段々と山が近づいてきました。
前回の終了地点に着きました。
天気は曇りで、肌寒い気温でした。
まず、街道からちょっと300mほど外れますが、コンビニまで行き、朝食を購入。
歩きながら食べ、ゆっくり痣地蔵へ向かいました。
日光道中最大級規模の宿駅、徳次郎宿の痣地蔵堂(あざじぞうどう)
説明版があるのだが、下半分が風化して読めませんでした。
なんとか解読してみたが、次のことぐらいしかわからなかったです。
・土中から発見された。
・このお地蔵様にお願いすると,「あざ」や「いぼ」が不思議に治るらしく、東京福島茨城からも祈願に来た。
・岩曽町の半田氏祖母の…
ところで徳次郎宿はトクジロウではなく、トクジラと読むのが正しいみたいです。
ですが、交差点の道路標識などはトクジロウとなっていました。
本来は歴史資料から、その昔は得志良または外久次良と書くみたいで、よってトクジラなんだそうです。
戦国時代には、すでに徳次郎と書くようになったみたいですが、読みはトクジラでした。
昭和の時代に誤って役人が地名一覧原簿にトクジロウと記載してしまい、いつの間にかトクジラがトクジロウになってしまったそうです。
役人というものは誤り訂正しない傾向にありますよね。
ですが、せめて、読みぐらいは本来の名前に戻した方が良いんじゃないでしょうかね?
ただ、バスの案内は「次はナカトクジラ」と言ってたと思います。
その地蔵堂のすぐ裏手にも何かの神社がありました。
さらに、その辺りは平らな広い敷地になっており、もしかすると大きな神社かお寺があったのではないか?
もしかして、痣地蔵の説明に書かれていた(元)神宮寺というのが、この辺り一帯にあったんではないか?
と推理しました。
まあ、素人なんで間違ってるかも知れませんが、こんな推理も楽しいです。
この辺りは大谷石で作られた家や蔵がとても多くみられました。
石の里と言ってもいいです。
----大谷石----ウィキペディアより
大谷石は軽石凝灰岩で、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材である。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきた。
--------
「大谷石をこの辺りまで運んできたのかぁ!
そりゃ、重くて大変だろうなぁ!」
などと思ってました。
ですが、この辺りに徳次郎石という大谷石に似た凝灰岩があったらしく、この辺りの家屋にはそれが使われたようです。
--------
昭和62年度卒業論文 石造構法に関する研究「宇都宮市徳次郎町における石屋根について」建築材料研究室 小野瀬正明より抜粋
徳次郎石の性質
徳次郎石とは大谷石と同様の凝灰岩で、大谷の北へ約6km、栃木県宇都宮市徳次郎町の西部の西根、田中、門前方面の山中で切り出される石で、現在では日光石と呼ばれる石の総称である。ここで凝灰岩の一般的性質について説明する。(中略)
「大谷石の分布を見ると東西8km、南北37kmにわたり、南北に細長く分布しており、徳次郎町はその最北端にあたり噴出から遠い所にあるため、徳次郎石は、大谷石の一種で大谷石に比較してきめが細かい。色は性白色で見栄えがよいので、蔵の窓の装飾等に用いられている。」
また研究の目的の中では「このような栃木県の石蔵は大谷石と徳次郎石を用いたものがみられ、とくに徳次郎町には、両者が混在して分布しており、他の地域に比較して徳次郎石の石蔵が多く、非常に興味深い。」としている。
総括的考察
石蔵の分布によれば、石蔵は主として、上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎、門前、上田中、下田中、西根の7つの地区に分布していることがわかる。これをさらに大きく分けると、上、中、下徳次郎を通る国道119号線沿い(日光街道沿い)と門前、田中、西根を通る旧日光街道沿いとに分けられる。別図にこれらの地区別に外壁石材の使用割合を示した。これを見ると日光街道沿いに比べて、旧日光街道沿いのほうが比較的徳次郎石の使用割合が高いことがわかる。旧日光街道は、鎌倉時代のころから開通し、その後大いに発展を呈した。周辺には館、寺院などが造られ、現在の日光街道が1651年に開通するまで、非常に栄えたらしい。一方、徳次郎石の採掘は、享保のころから行われ始めたが、旧日光街道沿いは旧家が多く、なおかつ農家が多いため石蔵の建築が盛んであったことがうかがえる。これに対して日光街道は、宿場の町として栄え、旅館や商店が立ち並ぶようになっていった。すなわち旧日光街道沿いのほうが、蔵の必要性が非常に高かったことが原因である。また、徳次郎石は、埋蔵量が大谷石に比べて、貧弱であったために、日光街道沿いが栄えるころには枯渇に近づいていたものと思われる。
--------
この辺りから日光にかけてたまり漬けの店を見るようになります。
たまり漬とは、味噌を作る時にでる上澄み(たまり)に野菜を漬けた漬物のことです。
自分もたまに味噌をつくるので、たまり醤油はよく知ってます。
塩分濃度は高いですが、美味しい。
チーズを漬けたりしたこともあります。
ですが、醤油にするほどタップリ出来るわけでなく、どうやってつくるのか不思議に思っていたので調べてみました。
この辺りでは、古くから、故意に水分濃度を高くして仕込んだ味噌をつくり、その上澄みは醤油の代用、また固形物は味噌の代用としているそうです。
その上澄みで、いろんな野菜を漬け込んだみたいですね。
こんどやってみようかな。
徳次郎宿の総鎮守、智賀都(ちかつ)神社の大きな鳥居と、2本の大ケヤキ(樹齢700年)
その本殿
ここの宮司さんの苗字は、なんと外鯨(とくじら)だそうです。
徳次郎六本杉
大きな大きな杉かと思ってました。
だが、道の真ん中に小ぶりの杉があって、それでした。
正直なところガッカリ!
ガックリ!
ストーブの店
多分、薪ストーブ専門店でしょうね。
日光が近づいてきた感がします。
こんな感じの街道が続き、そのうち、次の写真のように歩道がほぼなく、側溝の蓋の上を走るようになります。
これが、結構疲れます。
蓋に段差があり、裸足のワラーチで爪先を段差に引っ掛けると大変なことになります。
それにしても、日光街道は所々で歩道さえもなくなる箇所があり、車道を走らなければならないです。
結構危ない!!!!
「船生街道入口」交差点には石那田(六本木)一里塚跡がありました。
日本橋から30里です。
右手をみると、花と小さな山の景色が美しい。
リンゴ園がありました。
この辺りには二宮尊徳の石那田堰という親水公園があるらしいですが、行きませんでした。
「まっ、いいか」てな感じです。
田川を渡る
(つづく)
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前回の終了地点に着きました。
天気は曇りで、肌寒い気温でした。
まず、街道からちょっと300mほど外れますが、コンビニまで行き、朝食を購入。
歩きながら食べ、ゆっくり痣地蔵へ向かいました。
日光道中最大級規模の宿駅、徳次郎宿の痣地蔵堂(あざじぞうどう)
説明版があるのだが、下半分が風化して読めませんでした。
なんとか解読してみたが、次のことぐらいしかわからなかったです。
・土中から発見された。
・このお地蔵様にお願いすると,「あざ」や「いぼ」が不思議に治るらしく、東京福島茨城からも祈願に来た。
・岩曽町の半田氏祖母の…
ところで徳次郎宿はトクジロウではなく、トクジラと読むのが正しいみたいです。
ですが、交差点の道路標識などはトクジロウとなっていました。
本来は歴史資料から、その昔は得志良または外久次良と書くみたいで、よってトクジラなんだそうです。
戦国時代には、すでに徳次郎と書くようになったみたいですが、読みはトクジラでした。
昭和の時代に誤って役人が地名一覧原簿にトクジロウと記載してしまい、いつの間にかトクジラがトクジロウになってしまったそうです。
役人というものは誤り訂正しない傾向にありますよね。
ですが、せめて、読みぐらいは本来の名前に戻した方が良いんじゃないでしょうかね?
ただ、バスの案内は「次はナカトクジラ」と言ってたと思います。
その地蔵堂のすぐ裏手にも何かの神社がありました。
さらに、その辺りは平らな広い敷地になっており、もしかすると大きな神社かお寺があったのではないか?
もしかして、痣地蔵の説明に書かれていた(元)神宮寺というのが、この辺り一帯にあったんではないか?
と推理しました。
まあ、素人なんで間違ってるかも知れませんが、こんな推理も楽しいです。
この辺りは大谷石で作られた家や蔵がとても多くみられました。
石の里と言ってもいいです。
----大谷石----ウィキペディアより
大谷石は軽石凝灰岩で、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材である。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきた。
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「大谷石をこの辺りまで運んできたのかぁ!
そりゃ、重くて大変だろうなぁ!」
などと思ってました。
ですが、この辺りに徳次郎石という大谷石に似た凝灰岩があったらしく、この辺りの家屋にはそれが使われたようです。
--------
昭和62年度卒業論文 石造構法に関する研究「宇都宮市徳次郎町における石屋根について」建築材料研究室 小野瀬正明より抜粋
徳次郎石の性質
徳次郎石とは大谷石と同様の凝灰岩で、大谷の北へ約6km、栃木県宇都宮市徳次郎町の西部の西根、田中、門前方面の山中で切り出される石で、現在では日光石と呼ばれる石の総称である。ここで凝灰岩の一般的性質について説明する。(中略)
「大谷石の分布を見ると東西8km、南北37kmにわたり、南北に細長く分布しており、徳次郎町はその最北端にあたり噴出から遠い所にあるため、徳次郎石は、大谷石の一種で大谷石に比較してきめが細かい。色は性白色で見栄えがよいので、蔵の窓の装飾等に用いられている。」
また研究の目的の中では「このような栃木県の石蔵は大谷石と徳次郎石を用いたものがみられ、とくに徳次郎町には、両者が混在して分布しており、他の地域に比較して徳次郎石の石蔵が多く、非常に興味深い。」としている。
総括的考察
石蔵の分布によれば、石蔵は主として、上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎、門前、上田中、下田中、西根の7つの地区に分布していることがわかる。これをさらに大きく分けると、上、中、下徳次郎を通る国道119号線沿い(日光街道沿い)と門前、田中、西根を通る旧日光街道沿いとに分けられる。別図にこれらの地区別に外壁石材の使用割合を示した。これを見ると日光街道沿いに比べて、旧日光街道沿いのほうが比較的徳次郎石の使用割合が高いことがわかる。旧日光街道は、鎌倉時代のころから開通し、その後大いに発展を呈した。周辺には館、寺院などが造られ、現在の日光街道が1651年に開通するまで、非常に栄えたらしい。一方、徳次郎石の採掘は、享保のころから行われ始めたが、旧日光街道沿いは旧家が多く、なおかつ農家が多いため石蔵の建築が盛んであったことがうかがえる。これに対して日光街道は、宿場の町として栄え、旅館や商店が立ち並ぶようになっていった。すなわち旧日光街道沿いのほうが、蔵の必要性が非常に高かったことが原因である。また、徳次郎石は、埋蔵量が大谷石に比べて、貧弱であったために、日光街道沿いが栄えるころには枯渇に近づいていたものと思われる。
--------
この辺りから日光にかけてたまり漬けの店を見るようになります。
たまり漬とは、味噌を作る時にでる上澄み(たまり)に野菜を漬けた漬物のことです。
自分もたまに味噌をつくるので、たまり醤油はよく知ってます。
塩分濃度は高いですが、美味しい。
チーズを漬けたりしたこともあります。
ですが、醤油にするほどタップリ出来るわけでなく、どうやってつくるのか不思議に思っていたので調べてみました。
この辺りでは、古くから、故意に水分濃度を高くして仕込んだ味噌をつくり、その上澄みは醤油の代用、また固形物は味噌の代用としているそうです。
その上澄みで、いろんな野菜を漬け込んだみたいですね。
こんどやってみようかな。
徳次郎宿の総鎮守、智賀都(ちかつ)神社の大きな鳥居と、2本の大ケヤキ(樹齢700年)
その本殿
ここの宮司さんの苗字は、なんと外鯨(とくじら)だそうです。
徳次郎六本杉
大きな大きな杉かと思ってました。
だが、道の真ん中に小ぶりの杉があって、それでした。
正直なところガッカリ!
ガックリ!
ストーブの店
多分、薪ストーブ専門店でしょうね。
日光が近づいてきた感がします。
こんな感じの街道が続き、そのうち、次の写真のように歩道がほぼなく、側溝の蓋の上を走るようになります。
これが、結構疲れます。
蓋に段差があり、裸足のワラーチで爪先を段差に引っ掛けると大変なことになります。
それにしても、日光街道は所々で歩道さえもなくなる箇所があり、車道を走らなければならないです。
結構危ない!!!!
「船生街道入口」交差点には石那田(六本木)一里塚跡がありました。
日本橋から30里です。
右手をみると、花と小さな山の景色が美しい。
リンゴ園がありました。
この辺りには二宮尊徳の石那田堰という親水公園があるらしいですが、行きませんでした。
「まっ、いいか」てな感じです。
田川を渡る
(つづく)
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NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
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