意味のない言葉のやりとりほどコミュニケーションとしての純度が高いという。
例えば、好きな女の子がいたら、話の内容なんて何でもいいからとにかく何か話しかける。内容なんて本当に何でもいい。天気の話でもいいし、髪型やファッションのことでもいい。とにかく彼女とコミュニケーションをとることが先決だ。
そこでは、言葉の内容のやりとりは重要ではない。単に「私の言葉を受け入れてください」もしくは「あなたが好きです」ということに力点がある。
コミュニケーションは、言葉の意味のやりとりで情報交換するということが重要だと思いがちであるが、実はそうでなく、単に「私を受け入れてください」という発信と「はい、受け入れます」という承認という過程が重要なのである。
付き合い始めの女性が、意味のないメールを大量によこすのも、「私を受け入れてください」という発信である。それにいちいち返信していくことが重要である。「私はあなたを受け入れています」ということだから。
このように意味のない会話やメールには、きちんとした意味がある。コミュニケーション能力を高めるためには、相手の言っていることを、どのようなことであれ、受け入れ承諾するということが必要なのである。
まんが日本昔ばなしに「貧乏神と福の神」という物語がある。なかなか面白い物語だ。
ある働き者の貧乏なおじいさんとおばあさんがいた。なにかの拍子に、この家の屋根裏に、貧乏神がいることが発覚する。そのおかげで、この家はずーっと貧乏だったわけだ。長年、一生懸命働いていたことが報われて、そこに福の神がやってくることになった。しかし、ここのおじいさんとおばあさんは福の神が家に来るのを断って、貧乏神といっしょに生活することを選択する。そして仲良く貧乏に暮らしましたとさ、という話。
貧乏神はみんなの嫌われ者である。誰だって貧乏より金持ちの方がいいからである。ただ、物語に出てくるおじいさんとおばあさんは、かわいそうな貧乏神と生活することを選ぶ。
この夫婦の価値のものさしは、お金ではなく人との連帯感である。
貧乏神は自分が皆から嫌われていることが分かってはいるが、自分で好き好んで貧乏神になったわけではない。そして、そのような形でしか存在できない以上、貧乏ということを否定されれば存在する価値がないということになってしまう。
しかし、幸せという価値観は多様である。そうであるなら、貧乏でありつつ幸せだという状態も可能である。そのように生きれれば、貧乏神にも十分価値が見出せる。
私は、この物語がすごく好きだ。それは、金より人との連帯やすべてを受け入れる広い心が幸せな人生を送るために重要だと思うからだ。
オルテガによると、大衆とは自らを評価しようとせず、みなと同じだと感じることに安心する人々だという。大衆の中では個人が集団の中に埋もれている。
そこで、集団に埋もれた個人が、他人と自分は違うんだということを表現しようとする。これがよくいわれるアイデンティティの確立である。このように自分と他人を区別するようにして、他者との差異を表現し、個の確立を模索していく。
差異を表現することで、新しい考えやファッションが生まれてくる。
このような表現を、他者との「差異化」という。
そして、その差異化された表現をかっこいいとか面白いとかいって、共感し真似する人々が現れる。
そのかっこいいと思う人を真似ることは、その人に同調し受け入れてもらいたいということである。
このような承認を求める欲求を「同調化」という。
そして、ある新しい様式を真似る人が一定の人数になり、普及していく過程を流行という。
まず、集団の中から個人がかっこいい表現をする(差異化)。そして、それを真似る(同調化)。集団が安定してきたところで、また別の表現をする人間が現れる。このようにして、流行は生まれ、繰り返される。
流行は差異を生み出す人、それに同調していく人のダイナミックな社会的な動きである。