粕壁宿も古い家が多少残っていました。
粕壁は元々の地名は春日部だったようです。
---------ウィキペディアより抜粋
粕壁宿
背景
南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされる。「かすかべ」の表記は何度か変更されており、粕壁は江戸・元禄期から記されている地名である。
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そうだったんですね。
春日部駅前に設置されているクレヨンしんちゃんの看板
それと、春日部はクレヨンしんちゃんの野原一家が住んでいる町で有名になりました。
(太田裕美さん、春日部市のHPよりお借りしました)
自分の中ではニッポン放送のオールナイトニッポンのパーソナリティだった春日部のてっちゃん(今仁哲夫)と歌手の太田裕美の町でした。
<ラジオ番組> 今仁哲夫のオールナイトニッポン(音声のみ)
懐かしいですね。この声!
シャッターアートです。
春日部はいたるところに、街道沿いに粕壁宿をテーマにしたシャッターアートがありました。
ココは薬屋です。
大きな家ですね。
新町橋という大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)を渡る橋の手前で街道は鍵の手に曲がるのですが、その曲がる交差点の突き当りに大きなお寺がありました。
最勝院(鎌倉幕府御家人、春日部氏の菩提寺)
地名の由来にもなった春日部重行公は境内にある樹齢700年のヒノキの下で眠っているそうです
門の中に入ると左わきにお地蔵さんが並んでいた
新町橋(昔は大橋と呼ばれた)を渡る
橋の左手の景色
春日部市小渕南で三叉路になりました。
そこには道標らしきものがありました。
なんてかいてあるんでしょうか?
青面金剛と書いてあるみたいですね。
ですから庚申塚です。
---------大辞林 第三版より
しょうめんこんごう【青面金剛】
元来は、密教で、鬼病を流行させる鬼神。体は青色で、二本、四本または六本の腕があり、弓矢宝剣を握り、頭髪はさか立ち、体に蛇をまとい、足に鬼を踏んでいる。日本では、後世、庚申こうしん信仰に取り入れられ、庚申待まちの本尊となる。
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左サイドは道しるべになってました。
小渕山観音院(春日部市内唯一の修験寺院)
なんとなく、霊験あらたかなる感じがするお寺です。
ここには円空仏が7体奉納されてます。
その円空仏がこれ↓
円空仏祭2018
ここも、東陽寺と同様で、芭蕉と円空は、この地、観音院で会ったかもしれないと言われている場所なのです。
東陽寺か観音院か?
自分としては、こちらで円空仏を7体も刻んでいるので、円空の滞在はかなり長いでしょうから、確率的に、こちらではないかというように思います。
しかし、どちらにしても千住(深川?)を早朝出て、春日部の東陽寺または観音院あたりが第一泊目なのですから、芭蕉の健脚さにはビックリです。
それ歩ける人現代人でもそうはいませんね。
お寺の楼門の仁王像は崩壊寸前でした。
ですから、境内に入る時、「こりゃ荒れ果てた寺かぁ」と思いました。
なんて書いてあるかというと
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小渕山観音院は、新編武蔵風土記の小渕村、観音院の項に「本山派修験、京都聖護院末、安永2年(1773)正年行事職を許さる。小渕山正賢寺と号す。本尊正観音、応安二年(1369)住持玄通が書し縁起有に拠ば、古き像なるべし。中興開山は尊慶と云、年代を知らず。」と記されている由緒ある寺院である。
この寺は、この地方の観音信仰の霊場としても有名で、家内安全、商売繁盛のほか、いぼ、こぶ、あざにご利益があるといわれている。毎年八月十日には、この日参拝すると四萬六千日分のご利益が授けられると言われる四萬六千日祭があり、県内の山伏が参集して護摩修行を行い、近隣の善男善女が枝豆を奉納し参拝する祭礼がある。
また、三月には、かつて馬寄せ祭があり、農耕に従事した牛馬がいろいろな飾りをつて安全を祈願する祭りがあった。本堂内には、木造の白馬が安置されている。
本尊「正観音像」には、その昔、洪水でこの地に流れ着き、一度はもとの寺へ戻したが、その後洪水でまたもこの寺に漂着したのでお堂を建てて安置したものといわれる伝説がある。
本堂の格天井には花鳥の彩色が施され、格縁ごとに大勢の粕壁宿の商店主の名が記されており、外壁には、多数の絵馬のほか、八丁目の和算士栗原伝三郎が奉納した算額が掲げられている。
また、寺には、「毛のいへば 暑さむし 秋の風」と詠まれた芭蕉の句碑、市内唯一の楼門(仁王門)、七体の円空仏 などがある。楼門は昭和四十七年に春日部市指定の有形文化財に指定されている。
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しかし、中はとても立派なお寺!
いい感じです。
写真右手に役行者の像がありました。
疲れたら帰ろうと決めていたので、意外に淡々と走ることができました。
いつのまにか、目的の杉戸町に入っていました。
途中で見つけた案内板ですが、生家と書いてあっても古民家のようなものは何もなく、この辺だったということでしょう。
子弟教育に尽力した人のようで、埼玉の偉人ですね。
後日調べたのですが、詳しい資料は見つかりませんでした。
満聚山九品寺のお地蔵さんと本堂
この寺に対し街道を挟んで向かい側に立場(休憩所)があったそうです。
また、この寺の裏手は古利根川があるのですが、昭和初期まで杉戸宿にはいくつもの渡しがあったようです。
杉戸は下の図をみると川だらけです。
---------伝説時代の清地村を考える 、深井滋男 より以下抜粋
杉戸は古くは杉門と書き、渡船場から起った地名といわれる。それならば『過渡』
『過門』
と書くべきかと地名辞典は解く。
スギトの語を分解しながら、語源を探ぐると、スギはスキの乾語で砂礫地(シヤレキ)
地といい、砂や小石の混った土である。
トは沼、湖(アイヌ語)とあり、ツは舟着場、港という意味をもつ。
清地、杉戸、百間いずれも水に関係があり、当時の地形を物語っている
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1600年代の頃は、このあたりを杉戸島と呼んでいたそうですから、やはり古代はこのあたりにも海が入り込んでいたと思われます。
おそらく、貝塚があるでしょうね。→木津内貝塚(きづうちかいづか)というのが杉戸にあるみたいです。
九品寺から走ってすぐに目立つ家がありました。
昭和初期ぐらいでしょうか、立派な家でした。
1822年創業の関口酒造です。
もうすぐ、創業200年ですね。
巴湯という超マニアックなレトロ銭湯がありました。
見たところ、人気はなく、やってないのかと思いましたが、帰ってきて調べると営業してるみたいです。
創業100年以上(明治末期の創業で、現在3代目)の歴史ある銭湯でした。
「お湯は100%井戸水、燃料は100%木材」がキャッチフレーズだそうです。
詳しくは次をご覧ください→銭湯探訪人が行く-レトロ銭湯を求めて-巴湯
今回はココで終了しました。
本陣跡地前の交差点です。
右手に銀行があるのですが、問屋場跡でした。
ここから一旦、東武動物公園駅まで歩き、スーパー銭湯の送迎バスに乗り、杉戸天然温泉 雅楽の湯に行ってきました。
送迎バスが来るあたりの古川橋
汗を流し、ビールを飲む!
やめられませんね、これは。
(おわり)
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