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旧中仙道ランニング「中仙道走膝痛シ」・・・日本橋~浦和宿(その2、恨み節)

2015年12月21日 | 中山道走膝痛シ(旧中山道ランニング)

都電荒川線庚申塚駅だ。
写真では薄暗くてよく見えないが、この駅ホームには甘味処「いっぷく亭」がくっついている。
駅ナカ店舗だが、勿論、切符がなくても入店できる。
まだ、一度も入ったことがないが、・・・。


ファイト餃子、店は満員だった。
外で入れずに雨の中、待っている人がいた。
ここは結構有名な店(食べログで東京の餃子ベスト100のうち、現時点で46位)である。
昼飯(チャーハン餃子セット)をココでたべるつもりでいたが、カッパを着たまま並んでいるのは嫌だったのでパス。


東京種苗(幕末から巣鴨庚申塚で種子問屋を営む榎本留吉商店の建物)である。
この建物は明治初期のもの。

明治時代から昭和10年代頃まで、中仙道のこの辺りは「種子屋(たねや)通り」と呼ばれ多くの野菜の種子屋があったらしい。
が、今回走って気が付いた種苗店は3店舗のみである。

このお店の建物は、誰も住んでいないようで荒れ始めている気がした。
旧中仙道の貴重な歴史的建物だから、なんとしても大切に保存してもらいたい。

その裏手にネジネジの奇妙な建物がみえた


大正大学のサザエ堂
たしかにサザエみたいな形をしているが、正式には「すがも鴨台観音堂」というらしい。
二重らせん構造の坂が建物の周りを巻いている。
二重らせんとは立体的に常に2本のラインが平行(常に同じ距離)した螺旋構造で、DNAも二重らせん構造だ。
だから、登りの坂とは別の坂で降りてこられるはずである。

DNA


亀の子タワシ本舗 西尾商店
今では世界中で愛される亀の子タワシは、この会社の初代社長、西尾正左衛門が考案したものだ。

タワシ健康法は有名だが、その効能が西尾商店のHPに書かれている。・・・たわし健康法




旧中仙道はこんな感じ(板橋宿)


渓斎英泉筆 板橋宿


板橋駅前にある新選組の墓碑(近藤勇の胴体が埋葬されたといわれる墓所)

街道から100mほど離れた場所にあるが、寄って手を合わせてきた。

一説には、新選組の近藤勇は、官軍が正式な裁判などの手続きを経ずして、この付近にあったとされる馬捨場でアッサリと斬首されてしまったという。
官軍側は池田屋事件で多くの有能な同志を失っていたから、新選組に対する恨みは尋常ではなかった。
近藤は裁判もうけず、実に無念であったと思う。
まさに家畜並みの扱いだったのかもしれない。・・・参考:牛捨場馬捨場 喜田貞吉


吉田類が彷徨っていそうな踏切そばの路地


観明寺の庚申塔(1661年建立)
青面金剛像が刻まれている。


雨だというのに行列のできるラーメン屋
はちどり」という店だった。


板五米店
レンガ造りの防火壁が素晴らしい。
店はやっていないようだった。
こういう建物は使わないとドンドン荒れてしまう。


鰻屋である。

休日なんで閉まっている。
旧東海道ランではウナギを食するタイミングがわるく、一度も食べられなかった。
昼時になるとウナギ屋がない地域を走っていた。
今回は、どこかで絶対食べるぞ!



これが、板橋だ。
地名の由来になった橋である。

板橋は飯盛旅館屋(実際は女郎屋)の多かった宿場である。
-----以下、花街ぞめき より一部抜粋-----
幕府がずるいのは、宿場運営には自ら金をださず、義務、労役、維持を宿場に一方的に課したことで、宿場としては旅籠経営ぐらいでは到底立ち行かず、殆どの宿場では、遊里渡世をして凌いでいくしか生きる道は無かったのです。
-----


橋の上からの景色




昭和レトロな中華屋「かさま」。
ここで食事をとることにした。

店の雰囲気はこんな感じの伝統的昭和風中華店である。

(写真は中華かさま@板橋仲宿~ソースカツ丼は何式? よりお借りしました。)
入った時は誰もいなかったが、次から次へと客が来て地元で愛されるラーメン屋という店だった。
ご夫婦だけで切り盛りされているようだ。

丁度、ふたりでクィーンズ駅伝のTVを見ている最中にお邪魔してしまったようである。

食べたのは旅ランの友、究極の炭水化物メニューの半チャン・ラーメン(800円)である。

結構、うまい!
チャーハンは、あの「マツコの知らない板橋のシットリチャーハンの世界」である。

とにかく、ここで荷をおろし、カッパをぬぎ、ちょっと濡れた体を乾かし、食べた満足感もあってホッとしたのである。
このホッとした感が魂に安らぎを与え、たまらなく良い。
江戸時代も雨宿りの茶店では、こんな気分だったろう。



こういう感じのレトロな店では、俺的にはだが、
瓶ビールのスーパードライを2本ぐらいユックリ飲みながら、前菜として、餃子、できればニラレバ炒めもつまみ、その後、メインディッシュのラーメンを食べるのが正式マナーである。
そして、駅伝のTVを食い入る様につらつらと見るのが俺のあるべき本来の姿なのだが、ここは堪えて、お店のおいちゃん、おばちゃんに
ごめんなすって!
と次の宿場へ急いだのだった。

旅ランはつらいよ


これは縁切り神社と縁切榎である。
男女の縁を切りたいとき、ここの榎の樹皮を煎じて飲ませれば、その願いがたちどころに成就するという、ちょっと恐ろしいところである。
祠の脇に絵馬がかけられているのだが、ちょっと
オドロオドロした女性の恨み節
が書かれたものばかりで、とても直視できない。


梶芽衣子の恨み節を思い出してしまった。

あの皇女和宮降嫁の大行列も縁切り榎を避けてう回路を通ったそうだ。
とにかく、強烈なるパワースポットである。

また、さらに強烈な歴史がある。
この辺りから環七までのあたりの中仙道岩の坂(板橋区本町)は明治のころから昭和まで乞食のたまり場だった場所だ。
通称、乞食通りである。
以下のような悲しい歴史のある場所なのだ。

-------------ウィキペディア(貰い子殺人より抜粋)
板橋貰い子殺し事件(1930年発覚)
東京の板橋にあった岩の坂地区で貰い子が1年で41人が殺害された疑惑が発覚した。この地区の長屋の住民には、古くから上流階級などの不義の新生児などを貰い、子殺しをしていた者がいたとみられる。容姿の優れた女児と体力のある男児は育て、炭鉱夫や遊女として売ることもあったという。また、わずかな期間で不審な死に方をした新生児もおおかったが、犯罪として実証された事例はほとんどなかったようだという。なお、この事件をスクープしたのは東京朝日新聞の三角寛記者であるが、彼の経歴から事実が誇張された可能性もあるという。
-------------

板橋宿は近藤勇、女郎屋、縁切り榎、乞食通りと「恨み節」の宿場だった。
もちろん、現在は、そのような面影など全くなく、明るく綺麗な住宅街、商店街である。


旧中仙道は、堂々たる環状7号線の下を、申し訳なさそうにくぐる


このあたりで、旧中仙道は国道17号線と合流する。
雨が降っているからか、さほど排気ガスは気にならなかった。


志村の一里塚
木は植え替えられているが、塚自体は完全な形で残されている。


道路を挟んで反対側の一里塚だ。
となりに立派な家が建っていて、美しい。

(つづく)





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