自己肯定のエネルギーに突き動かされる人間は、感染的模倣を引き起こすというのが、前回の内容だった。
今回は、自己肯定のエネルギーが強い人間は、悲劇を引き起こす、ということについて考えてみたい。
ここで小林秀雄の有名な「悲劇について」というエッセイを引用してみよう。
ちょっと長いが。
近代の思想家で、ギリシャ悲劇に着目して、その精神を新しい見方によって蘇生させた人はニーチェである。彼は、ギリシャ悲劇のうちに、自分の思想の深い動機を発見したのであって、彼の全思想は「悲劇の誕生」という種から成長した樹木だと言って過言ではない。
ニーチェの議論は、反語や逆説や独断に充ちているが、彼がギリシャ悲劇に動かされたその異常な感動のうちには、およそ悲劇に関する動かし難い洞察が含まれていると思います。
ニーチェはギリシャ人が立派な悲劇を書いたという事こそ、ギリシャ人が厭世家ではなかったというはっきりした証拠だと言います。ちょっと聞くと反語のように聞こえますが、それは悲劇と厭世という二つの概念を知らず知らずのうちに類縁のものと私たちが思っているからでありましょう。
おそらくニーチェは、その事を頭において強く主張する。
悲劇は、人生肯定の最高形式だ、と。 人間に何かが足りないから悲劇は起こるのではない。何かがあり過ぎるから悲劇は起こるのだ。否定や逃避を好む者は悲劇人たりえない。何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものをことごとく無条件で肯定する精神を悲劇精神という。
こういう精神のなす肯定は決して無智からくるのではない。そういう悲劇的智慧を掴むには勇気を要する。勇気は生命の過剰を要する。幸福を求めるがために不幸を避ける、善に達せんとして悪を恐れる、さような生活態度を、理想主義というデカダンスの始まりとして侮蔑するには、不幸や悪はおろか、破壊さえ肯定する生命の充実を要する。こういうディオニュソス的生命肯定が、悲劇詩人の心理に通じる橋である、とニーチェは言い切るのであります。
厭世とは、人生に悲観し、嫌になっていることである。あくまで主観的な心の問題である。それに対して、悲劇は、人生や社会で起こる痛ましい出来事のことで、客観的事件のことである。
客観的に見て何の不自由のない幸福な状態にありながら、厭世的気分の場合もある。逆に、悲劇的な痛ましい事件にあいながら、力強く生きていく人もいる。
ニーチェは、いかなる悲劇的結果になろうとも、自分を信じ、勇気をもって前に進んでいく人間に共鳴したのである。
悲劇的な結果を恐れず行動し、それによって酷いことが起ころうとも、それを無条件に受け入れ肯定すること。その精神を悲劇精神といった。
わたしたちは、損得勘定をしながら合理的に生きている。 日々の生活を円滑に生きていくためである。しかし、そこには心を激しく揺さぶる感動はない。
長い間生きていて、なんであんなことをしたんだろう、ということが誰にでもある。特に、恋愛をしている時はそういう場合が多い。人に反対されようが、恥をかこうが関係ない。ただ愛しているんだ、ということである。体の底から沸き上がるその強い衝動が、わたしたちを不合理な行動に走らせるのだ。
ただ、現実を冷静に判断し、損得勘定をしながら合理的に生きている私たちが、なぜそのような悲劇的な行動に感動してしまうのだろうか。疑問が残る。
そこには、避けがたく悲劇的な行動に出ざる得なかったという人間の「運命」を感じていると思われる。
次回は、この「運命」について考えてみよう。