道端で指輪とかイヤリングとかネックレスとか売っている人はユダヤ人が多いと聞いたことがあった。それで、外国人の行商に、あなたはユダヤ人ですかと英語で尋ねたところ、そうだと答えたものの、なにやらめちゃくちゃ怒ってきた。怒るようなことをした覚えはなく、すごく戸惑ったことを覚えている。
多分、ユダヤ人だと指し示すこと自体、相当失礼なことなのだろう。悪いことをしたと思っている。
それが私がした最初で最後のリアルなユダヤ人との会話である。
1910年から始まるノーベル賞受賞者の統計を見ると、自然科学分野におけるユダヤ人の突出ぶりわかる。
2005年度までの医学生理学賞のユダヤ人受賞者数は48名(182名中)、物理学賞は44名(178名中)、化学賞は26名(147名中)。それぞれ、26%、25%、18%に相当する。ユダヤ人は世界人口の0.2%を占めるに過ぎないのであるから、これどう考えても「異常な」数値である。
もちろん、ユダヤ人と非ユダヤ人の脳の間に解剖学的な組成の差異は存在しない。だとするなら、その統計的に有意な差異は教育制度の違いがもたらしたものとみなすのがふつうである。
しかし、ユダヤ人たちはそれぞれの帰属する社会の教育制度に組み込まれていて、学校を通じて「民族的な教育」をうける機会を享受していない。にもかかわらず、この異常な数値は民族的な仕方で継承されてきたある種の思考の型が存在することを仮定する以外に説明することができない。 P174
そもそもユダヤ人とはどのような民族をいうのかが問題となるが、
1、ユダヤ人とは国民名ではない
2、ユダヤ人は人種ではない
3、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない
私はこの本を読むまで、3をユダヤ人だと思っていた。しかし、近代以前ならそれでいいが、今はそれでは正確でない。
定義不能なのがユダヤ人。
アメリカにジェイコブ・シフという(1847-1920)という人物がいた。シフはドイツ生まれのユダヤ系の銀行家で、アメリカにわたり、クーン・ローブ商会グループの総裁としてアメリカ財界に君臨した人物である。
彼は明治末年、日露戦争のときに、日本政府が起債した8200万ポンドの戦時公債のうち3925万ポンドを引き受けたからである。
シフは帝政ロシアにおける反ユダヤ的暴動に怒り、虐殺陵辱された「同胞」の報復のためロシア皇帝に軍事的な鉄槌が下ることを望んだのである。
シフはグループの影響力を行使して、ロシア政府発行の戦時公債の引き受けを欧米の銀行に拒絶させた。このユダヤ金融資本ネットワークの国際的な支援は日露戦争の帰趨に少なからぬ影響を及ぼした。
シフは生涯、「反ユダヤ」的な帝政ロシアと戦い続けた。だが、彼は生まれ故郷のドイツにも、市民であったアメリカにも、どのような近代国家に対しても「国民」としての帰属感など抱いていなかった。
確かに彼はアメリカ財界の大立者であったけれど「よきアメリカ市民」だったとは言えない。なぜなら外交は政府の専権事項であるにも関わらず、シフは彼の「同胞」のために、「個人的な戦争」をロシアに対して仕掛けたからである。
私はこのようなタイプの日本人を想像することができない。
私一人にとどまらず、「国民国家と国民」という枠組みで思考している限り、私たちはこのようなタイプの人間がどうやって生み出されるのか、彼の脳裏に去来した「同胞」というのがいかなる概念であるかを理解することができない。 p15
さっき、NHKの日曜フォーラムで、フラガールの監督で知られる在日朝鮮人の李さんが出ていて、「自分は一体何者なのかということを複雑に考えていた」と言っていた。ユダヤ人は常にそういう思考をしているに違いない。自己の存在根拠をめぐる戦い。
「反ユダヤ主義者は自惚れない。彼は自分のことを中くらいの人間、真ん中よりちょっと下くらいの人間、ありていに言えばかなりできの悪い人間だと思っている。反ユダヤ主義者が自分がユダヤ人より個人的に優れていると主張した例を私は知らない。しかし、彼はそのことを全く恥じていないのである。彼はその状態で満ち足りている。その状態を彼は自分で選んだからである」とサルトルは言う。また、
「反ユダヤ主義者にとっては、知性はユダヤ的なものである。だから、彼は知性を心静かに軽蔑することができる。それらの美質は、ユダヤ人が彼らに欠けているバランスの取れた凡庸さの代用品として用いるまがい物にすぎない。それゆえ、その国土に深く根付き、二千年の伝統に養われ、父祖の叡智を豊かに受け継ぎ、風雪に耐えた慣習に導かれて生きる真のフランス人は知性など必要としないのである」
このサルトルの言葉は至言だと思う。努力しなければ認めてもらえないということがいかにつらいことか。知性、教養、富、それらのものを備えてはじめてメンバーの中に入れてもらえる。凡庸であっても現状の今のままで十分だと思えることがどんなに幸せなことか。