沓掛宿のローソンから出発(先輩撮影)
朝、出発する前にローソンで食料調達をしました。
そのローソンに大学時代の先輩が応援に来てくれました。
たまたま軽井沢近辺にいた先輩(2名)が私のFBをみて、わざわざ出発前に激励に来てくれたのでした。
(本当に有難うございました。
嬉しかったです。)
二十三夜塔と木の根元に数体の小さな石仏
沓掛時次郎がこの木陰で休んでいそうな感じがします。
なんとなく、のんびりした中仙道の象徴のような景色だと思いました。
トンネル栽培の畑に花
農作業のゆとりを感じますね。
でも、キク科の花みたいですから、もしかすると無農薬野菜を育てるため、防虫効果のある花を植えているのかもしれません。
何の花?アジサイ?
立派なログハウス
旧中仙道(借宿)の女街道入り口
上州下仁田に通じる裏街道で、「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳しい碓氷関所を避ける女人が利用した道。
この辺りは借宿村といって、間の宿だったそうですが、ここから南軽井沢を横切り和美峠を越えて
上州、下仁田に至る道が女街道と呼ばれてます。
街道入り口に説明板があって
「関所さけて、女人が多く往来せし 女街道というは寂しも」
と書かれてありました。
遠近宮(おちこちぐう)創立年代不詳
珍しい名前の神社。
信濃なる浅間の嶽にたつ煙 をちこち人の見やはとがめぬ
在原業平朝臣(伊勢物語)
御神体は浅間山で、この歌から名付けられたそうです。
しかし、遠近を「をちこち」と読むなんて難しすぎますね。
彼方此方とも書くみたいですが、その字から考えると
「あち・こち」「あっち・こっち」
とよく言いますよね。
うん、なるほど。
そういうことか
土屋作右衛門家
だそうです。
その鬼瓦
家の脇に無造作に置かれてました。
浅間山が大きく見えます。
浅間山というと最初にすぐ思い出すのは連合赤軍が人質をとってたてこもった浅間山荘事件ですかね。
場所は中仙道よりずっと南の軽井沢72ゴルフコースの最南端の先あたりにあるみたいです。
調べていたらinfoseekのマンガニュースに「酷寒の攻防 あさま山荘事件」というのがありました。
当時のことを思い出そうと中を覗いていたら
「日清カップヌードルが流行った理由は味ではなく浅間山荘事件がキッカケである?」
というのがありました。
ほんとうォ?
-----以下、『カップヌードルにはなぜエビが入っている?~そこには深いワケがあった』より抜粋-----
昭和47年におきた「あさま山荘事件」が、カップヌードルを全国的に広めることになります。
数多くの機動隊の食事として、カップヌードルが選ばれました。当時の事件現場は、マイナス15度にもなる極寒であり、通常の弁当であれば凍りついてしまい食べられないのです。
その点、カップヌードルであればお湯を注いで3分、凍りつく前に温かいまま食べきることが可能です。
その映像がテレビ中継され、カップヌードルは一斉に注目を浴びました。首都圏のみでなく、その後、全国的に販売されることとなり、またたく間にカップヌードルは国民的食べ物となります。
------------
そうだったんですね。
当時、事件のTV中継はずっと見ていたんですが、まったく気が付きませんでした。
10m近い高さの築山上に祀られた馬頭観音
よほど大事な愛馬がここで死んだのでしょうか?
追分宿の浅間神社
追分宿に入りました。
木曾街道 追分宿・浅間山眺望(英泉)
江戸時代に描かれた浅間山の形が興味深いですね。
今の形と全然違います。
噴火と山体崩壊で変わったんでしょうが、違いすぎです。
堀辰雄文学記念館
追分宿は堀辰雄安住の地だそうで、この門は本陣の裏門を移築したものです。
立派な門ですね。
堀辰雄の本は読んだことがないです。
「風立ちぬ」という本の題名だけは知ってます。
ジブリ・宮崎監督の「風立ちぬ」はTVでみたかな。
地元の人たちの日曜バザール
良いものがあったら購入したいけど、持って走るのは厳しいです。
だから、あえて見ずにパス。
整備された追分宿
なんだか綺麗に整備されすぎて旧街道という感じがしませんね。
この辺りは飯盛り女が沢山いて、リトル歌舞伎町みたいに騒々しいほどに賑わっていたんだろうと思います。
でも、やはり追分という名がつくと、英泉の画のような大きな荷を積んだ馬子のイメージですかね。
そこで、追分節を聞きながら、先ほどの画をみながら、当時の街道を想像してみました。
いい感じです
桝形茶屋つがるや(追分宿の京口)
茶屋自体はやってないみたいです。
宿場町によくある軍事目的の桝形の角のところにあった茶屋のようです。
この建物の奥の方に駐車場らしきところがあって、古そうな石垣があるのですが、桝形の名残ですかね?
その漆喰壁
外気に剥き出しなんですが、よく傷がつかないで綺麗に残ってますね。
漆喰の丈夫さを感じます。
北国街道との追分
追分宿の名の由来になった場所です。
-----北国街道(信越)-----ウィキペディアより
北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。
追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。
------------
街道はゆるい下り坂がずっと続きます。
(つづく)
当ブログは若者の自立を支援する団体、NPO法人ネイチャーズを応援しています。
NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
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朝、出発する前にローソンで食料調達をしました。
そのローソンに大学時代の先輩が応援に来てくれました。
たまたま軽井沢近辺にいた先輩(2名)が私のFBをみて、わざわざ出発前に激励に来てくれたのでした。
(本当に有難うございました。
嬉しかったです。)
二十三夜塔と木の根元に数体の小さな石仏
沓掛時次郎がこの木陰で休んでいそうな感じがします。
なんとなく、のんびりした中仙道の象徴のような景色だと思いました。
トンネル栽培の畑に花
農作業のゆとりを感じますね。
でも、キク科の花みたいですから、もしかすると無農薬野菜を育てるため、防虫効果のある花を植えているのかもしれません。
何の花?アジサイ?
立派なログハウス
旧中仙道(借宿)の女街道入り口
上州下仁田に通じる裏街道で、「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳しい碓氷関所を避ける女人が利用した道。
この辺りは借宿村といって、間の宿だったそうですが、ここから南軽井沢を横切り和美峠を越えて
上州、下仁田に至る道が女街道と呼ばれてます。
街道入り口に説明板があって
「関所さけて、女人が多く往来せし 女街道というは寂しも」
と書かれてありました。
遠近宮(おちこちぐう)創立年代不詳
珍しい名前の神社。
信濃なる浅間の嶽にたつ煙 をちこち人の見やはとがめぬ
在原業平朝臣(伊勢物語)
御神体は浅間山で、この歌から名付けられたそうです。
しかし、遠近を「をちこち」と読むなんて難しすぎますね。
彼方此方とも書くみたいですが、その字から考えると
「あち・こち」「あっち・こっち」
とよく言いますよね。
うん、なるほど。
そういうことか
土屋作右衛門家
だそうです。
その鬼瓦
家の脇に無造作に置かれてました。
浅間山が大きく見えます。
浅間山というと最初にすぐ思い出すのは連合赤軍が人質をとってたてこもった浅間山荘事件ですかね。
場所は中仙道よりずっと南の軽井沢72ゴルフコースの最南端の先あたりにあるみたいです。
調べていたらinfoseekのマンガニュースに「酷寒の攻防 あさま山荘事件」というのがありました。
当時のことを思い出そうと中を覗いていたら
「日清カップヌードルが流行った理由は味ではなく浅間山荘事件がキッカケである?」
というのがありました。
ほんとうォ?
-----以下、『カップヌードルにはなぜエビが入っている?~そこには深いワケがあった』より抜粋-----
昭和47年におきた「あさま山荘事件」が、カップヌードルを全国的に広めることになります。
数多くの機動隊の食事として、カップヌードルが選ばれました。当時の事件現場は、マイナス15度にもなる極寒であり、通常の弁当であれば凍りついてしまい食べられないのです。
その点、カップヌードルであればお湯を注いで3分、凍りつく前に温かいまま食べきることが可能です。
その映像がテレビ中継され、カップヌードルは一斉に注目を浴びました。首都圏のみでなく、その後、全国的に販売されることとなり、またたく間にカップヌードルは国民的食べ物となります。
------------
そうだったんですね。
当時、事件のTV中継はずっと見ていたんですが、まったく気が付きませんでした。
10m近い高さの築山上に祀られた馬頭観音
よほど大事な愛馬がここで死んだのでしょうか?
追分宿の浅間神社
追分宿に入りました。
木曾街道 追分宿・浅間山眺望(英泉)
江戸時代に描かれた浅間山の形が興味深いですね。
今の形と全然違います。
噴火と山体崩壊で変わったんでしょうが、違いすぎです。
堀辰雄文学記念館
追分宿は堀辰雄安住の地だそうで、この門は本陣の裏門を移築したものです。
立派な門ですね。
堀辰雄の本は読んだことがないです。
「風立ちぬ」という本の題名だけは知ってます。
ジブリ・宮崎監督の「風立ちぬ」はTVでみたかな。
地元の人たちの日曜バザール
良いものがあったら購入したいけど、持って走るのは厳しいです。
だから、あえて見ずにパス。
整備された追分宿
なんだか綺麗に整備されすぎて旧街道という感じがしませんね。
この辺りは飯盛り女が沢山いて、リトル歌舞伎町みたいに騒々しいほどに賑わっていたんだろうと思います。
でも、やはり追分という名がつくと、英泉の画のような大きな荷を積んだ馬子のイメージですかね。
そこで、追分節を聞きながら、先ほどの画をみながら、当時の街道を想像してみました。
いい感じです
桝形茶屋つがるや(追分宿の京口)
茶屋自体はやってないみたいです。
宿場町によくある軍事目的の桝形の角のところにあった茶屋のようです。
この建物の奥の方に駐車場らしきところがあって、古そうな石垣があるのですが、桝形の名残ですかね?
その漆喰壁
外気に剥き出しなんですが、よく傷がつかないで綺麗に残ってますね。
漆喰の丈夫さを感じます。
北国街道との追分
追分宿の名の由来になった場所です。
-----北国街道(信越)-----ウィキペディアより
北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。
追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。
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街道はゆるい下り坂がずっと続きます。
(つづく)
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NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
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