フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

擬人化されたミッキーマウス

2009年10月28日 21時54分52秒 | 日々の出来事・雑記

 ディズニー作品のなかでは、擬人化された動物たちは、すべて白い手ぶくろをつけていなければならない。ミッキーもミニーも、犬のグーフィーも、牝牛クララベルも、悪役の義足のピートも、みな白い手ぶくろをはめている。ただし、ミッキーが飼っている犬のプルートーなど、擬人化されないで、そのままものを言わない動物として登場するときには、その必要はない。その場合の動物は動物なのであって、言葉も話さないかわりに、靴もはかず、服を着ることもない。すなわち、ディズニー世界にあっては、動物たちが昇格して人間化する条件としては、白い手ぶくろが不可欠なのである。かくして、ミッキーマウスは、入浴中でも海で泳ぐときでも、手ぶくろを脱ぐことはない。

 動物を擬人化するのは、動物と人間とを分けて考えるキリスト教的発想だなぁと思う。
 合理的な理性を中心に世界を組み立てるとそういう発想になるのだろうか。動物と人間とを分けて考えること自体ややこしい。

 
 ややこしいついでに擬態語を擬人化したややこしい文章。

ぽっこりとぽっちゃりががっぷりと組み合い相撲をとっていたところ、ほっそりとげっそりがびっくりして止めに入りました。
 
 ぽっこりはゆっくりとほっそりに言いました。「僕はぽっちゃりとたっぷり相撲の練習をしていたんだよ。邪魔をしないでくださいな」


 「それはスイマセンでした。では、しっかり練習をしてください。ぷっくりさん」とほっそりはうっかり、ぽっこりをぷっくりと言ってしまった。

 
 ぽっこりは頬をぷっくりふくらませて「ぷっくりと間違えられるなんてがっかりだよ」といった。

 
 げっそりは、意味がさっぱり分からず、もっとゆっくり話してくれよと思いながら、げんなりしていた。

 

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実存としてのエロティシズム

2009年10月24日 01時25分44秒 | 社会・政治・思想哲学

 若い時はあまり変態的な人はいない。しかし、おっさんになってくるとだんだん変態が増えてくる。
 私は、
性的パワーが弱いから、だんだん変態的思考になっていくのではないかと思っている。
 
 エロには二種類ある。
 一つは、単に本能としての性欲。
 もう一つは実存的、観念的なエロティシズム(端的に変態)だ。
 性欲が弱くなってくると、後者の力を借りなくてはならない。
 ちょっと説明する。

  ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に面白いテキストがある。

 長男のドミートリイが国境警備隊にいたところ、上官の中佐の娘で美しく気位の高いエカテリーナに強く惹かれるが、相手は高嶺の花である。ところがドミートリイはふとしたところから、この中佐が公金横領をして発覚しそうになっていることを知り、彼にある奇怪な考えが浮かぶ。ドミートリイに父親から財産放棄の手切れ金として六千ルーブルが入ったのだが、中佐の姉娘アガフィーヤに彼はこう示唆する。
「カテリーナをこっそり僕のところによこしたらどうです。僕はちょうど金を送ってもらったところだから、四千ルーブル気前よく差し上げてもいいし、神にかけて秘密は守りますよ」と。
 アガフィーヤはこの卑劣な提案に激怒する。しかし、彼の思惑通り中佐の家族は切羽詰り、ある日エカテリーナがドミートリイの部屋を訪れる。

 「俺は頭から足の先まで彼女を眺め回した。お前、あの人を見たことがあるだろう。まさしく美人だ。ところが、あのときの彼女の美しさは、また違うんだ。あの瞬間の美しさは、彼女が高雅なのに俺のほうは卑劣漢であり、彼女がおおらかな心で父のためにわが身を犠牲にしようとする崇高さに包まれているのに、俺のほうは南京虫にすぎない、ということからきていたんだよ。しかも、彼女のすべてが、心も体もひっくるめてすべてが、南京虫であり、卑劣漢である、そんな俺しだいでどうにでもなるんだからな。身体の線まではっきりわかったっけ。正直に言うと、その考えが、ムカデのような俺の心をしっかりとらえてしまったために、悩ましさだけで心が危うく融けて流れるところだったよ」 

  この箇所を最初読んだとき、あまりにもエロすぎて、ムラムラとする気持ちを抑えられなくなってしまった。

 エロティシズムの本質は、崇高な美徳のように侵犯してはいけない高貴なものを、下劣な男の視線までおとしめることによる、その「落差」にある。
 だから、コスプレは、スチュワーデスとか婦人警官とか比較的地位が高くて聖職的なもののほうが興奮する。
 ロリコンも基本的に子供はいたずらしてはいけないという決まりがあり、その禁止のハードルが高いからこそ、興奮するわけだ。

 
 生物学的にいっても、若くて身体的に強いときは、遺伝子を残そうという本能があるから、シンプルに性欲が強い。
 しかし、年食って性欲が弱くなってくると、観念的な力が無くてはアレが立たなくなる。変態的な力が必要となる。
 
 日本の性風俗が発達していることと、欧米に比べ性欲が弱いこと(夫婦間のセックス回数が世界最低レベル)は、無関係ではない。 

 

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「~ですが、何か?」 価値判断は争えない

2009年10月20日 01時05分29秒 | 社会・政治・思想哲学

 最近、「~ですが、何か?」という言い回しをよく聞く。

 これは何かを言い切って、それ以後の会話を拒否している。

 正確に言うと「何か文句ある?」ということなのだろう。

 まぁ、どちらかというと真剣な感じでなく冗談交じりではあるが。

 
 いくら言い切られようが、客観的な事実(例えば、大陽は西から登る)が間違っているなら、争うことができる。

 しかし、価値判断(例えば、ラーメンが好き)についてはその人がそう思っている以上、反論の余地はない。

 勝ち誇った顔で「ラーメンが好きですが、何か?」といわれれば、何も言い返すことができない。

 悔しいから「だから?それで?」と言い返そうか。

 

 

 

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私家版・ユダヤ文化論 内田樹 

2009年10月18日 20時04分41秒 | 読書・書籍

 道端で指輪とかイヤリングとかネックレスとか売っている人はユダヤ人が多いと聞いたことがあった。それで、外国人の行商に、あなたはユダヤ人ですかと英語で尋ねたところ、そうだと答えたものの、なにやらめちゃくちゃ怒ってきた。怒るようなことをした覚えはなく、すごく戸惑ったことを覚えている。
 多分、ユダヤ人だと指し示すこと自体、相当失礼なことなのだろう。悪いことをしたと思っている。
 それが私がした最初で最後のリアルなユダヤ人との会話である。

  1910年から始まるノーベル賞受賞者の統計を見ると、自然科学分野におけるユダヤ人の突出ぶりわかる。
 2005年度までの医学生理学賞のユダヤ人受賞者数は48名(182名中)、物理学賞は44名(178名中)、化学賞は26名(147名中)。それぞれ、26%、25%、18%に相当する。ユダヤ人は世界人口の0.2%を占めるに過ぎないのであるから、これどう考えても「異常な」数値である。
 もちろん、ユダヤ人と非ユダヤ人の脳の間に解剖学的な組成の差異は存在しない。だとするなら、その統計的に有意な差異は教育制度の違いがもたらしたものとみなすのがふつうである。
 しかし、ユダヤ人たちはそれぞれの帰属する社会の教育制度に組み込まれていて、学校を通じて「民族的な教育」をうける機会を享受していない。にもかかわらず、この異常な数値は
民族的な仕方で継承されてきたある種の思考の型が存在することを仮定する以外に説明することができない。 P174

  
 そもそもユダヤ人とはどのような民族をいうのかが問題となるが、

 1、ユダヤ人とは国民名ではない
 2、ユダヤ人は人種ではない
 3、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない

 私はこの本を読むまで、3をユダヤ人だと思っていた。しかし、近代以前ならそれでいいが、今はそれでは正確でない。
 定義不能なのがユダヤ人。

 

 アメリカにジェイコブ・シフという(1847-1920)という人物がいた。シフはドイツ生まれのユダヤ系の銀行家で、アメリカにわたり、クーン・ローブ商会グループの総裁としてアメリカ財界に君臨した人物である。
 彼は明治末年、日露戦争のときに、日本政府が起債した8200万ポンドの戦時公債のうち3925万ポンドを引き受けたからである。
 シフは帝政ロシアにおける反ユダヤ的暴動に怒り、虐殺陵辱された「同胞」の報復のためロシア皇帝に軍事的な鉄槌が下ることを望んだのである。
 シフはグループの影響力を行使して、ロシア政府発行の戦時公債の引き受けを欧米の銀行に拒絶させた。このユダヤ金融資本ネットワークの国際的な支援は日露戦争の帰趨に少なからぬ影響を及ぼした。

 シフは生涯、「反ユダヤ」的な帝政ロシアと戦い続けた。だが、彼は生まれ故郷のドイツにも、市民であったアメリカにも、どのような近代国家に対しても「国民」としての帰属感など抱いていなかった。
 確かに彼はアメリカ財界の大立者であったけれど「よきアメリカ市民」だったとは言えない。なぜなら外交は政府の専権事項であるにも関わらず、シフは彼の「同胞」のために、「個人的な戦争」をロシアに対して仕掛けたからである。
 私はこのようなタイプの日本人を想像することができない。
 私一人にとどまらず、「国民国家と国民」という枠組みで思考している限り、私たちはこのようなタイプの人間がどうやって生み出されるのか、彼の脳裏に去来した「同胞」というのがいかなる概念であるかを理解することができない。 p15

 


 さっき、NHKの日曜フォーラムで、フラガールの監督で知られる在日朝鮮人の李さんが出ていて、「自分は一体何者なのかということを複雑に考えていた」と言っていた。ユダヤ人は常にそういう思考をしているに違いない。自己の存在根拠をめぐる戦い。

 「反ユダヤ主義者は自惚れない。彼は自分のことを中くらいの人間、真ん中よりちょっと下くらいの人間、ありていに言えばかなりできの悪い人間だと思っている。反ユダヤ主義者が自分がユダヤ人より個人的に優れていると主張した例を私は知らない。しかし、彼はそのことを全く恥じていないのである。彼はその状態で満ち足りている。その状態を彼は自分で選んだからである」とサルトルは言う。また、
 「反ユダヤ主義者にとっては、知性はユダヤ的なものである。だから、彼は知性を心静かに軽蔑することができる。それらの美質は、ユダヤ人が彼らに欠けているバランスの取れた凡庸さの代用品として用いるまがい物にすぎない。それゆえ、その国土に深く根付き、二千年の伝統に養われ、父祖の叡智を豊かに受け継ぎ、風雪に耐えた慣習に導かれて生きる真のフランス人は知性など必要としないのである」

 このサルトルの言葉は至言だと思う。努力しなければ認めてもらえないということがいかにつらいことか。知性、教養、富、それらのものを備えてはじめてメンバーの中に入れてもらえる。凡庸であっても現状の今のままで十分だと思えることがどんなに幸せなことか。

 

 

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鎌倉の東慶寺 小林秀雄の墓

2009年10月12日 00時56分23秒 | 日々の出来事・雑記

 たとえば、若い人から、「徒然草」の一体どこが面白いのか聞かれるような場合、私は返答に窮し、こう答えるのを常とする、面白かないが、非常に名文なのだ、と。日本の古典文学は、頭脳的に読んでもほとんどなんの利益ももたらさないものばかりで、文学により頭脳の訓練をするためには、西洋の近代文学を読むのが、どうしても正しいようである。さて、返答に窮して、という意味は、自分では、いわば古典を読んで古典を読んで知るとというよりむしろ古典を眺めて感じる術を覚えた気がしているのだが、それがうまく口には言えぬ、そういう次第だ。小林秀雄 「年齢」の一節

 

 古仏を見てもあまり感動しないが、古寺、特に禅寺に行くと、心が動かされる。理由はよくわからない。
 今日、鎌倉の東慶寺にいった。こじんまりしてとても美しい寺だった。その寺内に、小林秀雄、和辻哲郎、西田幾多郎の墓があって、墓参りしてきた。

 

 


 これは小林秀雄の墓である。小さくてさっぱりした墓だ。

  鎌倉幕府を作った源氏は、身内で暗殺、殺し合いをし、三代で途切れてしまう。その後に実権を握ったのが北条氏。しかし、その政治もろくなものではなかった。
 こういうところで静寂な禅宗がうまれていくのだから不思議である。

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風に吹かれて エレカシ

2009年10月07日 17時00分32秒 | 日々の出来事・雑記

 昨日、エレカシの2009年の春に武道館でやったライブのDVDを見た。すごくよかった。
 宮本は剥き出しの魂を歌声にのせて観衆に届ける。多分、その場にいたら、ただただそのパワーに圧倒されると思う。かっこつけずストレートに力の限り歌い上げるその姿勢が、人々の魂を揺さぶるのだろう。最近、そういう気合の入ったシンガーが少なくなった。

 

 

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アルコール依存症

2009年10月05日 23時01分53秒 | 身体・健康・筋トレ

 アルコールを飲まない日を、自分の意志で週に二日間連続してつくることが出来ますか?アルコール依存症をチェックするための簡単なテストです。

 出来ない人は、アルコールの摂取を自分でコントロール出来ていないわけですから、アルコール依存症の領域に足を踏み入れてしまっているわけです。
 ちなみに、特に暴れたりしないというのは、アルコール依存症であるかどうかの判定にはまったく関係ありません。むしろ、最近は暴れないアルコール依存症患者の方が多数派です。
 中川昭一元財務相の死因がアルコール依存症なのは間違いありません。直接の死因では無かったとしても、そもそものあの酩酊会見に至った原因はアルコール依存症だとしか考えられないですし。
 でも、アルコール依存症の恐ろしさにスポットを当てる報道がされることはありません。

 理由はふたつあります。

 まず、放送局や新聞、出版メディアにとって、飲料メーカーはこれ以上ないお得意様だからです。アルコール依存症問題を声高に論じることは、高額な広告費を払ってくれる飲料メーカーを怒らせてしまうのではないかと、テレビ局や出版社の中の人は腰が引けてしまいます。
 つぎに、日本人はアルコール依存症をなめてかかる傾向があるからです。アルコール依存症なんて、心の弱い人がついついお酒を飲み過ぎるだけのことに大袈裟に病名をつけているだけだ、という認識の人がなんと多いことか!
 このふたつがあいまって、アルコール依存症の恐ろしさがメディアで取り上げられることもないですし、そのことに違和感を持つ人もほとんどいないのです。
 ちなみに、中川さんは選挙の時に節酒するなんて話がありましたが、重度のアルコール依存症の治療方法は、そもそも断酒しかありません。節度をもってお酒を飲むなんていう選択肢は無いのです。その節度の回路が回復不能にぶっ壊れてしまうのがアルコール依存症という病気なのですから。一生一滴も飲まないか、飲みまくって死ぬかの二択なのです。
 お酒が好きな方は、週に二日の連続した休肝日を作れなくなってきたら、引き返せなくなる前に酒のコントロールした方がいいと思います。一生お酒とい付き合いをしていくためにも。
 

 この記事ははてなで見つけたものだが、中川さんがアルコール依存症だと言っていて、私もそうだと思っている。

 私は今ではほとんどアルコールを飲まないが、むかーし、毎日飲んでいたことがあった。あのままいってたらアルコール依存症になっていたかも知れない。
 大麻が悪くてアルコールがいいという理由は何か。説明はつかない。両者とも依存性があるから。
 意外なことに長い労働をしている人ほどアルコールを摂取する。それに対して、ゆとりのある生活をしているとアルコールとは無縁になる。
 つまり、ストレスがアルコールに向かわせるのだ。一生懸命仕事をするな、とはいえないから、ストレス解消をアルコールに頼らないような方法を考えるしかない。

 また、心配事や心の問題があった場合に、アルコールを摂取することもある。しかし、それは単なるに逃げだ。問題は全く解決せず、そのまま放り出しているだけ、だんだん悪化していく。
 正論だけふりかざしても依存症の人に言葉が届かないかも知れない。だから、何らかの具体的な手当てが必要である。

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感覚遮断

2009年10月02日 22時27分34秒 | 身体・健康・筋トレ

 内田樹氏の「死と身体」に、ノンフィクション「心臓に貫かれて」を引用しているところがあった。
 
「心臓を貫かれて」はアメリカの死刑廃止の流れを変えた犯罪者であるマイケル・ギルモアの生涯を描いたものだ。著者は弟であるマイケル・ギルモア。
 興味深いので引用する。 

 ゲイリーは一つの教訓を与えてくれた。(略)「物事をただ受け入れ、感覚を消すことを覚えなくてはならない。苦痛も怒りも、何も感じちゃいけない。いいか、もし誰かがお前のことをぶちのめそうとしたら、じっと我慢していなくちゃならないんだ。抵抗しても無駄だ。そのまま黙って殴られて、黙って蹴飛ばされているんだ。好きなだけやらせろ。それが生きるためのただ一つの方法だ」
 

 このように抵抗せずにじっと我慢していることを「感覚遮断」という。私だったら、死を覚悟しても、最大限の抵抗をすると思う。少なくとも感覚遮断という方法はとらない。生きるより、戦う死を選ぶ。

 タトゥーとかピアスはどんなにうまくやっても痛みが伴うから、ゲイリーのいう感覚を消すことを覚えなくてはならない。
 感覚遮断は心と身体を分けて考えることである。
 
 援助交際をしている女の子に「男から金を取るのはなぜか」という質問をしたところ「金を払っていない間は、私はあなたのものではないよ」ということをはっきりさせるためだと答えたという。
 ここで問題となるのは、彼女が自由にさせているものは何かということだ。
 彼女が切り売りしているのは彼女自身ではなく、彼女の「身体」である。彼女はそう思っている。
 彼女は自分の身体を自分の所有物として扱っている。だから時間貸しができるのである。もちろん、その場合、好きでもない男に体を許すのであるから、感覚を遮断しているのはいうまでもない。

 特にお金を稼ぐ能力もなく、誰からも十分な敬意も払われず、何かを掴み取っているという感覚のない人間にも、当然、プライドがある。
 そのような人間であっても、自分が支配できるようなものが必要である。好き勝手にいじくりまわし、損なってみせることで、自分にも支配できるものがあるということを確認し、心理的に優位にたちたいと思う。

 小動物をいじめたり殺したりすることや、差別されている人間がもっとひどく差別されている人を差別することは、相手を支配下に置くことの一種だ。
 また、そのようなことをする勇気のない人間でも、自分の身体なら、傷つけることも可能である。
 リストカットなどもその支配の一つだろう。どんなに貧しくても、低い身分でも自分の身体だけは自分で支配して、それを傷つけ、いたぶることができる。誰からも尊敬されず、誰からも保護されない無防備で貧しい人間にとって、最後に残された「いくら乱暴に扱ってもいいリソース」は自分の身体である。

 内田氏は「自分の身体に敬意を払うこと」をうったえている。
 つまり自分の身体が今何を欲しているか、そのメッセージをていねいに聴くということである。
 身体感覚を遮断するのではなく、身体の欲していることを感じること。
 本当に好きな人だったら、手がすこし触れただけで、その接触が心に何らかの影響を及ぼすだろう。
 その微妙な感覚を、意識すること。それは感覚を遮断するのとは反対のことである。 

 

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Someone to watch over me. 素人?

2009年10月01日 23時06分46秒 | 日々の出来事・雑記

 スティングのsomeone to watch over me を探していたら、めちゃくちゃうまい人がいたので、アップした。よく知らない女性だがきれいな声をしている。素晴らしい。

 

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