「ルイス・C.ティファニー庭園美術館前駅(るいす・しー・てぃふぁにーていえんびじゅつかんまええき)」は、島根県松江市西浜佐陀町にある一畑電車北松江線の駅。名前の通り、ルイス・C.ティファニー庭園美術館の前にある。
概要
2006年現在、日本一長い駅名を持つ駅である。正式駅名が長いため、電車の車内放送や車内運賃表示表の次駅表示、整理券ではティファニー庭園美術館前あるいは庭園美術館前と省略された形で案内されている。駅名は前述した美術館のメイン収蔵品の作者であるルイス・カムフォート・ティファニーに由来。
なお、駅名の由来となったルイス・C.ティファニー庭園美術館は、2007年3月31日をもって閉館(美術館と松江市長松浦正敬、NHK松江放送局との確執による事実上の撤退)となったため、同年4月末に駅名の変更が予定されている。駅名が短縮変更となれば、南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」に日本一長い駅名の座を明け渡すことになる。 新たな駅名はまだ決まっていない。
駅周辺
松江ウォーターヴィレッジ
ルイス・C.ティファニー庭園美術館
イングリッシュ・ガーデン
古江郵便局
松江レークサイドユースホステル
歴史
1964年4月1日 - 古曽志駅として開業。
1970年10月1日 - 古江駅に改称。
2001年4月2日 - ルイス・C.ティファニー庭園美術館前駅に改称され、南阿蘇鉄道の南阿蘇水の生まれる里白水高原駅を抜いて、日本一長い駅名(「・」「.」も一文字に数えて19文字)の駅となる。
2007年4月 - 美術館の閉館に伴い駅名変更予定。
「鉄ちゃんプチ情報」・・・最近、「鉄子の旅」等、「鉄ちゃん」の社会的評価が上がって嬉しい僕。
内容(「MARC」データベースより)
「旅の楽しみは鉄道からバスへ、歴史行脚へと広がる」 著者の鉄道紀行の代表作「時刻表2万キロ」「最長片道切符の旅」「増補版 時刻表昭和史」のほかミステリーまで、多彩な作品から自選し一挙掲載。
宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年12月9日 - 2003年2月26日)は紀行作家。鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。父は陸軍大佐で、後に衆議院議員となった宮脇長吉。
概要
地理や歴史の深い教養に裏打ちされた簡潔かつ格調高い文章、軽妙なユーモアにあふれた文章を書くことで知られる。また熱心な鉄道ファンであり、一部のマニアに見られる特有の嫌味さ(専門用語や車両の形式名を自慢気に羅列したり、評論家ぶったりするなど)がほとんど無い飄々とした文体は多くの人々に受け入れられ、鉄道ファン以外にも多くのファンが存在する。
処女作『時刻表2万キロ』で、「鉄道に乗る」ということを趣味として確立させ、第2作の『最長片道切符の旅』では「最長片道切符」を世に知らしめることとなった。これらの作品によって「鉄道紀行」を文学の一ジャンルにまでした、と評されることもある(しかし、「鉄道紀行文学」で宮脇並みのレベルの作品を生んでいる人物はその後誰もいない、とも言われている)。
さらに晩年に刊行した『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ(I~X、1995年~2003年、JTB)では、これまでほとんど注目されていなかった鉄道趣味に「廃線跡探訪」という新たな1ページを築くなど、鉄道趣味の歴史において大きな役割を果たした事でも知られる。
年譜
1926年 12月9日、埼玉県川越市で7人兄弟の末子(三男)として生まれる。宮脇家の男子の名は、「英雄俊傑」に「一二三四」を順に組み合わせた名前であった(長男英一、次男雄二は若くして病死。俊三が最後の子であり、「傑四」は誕生しなかった)。
宮脇家は元々香川県が本籍であり、父長吉も香川県から代議士に選出されている。俊三は幼い頃からの鉄道好きで、父が選挙区入りする際の一行の切符の手配なども、全て俊三少年が行っていたという。俊三の鉄道好きは戦中でも変わることがなく、1942年に開通した関門トンネルを通ってみたいが故に、戦時下にも関わらず列車に乗って旅行に行ったほどである。
父長吉の陸軍予備役編入と共に、埼玉県川越町(現・川越市)から東京市渋谷町(現・東京都渋谷区)にあった皇族の梨本宮邸付近に一家で移住する。子供時代の遊び場は、梨本宮邸の裏に当たる山手線の線路沿いにあった空き地と、東京市電(現・東京都電)青山車庫だった。
旧制青山師範附属小学校、旧制成蹊高等学校(7年制)卒業後、 1945年 東京帝国大学理学部地質学科に入学。同年8月15日、米坂線今泉駅前で玉音放送を聞き敗戦を知る。戦後の混乱期に大学に戻ったものの、地質学科での現地調査で「ブヨ」に悩まされたこと、本来地図や時刻表が好きだったこと、ちょうどその頃文学の方面に興味が移っていたこと、などの理由から転部しようと決意。ところが当時は理科から文科へ転科できなかったので、東大の文学部西洋史学科を再受験し合格した。青年期の彼を知るには『私の途中下車人生』(話し手:宮脇俊三。講談社 1986年10月9日刊 なお同書は文庫化されていない)が最も詳しい。
1951年 東京大学文学部西洋史学科卒業(途中で理学部から文学部へ転部)。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。以後編集者として活躍し、『中央公論』『婦人公論』編集長、開発室長、編集局長、常務取締役などを歴任。作家北杜夫を世に出したのは編集者時代の彼の功績の一つである。
1977年5月28日 国鉄足尾線を最後に国鉄全線を完乗。
1978年6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社。
1978年7月10日 国鉄全線完乗の旅をつづった『時刻表2万キロ』で作家デビュー。
1978年12月12日 『時刻表2万キロ』で第5回日本ノンフィクション賞受賞。
1981年 『時刻表昭和史』で第6回交通図書賞受賞。
1985年 短編小説集『殺意の風景』で第13回泉鏡花文学賞受賞。この『殺意の風景』は同年上半期の直木賞候補にもなっている。このうち、第12話「石油コンビナートの巻」がのちに火曜サスペンス劇場「女弁護士・高林鮎子 寝台特急あさかぜ4号殺人風景」として、また第14話「砂丘の巻」がテレビ東京系月曜女のサスペンス傑作推理受賞作シリーズ「殺意の風景・砂色の迷宮」(1989年。主演、石野真子)としてドラマ化された。
1992年 『韓国・サハリン鉄道紀行』でJTB第1回紀行文学大賞受賞。
1999年 第47回菊池寛賞受賞。
2003年2月26日 東京都内の病院で没する。享年76。戒名「鉄道院周遊俊妙居士」。
死去の報道は葬儀が済む3月になるまで差し控えられた。宮脇の死が発表されると世田谷区の自宅に多くのファンが詰め掛け、自宅周辺はちょっとした混乱状態になった。
著作(図書)
時刻表2万キロ(河出書房新社 1978.7.10 第5回日本ノンフィクション賞受賞作) ・文庫化:河出書房新社(1980.6)、角川書店(1984.11)
最長片道切符の旅(新潮社 1979.10) ・文庫化:新潮社(1983.4) 巻末に“文庫版あとがき”あり
汽車旅12カ月(潮出版社 1979.12) ・文庫化:新潮社(1982.4)
時刻表昭和史(角川書店 1980.7 第6回交通図書賞受賞作) ・文庫化:角川書店(1987.7) 文庫解説:奥野健男
台湾鉄路千公里(角川書店 1980.12) ・文庫化:角川書店(1985.8)
時刻表ひとり旅(講談社現代新書 1981.6) ・新書版のみの刊行だが全てが書き下ろしではない
時刻表・駅・切符(現代史研究会刊 徳間書店発売 1981.10) ・対談相手:原田勝正 ・文庫化されていない
時刻表おくのほそ道(文藝春秋 1982.4) ・文庫化:文藝春秋(1984.1)
終着駅は始発駅(新潮社 1982.8) ・巻末に「私が選んだ鉄道旅行の本100冊」を収録 ・文庫化:新潮社(1985.8) ・復刊:グラフ社(2007.4.巻末にありし日の作家と作品について、娘のエピローグを収載)
徳川家康タイムトラベル(講談社 1983.4) ・このタイトルでの文庫化はされていない
徳川家康歴史紀行5000キロ(講談社 1998.4) ・巻末に“文庫版あとがき”あり
シベリア鉄道9400キロ(角川書店 1983.5) ・文庫化:角川書店(1985.10)
終着駅へ行ってきます(日本交通公社 1984.2) ・文庫化:新潮社(1986.8)
旅の終わりは個室寝台車(新潮社 1984.10) ・文庫化:新潮社(1987.6)
中央線各駅停車(保育社 1985.1) 宮脇俊三,松尾定行共著(宮脇の執筆は東京・中野間)(保育社カラーブックス667 注:文庫サイズ)
椰子が笑う汽車は行く(文藝春秋 1985.4) ・文庫化:文芸春秋(1988.4)
殺意の風景(新潮社 1985.4 第13回泉鏡花文学賞受賞作) ・『波』(新潮社PR誌)連載時のうち2篇は未収録 ・文庫化:新潮社(1988.4) ・再文庫化:光文社(2006.5)
汽車旅は地球の果てへ(日本交通公社 1986.4.1) ・文庫化:文藝春秋(1989.11)
線路のない時刻表(新潮社 1986.4.20) ・巻末に著作目録あり ・文庫化:新潮社(1989.4)
全線開通版 線路のない時刻表(講談社 1998.2) ・巻末に“文庫版あとがき”あり
鉄道旅行のたのしみ(集英社 1986.6) ・単行書は刊行せず文庫のみの刊行(『全線全駅鉄道の旅』全12巻、『国鉄全線各駅停車』全10巻 <いずれも小学館刊> から発売配本順に加筆・訂正せず収録)
私の途中下車人生 <談話>(講談社 1986.10) ・文庫化されていない
鉄道に生きる人たち <対話集>(中央書院 1987.5.3) ・文庫化されていない
汽車との散歩(新潮社 1987.5.13) ・巻末に著作目録あり ・文庫化:新潮社(1990.6) ・復刊:グラフ社(2007.4. 巻末にありし日の作家と作品をめぐる娘の想いを添えた文章を収載)
中国火車旅行(角川書店 1988.2.10) ・文庫化:角川書店(1991.9)
途中下車の味(新潮社 1988.3.25) ・巻末に著作目録あり ・文庫化:新潮社(1992.6)
ダイヤ改正の話 <対話集>(中央書院 1988.5.30) ・文庫化されていない
ローカルバスの終点へ(JTB日本交通公社出版事業局 1989.1.20) ・文庫化:新潮社(1991.8)
車窓はテレビより面白い(徳間書店 1989.2.28) ・文庫化:徳間書店(1992.8) 文庫解説:奥野健男
失われた鉄道を求めて(文藝春秋 1989.9.15) ・文藝春秋(1992.9)
インド鉄道紀行(角川書店 1990.4.30) ・巻末に著作目録あり ・文庫化:角川書店(1993.3)
古代史紀行(講談社 1990.11.12) ・文庫化:講談社(19994.9)
日本探見二泊三日(JTB日本交通公社出版事業局 1991.3.1) ・文庫化:角川書店(1994.3)
韓国・サハリン鉄道紀行(文藝春秋 1991.9.15 JTB第1回紀行文学大賞受賞作) ・文庫化:文藝春秋(1994.8)
旅は自由席(新潮社 1991.12.10) ・巻末に著作目録あり ・文庫化:新潮社(1995.3)
夢の山岳鉄道(JTB日本交通公社出版事業局 1993.6) ・文庫化:新潮社(1995.10.1)
線路の果てに旅がある(小学館 1994.1.10) ・巻末に「終着駅の10の型」を収録 ・文庫化:新潮社(1997.1)
平安鎌倉史紀行(講談社 1994.12.19) ・文庫化:講談社(1997.12)
昭和八年澁谷驛(PHP研究所 1995) ・文庫化されていない
ヨーロッパ鉄道紀行(JTB日本交通公社出版事業局 1996.8) ・巻末に著作目録あり ・文庫化:新潮社(2000.3)
時刻表昭和史 増補版(角川書店 1997.8.30) ・巻末に著作目録あり ・文庫化:角川書店(2001.6)
駅は見ている(小学館 1997.11.1) ・文庫化:角川書店(2001.10)
豪華列車はケープタウン行き(文藝春秋 1998.7) ・文庫化:文藝春秋(2001.6)
室町戦国史紀行(講談社 2000.11.15) ・文庫化:講談社(2003.12)
乗る旅・読む旅(JTB 2001.1.1) ・後年刊行された角川文庫版(2004.2)の巻末に「父のこと」と題する宮脇灯子(宮脇俊三の長子)の文章を収録
七つの廃線跡(JTB 2001.1.1) ・このタイトルでの文庫化はされていない
鉄道廃線跡の旅(角川書店 2003.4) ・巻末の「解説」で、中村彰彦が宮脇俊三逝去の追悼的文章を載せている
史記のつまみぐい(新潮社 2004.2.20) ・文庫化されていない
宮脇俊三自選紀行集(JTB 2001.12.1)・JTB旅行文化賞10周年記念出版合計5巻(5名)の内の一
宮脇俊三鉄道紀行全集(1~6巻 角川書店)
エピソード
公私共に縁の深い北杜夫の『マンボウ交遊録』によれば、編集者時代の宮脇は本にした時の見栄えまで考え、改ページや字数を考慮した上で北に文章を直すよう求めたという。自分が作家になってからも文章を読めば分かるように、創作に関しては非常にストイックな姿勢を貫いていた。しかし素の宮脇本人は大酒豪で、しかも変わった冗談や言動の多い人物だったという(これは同じく北と親交の深かった星新一と共通する点である)。なお北が1966年に刊行したエッセイ集『どくとるマンボウ途中下車』の中に、「鉄道ファンの編集者に開通直後の東海道新幹線に乗ろうと誘われて付き合った」という趣旨のものがあるが、この編集者はもちろん宮脇のこと。
宮脇は生涯渋谷育ちを自認し、編集者には著者紹介欄に「川越で生まれ、渋谷で育つ。」という一文挿入を希望した。
小学生の頃(1933~5年ごろ)、渋谷駅に佇む生前の忠犬ハチ公の姿を見ており、「時刻表昭和史」や「昭和八年 澁谷驛」の著書にもそのことが触れられている。この話は林順信の「玉電が走った街 今昔」での対談にも出ている。
鉄道の次に好きな乗り物は路線バスであり、飛行機はその逆で乗るたびに早く着陸して欲しいという気になったという。ちなみに乗らずに終わった唯一のJR線が宮崎空港線だった。
お気に入りの路線は宗谷本線・根室本線・山陰本線で、車窓は利尻島が見える宗谷本線の抜海駅付近や余部橋梁であった。
旅情を感じる駅名として、音威子府駅・信濃追分駅・姨捨駅などを挙げていた。
思い入れがある自筆作品はデビュー作の『時刻表2万キロ』と『時刻表昭和史』であった。
青年期の思い出で一番印象に残っていることは米坂線今泉駅で父と玉音放送を聴いたときで、旅行では昭和19年3月に関門トンネルへ向かった時であったといわれる。
時刻表以外でよく読んだ鉄道雑誌は、「鉄道ジャーナル」・「鉄道ダイヤ情報」だったとされる。
一番印象に残っている食べ物は、昭和17年に北海道へ向かった時に列車の食堂車で食べた鮭フライであった。駅弁では小淵沢駅の「元気甲斐」、駅そばでは音威子府駅のものだという。
一番遠くへ来たと感じたのは、小2の時に母と熱海へ行った時だとされた。
自動車の運転免許は昭和29年に収得したが、後に更新をしなくて失効した。
女優では原節子、噺家では志ん生が好みであった。
プロ野球はヤクルト(旧、国鉄)スワローズ、力士では神風が好みであった。
東大文学部西洋史学科の後輩にあたる有名人には、歌手の加藤登紀子がいる。
かつての特技はテニスと駅名暗唱で、前者は旧制高等学校中等部の大会で優勝した事があり、後者では東海道本線の全駅名を小学生の時に48秒で言った事があった。
大のモーツァルト好きであった。バッハの曲も「神に近い」として好んでいた。
鉄道の車両にあまり興味がなく、文体に嫌味がなく、論戦を好まなかったことから、鉄道ファンの間では「神様」のように親しまれている。一方で当の本人は酒好きであり、酒にまつわるトラブルも多い。
酒の勢いで、青函連絡船の寝台船室に乗り合わせた学生に絡んだことがある。(『時刻表2万キロ』第12章)
伊勢海老が気になって、国鉄唐津線の末端区間を乗り残したことがある。(『時刻表2万キロ』第3章)
「いい店の探し方」と称してスナックの扉を少し開けて覗いて回ったことがある。
どんなに忙しくても、作家などとの飲み会に出る時間は確保していた。
隣の北杜夫の家で飲んだときに、一緒に自宅の庭に空き缶を放り込んでいた。北家には常にボトルキープがしてあった。
原稿の推敲を徹底して行うときには酒が欠かせなかった。ただし仕事がはかどった訳ではない。
晩年、医者に酒を止められてからも、内緒で紹興酒を購入しては「度数が低いから」と言って飲んでいた。
末期、入院中に見舞いに来た家族に「酒を持って来い」と当り散らしていた。結核の後遺症で片側だけだった肺に転移して「もう助からない」と悟った夫人は、帰宅したときに医者に内緒で酒を与えた。
博学で、鉄道だけではなく、日本史などにも詳しく、著書には鉄道以外の本もある。知識があっても知らないふりをして書いている、とされることもある。よって上記の鉄道の車両にあまり興味がないというのもはたして事実か、誤記入か定かではない。
国内では一人で旅行することを好み、同行者がいると気を使うからよくないとも書いている。ただし例外は沢山ある。
秋田を旅したとき、車内に乗ってきた女学生達を見て「江戸時代の人買いの気分」になった。(『時刻表2万キロ』第8章)
元重役らしく、タクシーを割と長い距離にわたって駆使するときもある。ただし計画の穴埋めをしようとして失敗することもある。(『時刻表2万キロ』第12章など)
時にはバスも駆使する。時間潰しに近場を観光することもある。
「最長片道切符の旅」で東京の近郊区間を同行した次女に、停車中のホームから列車の連結部に向かってオシッコをさせた。(同書中「第12日」)
「最長片道切符の旅」では切符の有効期限に一日間に合わなかった。(同書中「第33日」「第34日」)
フィリピン旅行でポン引きをなだめすかして列車に乗りまわったことがある。最後に、乗った席に石を投げ込まれて、怪我をした。
インド旅行では水あたりによる下痢をこらえて列車を乗りまわった。半年後、再度インドを訪れた。
国内だけでなく海外の鉄道にも相当行っている。
国鉄好きで、私鉄はあまり食指が動かない、と言っていた。ただし私鉄にも相当乗っている。
国鉄の分割民営化時に雑誌上で東北本線から東武日光線への直通列車の実現を提唱していたが、本人の生前には実現しなかった。
大の時刻表マニアであり、誌上で旅行をすることができる。「線路のない時刻表」では未開通路線の仮想の時刻表を作成したりもしている。
コレクターではないと自称し、初めは切符の収集はしていなかったが、国鉄完乗時の「証拠のために」乗った切符を集めるようになった。買った時刻表も途中から自宅に集めていた。
「鉄道廃線跡を歩く」の最終巻の取材で狩勝峠の旧線を回る予定だったが、直前に病に倒れ、実現せずに終わった。同シリーズ編集担当の大野が遺志を継ぐ形で同所を回り、シリーズの巻頭記事を締めくくっている。同シリーズで最後に回ったのは碓氷峠の旧線である。
関連人物
北杜夫 - 奥野の旧制中学校時代からの友人で宮脇が編集者時代に世に出した作家。彼が住居を探している際に、たまたま隣が空いているのを紹介して以来、宮脇家とは隣同士で家族ぐるみの付き合いをしていた。よって素顔の宮脇についての証言も多い。ちなみに宮脇家は自宅兼賃貸マンションである。
阿川弘之 - 汽車好きに宮脇が注目し、『南蛮阿房列車』シリーズなどの発刊を手がけて親交が深まる。宮脇は阿川の文章を崇拝していた。阿川の著書『山本元帥!阿川大尉が参りました』のタイトルは宮脇考案のもの。
幸田文 - 宮脇が大ファンで、一緒に仕事をしたこともある。
酒井順子 -中学時代からの宮脇のファン。鉄道関係のエッセイも多い。宮脇とは小湊鉄道、いすみ鉄道での車中対談をしたことがある。





