化粧(けしょう)とは、主に顔や体に白粉や口紅などの化粧品をつけて、人間が美しく粧うこと。祭礼など儀式の化粧や舞台用の化粧もある。メイクアップ、メーキャップ、メイクともいう。逆に化粧をしていない状態(ノーメイク)のことをすっぴんと呼ぶ。
古代
口や耳などの穴から悪魔などが進入するのを防ぐために、赤色の物体を顔面に塗りつけるという、約7万年前に行われていた習慣が始まりだと推測されている。このことは、出土した当時の人骨の口に付着していた赤色の顔料の痕跡から判明した。また、紀元前1200年代頃のエジプトでは、人々が目や唇に化粧を施している絵画も見つかっている。ツタンカーメンの黄金のマスクを例にとると、目の周囲にアイラインを施していることが見てとれる。当時のアイラインの原料は、紺色の鉱石であるラピスラズリであり、それを微細な粉にして液体に溶かして使用していた。現在でも中近東地域ではこのようなアイラインを日常に行っている。
中世ヨーロッパ
中世ヨーロッパでは、顔に蜜蝋を塗り、その上に白粉を叩くという化粧方法が流行した。この化粧のはじまりはイギリスの女王エリザベス1世とされ、戴冠式などの教会の儀式で聖性を高める目的で行われた。また、貴族達もそれに倣うようになった。
この化粧の問題点は蝋が溶け、化粧が崩れるのを避けるために、冬や寒い日でも暖房に近づくことができなかったことである。
当時の白粉は白鉛などが含まれていたために皮膚にシミができやすかったとされる(鉛中毒)。これを誤魔化すために、付けボクロが一時期貴族の間で流行した。
日本
前近代
日本では古代から大正時代に至るまで、お歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る化粧が行われていた。平安時代には男性もお歯黒をすることがあったが、江戸時代にはお歯黒は既婚女性の習慣となった。
口紅は紅花を原料にしたものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。また、江戸時代にはメタリックグリーンのツヤを持った口紅「笹色紅」が江戸や京都などの都会の女性に流行した。
日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に鉛を含んでいた。長期的な使用者には「鉛中毒」による死亡が多くみられ、戦後に規制されてからも、このような死者は後を絶たなかったといわれている。
男性も、公家が古代より白粉などで化粧をする習慣が存在し幕末まで続いた。武家もやはり公家に習い公の席では白粉を塗っていたが、江戸時代中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。ただし、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったという。
江戸時代の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという手間のかかるものであった。口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。結納のすんだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には引眉が行われる風習があった。和服はうなじが広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された。
近代
1870年(明治3年)、政府は皇族・華族に対しお歯黒・引眉禁止令を出す。当初はなかなか徹底されず、3年後皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになった。これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れた。しかし、お歯黒の習慣は大正時代まで根強く残った。高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいた。
明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、1900年には国産の無鉛白粉が発売された。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、害があることが知られていたにもかかわらず、昭和初期まで使われ続けた。
大正時代には、和風の化粧をベースに、西洋の頬紅を使ったり耳元に紅を入れるなどの和洋折衷の化粧が流行った。白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものも使われるようになった。
本格的に西洋風の化粧が行われたのは、関東大震災後のことだった。モダンガール(モガ)と言われた一部の女性たちの間に、アイシャドウや唇全体に塗った口紅といった化粧が行われ、断髪や足の出るスカートといったいでだちとともに、保守的な人々の非難の的となった。
目的による分類
舞台用
舞台で演技を行なう者は、通常より濃い化粧を行なう。目・眉・口などの顔のパーツや、鼻筋や頬など顔の陰影を強調し、離れた観客にも表情などが判りやすいよう、工夫がされている。また歌舞伎や京劇などでは「隈取」と呼ばれる独特の化粧を施す。表情や感情を伝える目的というだけでなく、隈取の種類によって役どころ(二枚目・悪役・娘役など)を見分ける一助としての役割を果たしている。
テレビ用
テレビ、特にCMやドラマなどでは、通常以上に顔の皮膚がアップで映るため、特にファンデーションやその下地に重点を置いた化粧がなされる。
「化粧」の歴史を知りたくて調べてみた。自分がドラマのプロデューサーをやっていて、「男優さん」が「女性っぽく」、「女優さん」が「男性っぽい」という傾向がある事に気付いた。「化粧」は元々、「女性」という「性」がするもので、一般の「男性」はやらない。「男優さん」はテレビでも映画でも当然「化粧」をする。だから、「女性っぽく」なる。しかも、「演技」をして「男性の目」を自分に向けさせるのも、「女性」の特性である。子孫を残すという遺伝子が人間にある以上、それは自然な事なのだが。
「女優さん」が「男性っぽく」なるのは、「化粧」を「仕事」としてするからだと思う。なおかつ「演技」も「仕事」。今の世の中では男女の「性差」はさほどなくなってきたが、「男性」が「社会で労働」、「女性」が「家で家事と育児」という時代が長い間続いた。その遺伝子も残っているのか、「女優さん」にさっぱりした男気のある人が多い。
逆に「男優さん」と「台本の事」等で揉めると、正直ややっこしくなるケースが僕の場合は多かった。
そういう意味では、「石井ふく子さん」始め、今、連続ドラマのプロデューサーに女性が多い。連続ドラマの視聴者層も女性だから、その気持ちが分かるのはドラマ作りの大切な要素だと思う。
古代
口や耳などの穴から悪魔などが進入するのを防ぐために、赤色の物体を顔面に塗りつけるという、約7万年前に行われていた習慣が始まりだと推測されている。このことは、出土した当時の人骨の口に付着していた赤色の顔料の痕跡から判明した。また、紀元前1200年代頃のエジプトでは、人々が目や唇に化粧を施している絵画も見つかっている。ツタンカーメンの黄金のマスクを例にとると、目の周囲にアイラインを施していることが見てとれる。当時のアイラインの原料は、紺色の鉱石であるラピスラズリであり、それを微細な粉にして液体に溶かして使用していた。現在でも中近東地域ではこのようなアイラインを日常に行っている。
中世ヨーロッパ
中世ヨーロッパでは、顔に蜜蝋を塗り、その上に白粉を叩くという化粧方法が流行した。この化粧のはじまりはイギリスの女王エリザベス1世とされ、戴冠式などの教会の儀式で聖性を高める目的で行われた。また、貴族達もそれに倣うようになった。
この化粧の問題点は蝋が溶け、化粧が崩れるのを避けるために、冬や寒い日でも暖房に近づくことができなかったことである。
当時の白粉は白鉛などが含まれていたために皮膚にシミができやすかったとされる(鉛中毒)。これを誤魔化すために、付けボクロが一時期貴族の間で流行した。
日本
前近代
日本では古代から大正時代に至るまで、お歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る化粧が行われていた。平安時代には男性もお歯黒をすることがあったが、江戸時代にはお歯黒は既婚女性の習慣となった。
口紅は紅花を原料にしたものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。また、江戸時代にはメタリックグリーンのツヤを持った口紅「笹色紅」が江戸や京都などの都会の女性に流行した。
日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に鉛を含んでいた。長期的な使用者には「鉛中毒」による死亡が多くみられ、戦後に規制されてからも、このような死者は後を絶たなかったといわれている。
男性も、公家が古代より白粉などで化粧をする習慣が存在し幕末まで続いた。武家もやはり公家に習い公の席では白粉を塗っていたが、江戸時代中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。ただし、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったという。
江戸時代の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという手間のかかるものであった。口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。結納のすんだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には引眉が行われる風習があった。和服はうなじが広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された。
近代
1870年(明治3年)、政府は皇族・華族に対しお歯黒・引眉禁止令を出す。当初はなかなか徹底されず、3年後皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになった。これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れた。しかし、お歯黒の習慣は大正時代まで根強く残った。高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいた。
明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、1900年には国産の無鉛白粉が発売された。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、害があることが知られていたにもかかわらず、昭和初期まで使われ続けた。
大正時代には、和風の化粧をベースに、西洋の頬紅を使ったり耳元に紅を入れるなどの和洋折衷の化粧が流行った。白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものも使われるようになった。
本格的に西洋風の化粧が行われたのは、関東大震災後のことだった。モダンガール(モガ)と言われた一部の女性たちの間に、アイシャドウや唇全体に塗った口紅といった化粧が行われ、断髪や足の出るスカートといったいでだちとともに、保守的な人々の非難の的となった。
目的による分類
舞台用
舞台で演技を行なう者は、通常より濃い化粧を行なう。目・眉・口などの顔のパーツや、鼻筋や頬など顔の陰影を強調し、離れた観客にも表情などが判りやすいよう、工夫がされている。また歌舞伎や京劇などでは「隈取」と呼ばれる独特の化粧を施す。表情や感情を伝える目的というだけでなく、隈取の種類によって役どころ(二枚目・悪役・娘役など)を見分ける一助としての役割を果たしている。
テレビ用
テレビ、特にCMやドラマなどでは、通常以上に顔の皮膚がアップで映るため、特にファンデーションやその下地に重点を置いた化粧がなされる。
「化粧」の歴史を知りたくて調べてみた。自分がドラマのプロデューサーをやっていて、「男優さん」が「女性っぽく」、「女優さん」が「男性っぽい」という傾向がある事に気付いた。「化粧」は元々、「女性」という「性」がするもので、一般の「男性」はやらない。「男優さん」はテレビでも映画でも当然「化粧」をする。だから、「女性っぽく」なる。しかも、「演技」をして「男性の目」を自分に向けさせるのも、「女性」の特性である。子孫を残すという遺伝子が人間にある以上、それは自然な事なのだが。
「女優さん」が「男性っぽく」なるのは、「化粧」を「仕事」としてするからだと思う。なおかつ「演技」も「仕事」。今の世の中では男女の「性差」はさほどなくなってきたが、「男性」が「社会で労働」、「女性」が「家で家事と育児」という時代が長い間続いた。その遺伝子も残っているのか、「女優さん」にさっぱりした男気のある人が多い。
逆に「男優さん」と「台本の事」等で揉めると、正直ややっこしくなるケースが僕の場合は多かった。
そういう意味では、「石井ふく子さん」始め、今、連続ドラマのプロデューサーに女性が多い。連続ドラマの視聴者層も女性だから、その気持ちが分かるのはドラマ作りの大切な要素だと思う。