチャーズを応援しています。
NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
当ブログはボランティア団体不登校・ひきこもりの親の会 FIRST STEPを応援しています。
人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加してます。宜しかったらポチっとクリック願います!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます