人間がありえないくらい合理的であるとすれば、その動機は非合理なものだ BY 小室直樹
ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を読むと、ほとんど妄想とも思えるくらいの激しい信仰心を感じることができる。そして、それに心を動かされる。
世界的クライマーのノンフィクションを読むと、どうしてこんな山登りに命をかけるのかと思いつつも、その情熱に心を動かされてしまう。
私たちはこのような損得勘定抜きの非合理な情熱に心を打たれる。
この非合理な情熱をスピノザは衝動といった。この衝動こそが、人間の本質そのものに他ならないと。
ミメーシス(感染的模倣)の対象となる人間(人の憧れの対象)は、この非合理な衝動に突き動かされている人間である。このような人たちを、ニーチェなら超人といったのかもしれない。
人間は言葉を使う動物である。それによって、文明が発達してきた。しかし、言葉は具体的なものを抽象化することで成り立っている。抽象化される過程で幅が生じるから、使う人の使い方によってズレが生じる。
例えば、「あの子、かわいいね」 「そうだね」 という会話があったとする。特に問題はなく会話は成り立っているようにみえる。しかし、厳密にどのようにかわいいんだよ、と突っ込んで質問もできる。具体的な部分まで突っ込んでみると、「かわいい」という評価の中に大きな幅があることに気づく。この幅が、ズレとなってさまざまな対立を生むことになる。これが、言葉の大きな欠点である。
しかし、私たちは言葉によってしか世界を認識できない。例えば、ある部族が、猫と犬を区別していなかったら、その部族には、私たちのいう「猫」という動物はいないことになる。言葉による分類がなければ、鹿、犬、豚、すべて、「けもの」で終わってしまう。そのように、私たちの世界認識はは言葉に縛られている。
だが、さっき言ったように言葉は大きなズレを生む。そのズレを抱えたまま世界を組み立てても、必ず矛盾が生じる。
宗教対立、イデオロギー対立などは、この矛盾によるものである。そして、言葉によって世界を認識しようとするかぎり、この対立がなくなることはない。
禅は、瞑想によって、この言葉による世界認識を一旦停止するものである。矛盾をはらんだ言葉を使わないことによって、矛盾のない世界認識を可能にする。「私が無いから皆私」のような状況である。言葉にしたら矛盾であるが。
ただ、現実に言葉を使わなかったら、日常生活は出来ない。だから、「一時的に」ということが重要だ。
言葉を絶対化するのではなく、矛盾をはらんでいるということを、忘れないことだ。言葉を絶対化していくと、その考え方がイデオロギー化し、必ず対立を生む。
ズレを無くすよう努力することが、議論であるが、その議論も言葉で行われているから、また矛盾が生じる。
が、奇跡的に二人の気持ちが交わることがある。その一瞬の奇跡にかけるのが、真のコニュニケーションである。
昨日、EUがイランとの原油取引停止(禁止)を決定した。こういうことをいうと怒られるかもしれないけれど、正直なところ、なんでイランが核を持ったらダメなのという感じである。客観的にみて、イランはそれほど不良国家ではない。まぁ、それは置いておいて、日本にとっての一番な問題は、EUの経済制裁に対抗してイランが示唆したホルムズ海峡の封鎖である。日本の原油の90%がホルムズ海峡を通って日本にやってくる。そこを封鎖されたら、日本の経済は簡単に終わってしまう。
もし、本当に封鎖することになれば、アメリカはイランと戦争することになるに違いない。アメリカはそれを回避しようとしている感じではなく、むしろ戦争したがているように見える。日本を太平洋戦争に誘導したように。イランはそれを当然読み切っている。だから、封鎖の可能性は低い。
本来、このニュースがトップにくるべきなのに、一応報道はされているものの扱いは小さい。不思議だ。
いま、日本の原子力発電所は停止している。その代わりに火力発電がフル活動している。そのため、余分な原油が必要になっている。原油の輸入が増えれば増えるほど、日本の富が外に流れる。消費税を上げるか上げないかの議論が虚しくなるくらいの金額である。原油が高騰すれば電気代もあがる。物流のコストが上がれば、物が高くなる(通常のインフレとは違う)。
私はいわゆる原発推進派ではない。だが、原油を使った火力発電を使い続けることは難しい。天然ガスを利用したり、他の電力に切り替えなくてはならない時代がかならず来る。
原発を止めるのもひとつの方法である。ただ、それ以外のエネルギー開発が急がれる。危機は創造性を高める。だから、原発をやめてしまってもいいのかもしれない。だが、一時的には厳しくなる。
昨日、東京に雪が降った。今朝、都民は軽いパニックになっている。
私もそうだが予想外のことが起きるとつい腹を立ててしまう。しかし、不都合なことが起きたからといって、いちいち怒っていたら、本当の危機のとき、うまく対処できない。
都会は脳化された社会である。つまり、街自体が合理的意識で作り上げられている。自然もコントロール可能なものとして扱われている。だが、自然はコントロール不可能である。コントロール不能な状況が、たまにしか起きないので、それを忘れてしまう。
想定外の状況下では、生命、身体に危険が及ぶ。私たちは肉体的、精神的に厳しい状況にさらされる。恐れ、不安、疲労、怪我、など。
しかし、このような非日常的状況にこそ、自分の傾向、問題点がよくわかる。すぐに怖がってしまうのか、大丈夫と過信してしまうのか、判断力が欠如しているのか、それとも精神的には動揺しないものの身体的コントロールに問題があるのか。
私たちには普段は気づかない特徴的な問題点が必ずある。そのことがわかっていると、ずいぶん対処が楽になる。だから、今回のようなちょっとした危機のときに、自分の傾向を知ることが、本当の危機のときに役に立つ。
私の場合は、過信→失敗→極度の不安という流れになりやすい。だから、何か起こったら慎重に対応することで問題なく危険を回避できることが多い。
あるがままの状況を受け容れ、自分を知ることが危険回避にとって重要である。
丹波天平(たばでんでいろ)に行ってきた。
後ろを振り返ると、雪女が手招きしていそうな幻想的な世界。とにかく素晴らしい景色だった。
その美しさの中に、生物を寄せ付けない厳しさがある。
前回、時間がなくて言いたいことを端折ったので、補足
自己愛を満たすために幻想的世界をつくると言った。しかし、それが自分の頭の中で自己完結しているならば、単なる妄想にすぎない。恋愛は相手との関わりの中で生まれてくる。
そして、その感情は、私にとってこの人以外ありえないという形でやってくる。
私の幻想的世界と相手の幻想的世界が交わる時、奇跡的に「愛しあう」という現実の世界が創造される。
幻想と現実が一緒になるのである。激しい恋愛をしている最中は、客観的に第三者が眺めれば、頭がおかしくなっているように見えるだろう。しかし、本人達にとっては、まさしくリアルな現実であり、最も充実した生を味わっているといえる。
また、この時期は、エロティックな感情と精神的気高さが融合する奇跡的な時期でもある。純粋に愛からなされるセックス、ができる時期とでも言おうか。
ただ、その時期は短く移ろいやすい。無常である。
すこし、ややこしい話。
「私が机を使う」というとき、「私」があって、「机」があって、「使う」という行為があると思うのが普通だ。しかし、そのような分析は間違っている。
私が机として使うからこそ、机になるのだ。つまり、机があるのではなく、使うという行為によって机にさせられているのである。もし、私が薪として使えば、それはもう机ではなく薪である。
もっとわかりやすい例。
最初に親と子供がいるのではない。生まれるという行為があって、親になり子になるのである。
重要なのは、関係性である。「存在」に先立って「関係性」がある。
私とは何か。それは、あなたとの「関係性」で決められる。
「出会い」がある。そこで私とあなたが成り立つ。
「愛しあう」 そのような仕方で私とあなたが成り立つ。
「憎しみあう」 同じ。
私とは、あなたとの関係性である。それを仏教的に「空」といってもいいかもしれない。「関係性」は移ろい変わりゆくものであるから。
話を戻そう。
最上の時期のみを味わうために二人が付き合うなら、関係性は移ろいやすいが故、いつか別れざるを得ないだろう。
行為=関係性によって、私とあなたが成り立つのなら、私が、あなたに対して、どう振る舞うべきか、が問われなくてはならない。
私は、創造的かつ破壊的な激しい恋愛を肯定する。それと同時に、それとは違う人生を有意義にする「関係性」もあるのだと、信じている。科学的根拠はない。信じるのだから、ほとんど宗教である。
激しさが過ぎ去った後、私があなたにどのように振舞うかが、「愛」を創り上げていくのである。
歳を重ねると、だんだん恋愛感情がなくなってくると言っている人がいた。たしかにそうだなぁと感じる。
恋愛は、ある種の病的な状況である。その病的状況が覚めた時、クールで厳しい現実が待っている。歳をとると、先にその現実が見えるからだろうか。
恋愛相手に見出す特別な「美」は、自分自身が作り出す幻想的世界における対象である。
その幻想的世界は、現実がうまくいっている時ではなく、むしろ現実と自分が対立し、現実に敗れることによって作り出される。いろんなことができるようになる青年期は、自己中心的な部分がどんどん大きくなる。しかし、ほとんどの場合、現実的な力に敗れ去る。その敗れ去った自己中心性を生き延びさせるために、幻想的世界を作り出すのだ。
幻想的世界では、自分が世界の中心である。そのことによって、敗れ去った自己中心性を取り戻し、自分自身を愛する根拠を見出す。
究極的に自己愛を満たすためには、恋愛対象である相手から愛されることが一番である。その自分自身で作り上げた幻想的世界の中で、相手から愛されること。その承認的行為が現実によって傷つけられた自己愛を取り戻す最善の方法である。
だが、そのような承認を求める行為は、基本的に自己中心的なものである。それが、相手を支配したいという感情になったりするわけだ。
現実に対応しその世界に慣れてしまった大人は、幻想的世界を作り出さない。その幻想的世界が病的なものであることに、気づいているからである。
しかし、幻想的な世界の中での身を焦がすような激しい感情は、人間を最も創造的にする。
薪ストーブといえば、今回泊まった破風山避難小屋を思い出す。
その日は甲武信小屋まで行く予定だった。ちょっと休憩するために避難小屋に寄った。10人くらい泊まれる比較的大きな避難小屋で、薪ストーブが設置したあった。薪は避難小屋の裏にきれいに積み上げられている。
甲武信小屋に行ってもテントを張って寝ることになる。だから、寒いことには、変わりがない。ここで薪ストーブを使えば、気持ちよく寝れる。時間は13時を回ったところである。まだ早い。迷ったが、薪ストーブの魅力に負け、避難小屋に泊まることに決めた。
荷物を降ろし、早速、薪ストーブに火をつける。何回も焚き火をやっているので、火をつける要領はわかっている。まず、種火をつくって大きな薪に燃え移らせる。種火はゴミでつくる。ビニールなんかは原料は石油なので薪に絡み付いてよく燃える。ゴミも減らせるし一石二鳥だ。
すぐに薪は燃え上がり、暖かくなる。コッヘルいっぱいに雪を入れて、ストーブの上に乗せる。雪が溶けて水になったところで、また雪をいれる。そして、お湯を沸かしコーヒーを入れる。久しぶりにゆっくりくつろぐことができた。
火が燃え上がるのを見ながら、ジャック・ロンドンの「火を熾す」という短編小説を思い出していた。マイナス50℃の極寒の地で、火を起こすことに失敗して死んでいく男の話。
この男ほどではないが、寒いところに長くいると、火の重要さが痛いほどわかる。火は私たちの命を守ってくれる。火を見ているを気持ちが和んでくるのはそのせいかもしれない。何時間見ていても飽きない。
人間が動物から進化したのは、火を使えるようになったからである。火を恐れながらもそれを克服し利用した。火の利用によって、生活が著しく向上する。寒さをしのげるようになり、衛生状況は良くなった。だからかもしれないが、火は人間の本質的な部分を刺激するようだ。
こんなことを考えていたら、ドンと音がして、人が入ってきた。
「こんにちは」
「こんにちは」と挨拶する。
50代くらいだろうか。身長は180センチ弱。スラっとして痩せている。
心の中で矛盾する感情が起こる。つまり、静かに一人で居たかったなぁと思う部分と人が来て少し安心したという部分である。
「火を起こしておきましたよ」
「もうけっこう暖かいですね。火はすぐつきましたか」と彼。
「ゴミを燃やしたんで、すぐつきました」
このくらい会話すれば、だいたいその人の人柄がわかる。この人は大丈夫だ。安心した。たまに、偉そうに返事もしない奴がいる。そういう奴と一緒になると、大変だしめんどくさい。
よく考えると、避難小屋で人と一晩過ごすということは、かなり奇妙なことである。全く知らない人と一晩過ごすわけだから。
それが、楽しい経験になるか最悪になるかは、相手との相性による。それはまったくの運だ。
「私は、ここの薪ストーブが好きで、よく泊まりに来るんですよ」
「ああ、そうですか。じゃあ、代わりますか」
「はい、すいません。いいですか?」
「どうぞ」そう言って、薪をくべるのを代わってもらう。
私はカップラーメンとアルファ米を食べ、寝袋にはいって本を読む。彼は、薪をくべながら、ウイスキーを飲んでいる。薪の遠赤外線が体の芯まで温める。穏やかなゆったりとした時間が流れる。
「火遊びしながら、酒を飲むのが好きなんですよねぇ」と彼。
「わかりますよ。火って、何か人の気持ちを揺さぶるものがありますよね」
「お酒は飲まないんですか」
「はい、まったく飲みませんね。けっこう飲むんですか」と私。
「かなり飲みますよ。酔っぱらいで、ごめんなさいね」
「全然、大丈夫です。楽しんでください」
彼のろれつが回っていないことに気づく。かなり飲んでいる。大丈夫かなぁと少し心配になる。アルコールを必要以上に飲む人は問題のある人が多い。しかし、話の感じからすると、この人は心配はなさそうである。だた、優しい人ではあるが、ちょっと弱いところがあるのかなとも思う。単なる勘だが。
薪を入れすぎてストーブの蓋が閉まっていない。だから、煙が部屋に充満してきている。このままだと一酸化中毒で、朝になったら気持ちよくあの世に行っていたなんてことになりかねない。
この人もしかしたら、自殺しようとしているのではないだろうかと、頭をよぎる。まさかね。ただ、こういう山の中は特殊な状況だから、つい変なことを考えてしまう。
ちょっとだけ注意しておくことに越したことはない。
「あのー、煙いんで少しドアを開けておきますね。一酸化中毒であの世に行ってしまうかもしれませんからね」とそう言ってドアを少し開ける。
「すいません、薪入れすぎちゃって蓋が開いてるんです。気をつけます」と彼。
私は、そのまま記憶がなくなってしまう。
田舎のこたつは、堀ゴタツで、練炭を使っていた。朝、つけはじめの時は寒いから中にはいって暖まっていたら、そのまま記憶がなくなってしまったことがある。私は知らないが、危ない状態だったらしい。一酸化中毒は苦しまず死ねる。経験的に。
その恐怖が、少しだけ蘇ってきた。
朝、まだ暗いうちに、強風の音で起こされた。彼はお酒をかなり飲んでいたので、ぐっすり寝ている。もう、薪のぬくもりはない。寒くて厳しい朝だ。でも、昨日の薪ストーブのおかげで疲れがとれている。よし、出発の準備をするぞと起き上がる。体からエネルギーがみなぎっていた。
薪ストーブありがとう。また来るね。
神話学の第一人者・ジョーゼフ・キャンベルが「結婚」について語っている。
「例えば、結婚。結婚とは何でしょう。神話はそれを教えてくれます。それは分離されていた二者の再統一です。もともとあなた方は一体だった、いまこの現世で人は二つにわかれているけれども、精神的にはやはり一体だと認識することが結婚の本質でしょう。それは情事とは違う。そんなものとはなんの関係もありません。結婚はまるで別の神話的次元に属する経験です。もしもある男女が肉体関係を長く続けられるからというので結婚したとすれば、まもなく離婚するしかないでしょう。なぜなら、あらゆる情事は絶望に終わるほかないからです。それに対して、結婚は精神的一体性の認識です。もし私たちがまともな生活を営んでいるならば、もし私たちの心が異性に関して正しい思考を働かせているならば、めいめい自分にふさわしい伴侶を見つけることができるでしょう。ところが、私たちがある種の官能的な興味に夢中になっているとすれば、間違った相手と結婚してしまう。私たちはまともな相手と結婚することによって、人間の姿を取った神のイメージを再構成する。それですよ、結婚のいちばん大事なところは」
「結婚生活には二つの完全に異なった段階があるのです。その第一は、子供を作るために自然が与えてくれる衝動 ー 両性の生物学的な相互作用がもたらす、あのすばらしい衝動 ー に従う若さに満ちた結婚生活です。しかし、やがて子供から家族が卒業して、夫婦が残されるという時期が来る。私の友人のなかに、四十代とか五十代になって夫婦別れをする人があまり多いのでびっくりしています。みんな子供といっしょのときは完全にまともな生活をしていたんです。ただ、そういう夫婦は自分たちの一体性というものを、子供との関係においてのみとらえていた。相手に対する自分自身の個人的な関係において犠牲を払うとすれば、お互いに相手に対して自分を犠牲にするのではなく、関係の一体性に対して犠牲を払うのです。中国のあのタオには暗闇と光が相互に働きかけているイメージがありますね。あれが、陽と陰の関係、男と女の関係です。結婚も同じです。結婚した人はああなっているのです。あなたはもはやただひとりの人間ではない。あなたの真の存在は相互関係の中にある。結婚は単なる肉体関係ではない。それはひとつの試練です。そしてその試練とは、二者が一体になるという関係においてエゴを犠牲にすることを意味しています」 「神話の力」から
有名人が堂々と離婚すると、いつもあーあと思ってしまう。その芸能人が人々に支持を受けていればいるほど、その行為が神話的な行為になってしまうからである。
結婚と宗教が密接に関わっているのは、理由がある。結婚はただの情事とは違う。キャンベルがいうように、情事は絶望に終わるしかないからである。
神話的思考がうまく働かない時代に、どうすべきかが問われている気がしている。
関係の一体性に犠牲を払うとは、具体的にどういうことなのか。そういった物語が必要である。
児童文学の傑作という噂をきいて読んでみた。児童文学という冠をとってもいい。つまり、文句無しの傑作である。
指輪物語とか、最近ではハリーポッターとか、こういう神話的ファンタジーについてのイギリスのレベルの高さを感じる。
大まかのあらすじは、戦士(上士)になりきっていない青年ウサギ(若衆組)が、村を飛び出し、自分たちの新しい社会を作っていくまでの話である。
きっかけは危険を察知する能力のあるウサギ、ファイバーが、自分たちが住んでいる村・サンドルフォードに襲う災難を予知し、逃げ出すことを長老に提案する。しかし、却下。
そこで、ファイバーのいうことを信じる何匹かの若衆組のウサギを引き連れ、村を飛び出すわけである。
ファイバーの兄弟であるヘイズルがリーダーになって、様々な困難を切り抜けていく、ファンタジー冒険物語である。
自然の中でのウサギは、肉食動物たちの獲物である。基本的に弱い生き物である。それゆえ、生き延びていくためには、臆病といえるほどの慎重な行動、周りの変化・危険に対する敏感さが必要とされる。
リーダーであるヘイズルは、グループの中に弱者を組み込むことを恐れない。通常、足手まといになると思われる弱く体の小さいうさぎたちを積極的に仲間にする。合理的な考え方の持ち主なら、強いものだけで組織を固めたほうが有利と思うだろう。しかし、それは違うということを、この本から学ぶことができる。
弱い者は、危険や周りの変化に敏感である。強い者はその変化に気づかない。弱いものがそれを指し示すセンサーの役割をするのである。いわゆる、炭鉱のカナリアである。
確かに、単純に敵と闘うだけなら屈強の男たちだけの方が有利だろう。しかし、ウサギは本来闘う種ではない。他の動物の餌になる動物である。そこでは、どのように危険を察知し生き延びるべきかが問題になる。
人間社会でも、経験の少ない若い人は、さまざまなことで利用されやすい。事情があって早く社会に出てしまった人間ほど搾取される。女なら体を売らされたり、男ならさまざまな誘惑で金をむしり取られる。若者は金になるからである。
そのような状況から逃れるために重要なのは、青年期特有の「俺はなんでもできるぞ」という主観的な全能感ではなく、客観的な事実としての「社会的な弱者」であることの認識である。また、嫌悪すべきものに素早く反応する微細な身体感覚である。本来それは弱い者が持っている生き延びるための重要な能力である。強い者は強さ故に鈍感である。
自分が弱いということを知っている者は強い。あべこべ言葉である。弱いが強い。強いは弱い。
だが、うさぎたちは危険を避け逃げるだけの存在ではない。ここぞという時には命をかけて闘う。自分たちの仲間を守るためには自己犠牲をも厭わない。
リーダーが自分の延命など考えず、「フリス様(うさぎの神さま)、私の命をあげますから、仲間の命を助けてください」と祈るのだ。
身内を守るための戦いは、必要悪である。男たるもの、暴力は基本的には良くないが、例外があることを学ばなければならない。
興味深かったのは、人間に飼い慣らされたうさぎの村が出てくることである。近くに住んでいる人間は、野生のウサギにおいしい野菜を与えて餌付けしている。そして、まるまる太ったところで、罠を仕掛け捕まえ食用にするのだ。
その村のうさぎたちは、うすうすそれを知っている。しかし、イタチや狐などの天敵が排除され、栄養のある食べ物が与えられる快適な空間から逃げられなくなっている。いつか自分が殺される番がくることを、考えないようにして、今ある快適さを味わっている。
なんだか現代の我々に対する大きな皮肉に思えてくる。与えられたものに満足して、生きることの主体性を失ってしまえば、このような快適ではあるものの、漠然とした不安から逃れられないだろう。
厳しい自然と向き合いながら、今この瞬間を生き抜くほうが、本当の生を味わえる。
現代人が教訓とするなら、厳しい社会状況を否定せず、その中で精一杯生きることである。現実のリアルな危険はあるかもしれないが、漠然とした不安を抱く暇なんかなくなってしまうだろう。
日本語吹き替えのアニメがあったので、アップしてみた。
児童文学ということだが、大人でも十分楽しめかつ勉強させられる本だと思う。