フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

真似は愛情からなされる

2010年09月30日 00時58分37秒 | 社会・政治・思想哲学

 小林秀雄の「金閣焼亡」を読みたくて部屋の中を探したが、どこにあるか分からない。どこか奥のほうにあるのかそれとも散らばった本の中に混じってしまったのか。困ったものだ。きちんと部屋を整理しないと。
 なぜ探していたかというと、「金閣焼亡」に金閣寺に放火した青年のことが書いてあり、その内容を確認したかったからだ。本がない以上、うろ覚えの知識で語るしかない。だから、多少、内容が違っているかもしれない。

 私の記憶に残っていることを、端的にいうと「真似は愛情からなされる」ということだ。
 どういうことかというと、金閣寺を放火するような人間は狂人である。狂人の思考は他者とのつながりがなく自己完結している。ゆえに、同じ回路をぐるぐる回ってまったく進歩がない。なぜ、狂人は他者とつながって(具体的には、いろいろ会話して有用な情報を仕入れたりするとか)、ぐるぐると同じところを回っている思考を解き放ち、成長しようとしないのか。
 それは愛が欠けているからである。つまり、根本的に他者に対して愛情が欠けているから、人と話もしないし学ぼうともしないのである。

 親が子供を愛情をかけて育てると、子供は喜んで親を真似る。親みたいな人間になりたいと思う。しかし、その関係がうまくいかなければ反発して、「親みたいにはなりたくない」などと言う。
 真似は愛情からなされるのだ。

 最近よく耳にするワードに、ミラーニューロンというのがある。ミラーニューロンとは名前の通り、相手の動きを鏡に写った自分のようにとらえ、相手の動きを真似する神経細胞である。
 例えば、親が箸みたいな道具を使っているのを子供が見て真似るようなときに活発に働く神経細胞である。
 自閉症などはこの神経がうまく働かないといわれている。空気を読めない人もそうかもしれない。
 バイトなんかで、ちゃんと教えなくても勝手に人のやることを見てどんどん覚えていくタイプはこのミラーニューロンが発達しているといえる。また、ミラーニューロンが発達していると、人が泣いているのをみて、それを自分のことのように感じることができるため、共感能力が高くなるといわれている。

 基本的に憎しみから人間関係を構築している人や人間をまったく信じていない人は、他人の話をよく聞かず自分の世界に閉じこもってしまう。だから、だんだんと狂人の領域に足を突っ込んでいくことになる。

 それに対し、人間ってむかつくことや嫌なことも多いが、最後の最後に肯定的に捉えることのできる人は、結局、人とのつながりから助けられるから、ぐるぐる回る思考から逃れることができる。

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贈与ビジネス

2010年09月28日 00時13分54秒 | 社会・政治・思想哲学

 テレビタックルを少し見ていたら、焼酎飲み放題の居酒屋やビール一杯たのむと餃子がついてくる店や、カレーが無料で食べ放題のラーメン屋などが紹介されていた。そんなことしてやっていけるのかと思うが、意外なことにそれで売り上げがよくなって、無料の分を計算に入れても十分儲けられるとのことだった。

 でもよく考えると、無料で与えることはなかなかの方法である。
 というのも人間にとっては、交換や売買ではなく、贈与が原則的な形態であるからである。
モースの贈与論にそのことが詳しく書いてある。

 プレゼントはコミュニケーションの一つである。何かもらうとうれしい。しかし、物をもらうことで何らかの精神的負い目を負ってしまう。相手にはそのつもりがない場合もあるし、精神的負い目を負わせるために贈与している場合もある。
 また、贈与行為は、何のかかわりもない人と何らかの関係性をつくるには最高の方法であるといえる。街で「これ買ってください」といっても普通は誰も相手にしない。しかし、何かただであげるといわれれば、受け取ってもらえる確率は高くなる。ティッシュなんかだと受け取ってもらえないこともあるが、それでもティッシュを買ってくださいというよりよっぽどましだ。
 一度、その人の無意識に何らかの関係性をつくってしまえば、まったく関係のないところよりも一歩リードすることになる。人間は贈与した人に悪い感情を持てないからである。その意味で、贈与はコミュニケーションの最高の形態ともいえる。言葉なんてまったく通じなくてもよい。

 儲けようとしてけちけちに行動すると、人は逃げていく。「欲しいものは、与えなくては手に入らない」ということなのだと思う。儲けとは真逆の贈与行為を行うことで、大きく儲けることができるとは、世の中は本当に面白いなぁと思う。

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弱いものが勝つということ

2010年09月26日 11時47分20秒 | 身体・健康・筋トレ

 昨日、久しぶりに格闘技の試合を見た。しかし、昔ほど興奮しない。
 なぜだろうと考えてみる。
 多分、カタルシスが足りないのだろうと思う。カタルシスは絶体絶命の状態から逆転して勝つような場合に感じるものである。しかし、最近の格闘技の試合は、単に強い者が勝つという基本的な生物の原理が、試合によって実証されているだけだからである。

 「柔よく剛を制す」とは柔らかくてしなやかなものが、強く硬いものを制すというもので、それが転じて、弱い者が強い者に勝つという意味をも有する柔道の格言である。
 武術とは、基本的に弱い者が強い者に勝つためのものであり、強い者が勝つという当然の原理が働くなら武術は必要ない。普通に戦えば自然の原理に従った結果になるからである。

 人間とトラが戦ったらどっちが勝つだろうか。
 もちろん人間だと答える人もいるし、いやトラだと答える人もいるだろう。このように答えが真逆になるのは、そもそも前提が異なっているからである。人間に銃を使うことが許されていれば当然人間が勝つ。素手で檻の中で戦えば人間は負けるだろう。大昔、人間は非常に惨めな動物だったとのことだ。他の動物に比べて弱く、食べ物も他の大型哺乳類の残り物を食べていたらしい。しかし、武器を使うようになってから、その立場が逆転する。現在では人間は哺乳類最強のように振舞っている。ただ、今でもトラと素手で戦ったら絶対勝てない。大型の犬だって勝てるか怪しい。
 人間が強いのは、武器(智恵)があるからである。
 武術はこの武器のようなものである。弱者ゆえ必要になる。強ければ武術など使わずに、普通に戦えばいいからである。

 古武術の甲野氏が、武術を志すことになったのは、「運命は決められているがゆえに自由だ」ということを確かめたかったとのことだ。これはなかなか難しい観念だ。一見矛盾した「決められている」ということと「自由」ということが一緒になっているからだ。

 こういう場面を想像してもらいたい。相手から鼻先に刀を突きつけられて、こちらはまだ刀すら抜いていない状態、まさしく絶体絶命の状態である。このような状態の中で、死んでもいいとすれば、振舞うべき行為は限りなく存在する。しかし、この命を失う可能性のある極限の状態では生き延びるための方法は限られている。その数ある行為の中から自分の行為を自由に選び取って、それを行うわけだが、もし、生き延びることが運命付けられているとすれば、意識的にもしくは無意識的にその生き延びるための唯一の方法を選び取っているはずである。
 ただ、このような緊迫した状態では、意識的に行為を選ぶというより、無意識的に行為をおこなったと言ったほうがいいだろう。なぜなら、意識だけ体は自由に反応しないからである。
 思うのだが、このように無意識的に行為を選び取らせるものは一体なんなのか、ということである。日々の鍛錬なのだろうか。それだけではないような気がする。このような極限の状態では、私はこの行為をするしか仕方がなかったのだ、という確信的な心の動きでしか行為が現れないのではないかと思う。
 これを運命と呼ぶのかもしれない。
 このように運命が決められているという感覚は、極限状態で、自分という自我を滅しつつ自由に選び取った行為(誰かに選び取らされた行為)によって生まれてくると思う。
 自分をこのような状態にもっていくことで、結果的に、勝負に勝つことになる。このような状況では、強いから勝つのではなく、むしろ弱者だから勝つことがになるといえる。なぜなら、強い者であれば絶対絶命という状況が生まれないからである。
必ずしも強者=勝者ではない。弱者が勝者になることもある。
 このような弱者が危機的状況を乗り越える方法を探求する道が「武道」というものなのかもしれない。

 昨日、41歳の桜庭和志が一本負けをした。人は老いには勝てない。老いというのはどんなに強い人間をも弱者に変える。ただ、今言ったように、本来の武術は弱者が強者を倒すためのものである。だから、自分が弱者になったときから、武術が本来の機能を始めるのである。

 老いた者が若い者に、小さい者が大きな者に、日本人が外人に、勝つ試合が見たいなぁと思う。そういう試合は人々に勇気を与える。そのような試合が多くなれば、また格闘技ファンが増えるのではないかと思う。

 

 
 

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「家族に必要なただひとつの条件」とは

2010年09月25日 23時54分42秒 | 社会・政治・思想哲学

 「邪悪なものの鎮め方」の中に「家族に必要なただひとつの条件」というエッセイがある。
 内田氏の家族論とは一体どのようなものなのか興味深く読んだ。しかし、その内容に、一瞬絶句した。
 家族に必要なただひとつの条件は、「儀礼を守ること」だそうだ。
 
 愛がなくとも、共感がなくとも、価値観が一致しなくとも、美意識が一致しなくとも、信教が一致しなくとも、政治イデオロギーが一致しなくとも(キリがない)、家族の儀礼を守ればそれでオッケーだとのことである。
 具体的には、朝起きれば「おはよう」、寝るときには「おやすみ」、誰かが帰ってきたら「ただいま」「お帰り」などの儀礼をきちんと行うことである。

 多分、このようなことなのだと思う。
 家族とは、弱者が共同体をつくることで生き延びる確率を高めようとした社会制度である。だから、弱者に対して多くを求めないことなのだ。つまり、簡単な家族の儀礼さえ守っていれば、あなたは私達の家族なんだよ、ということを認めてあげる社会制度だということだ。

 そのように考えると、少しは意味が分かるかなぁと思う。だってそうでしょ、家族ってむかつくことが多い。いつも愛していることばかり要求されたらきつい。むかついていても、儀礼だけはちゃんと守っていればいい、としたほうが、弱者にはありがたい。
 なるほど。 

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邪悪なものの鎮め方 内田樹著

2010年09月24日 22時30分54秒 | 読書・書籍

 「邪悪なものの鎮め方」を読了。本当に面白かった。どう面白かったのか、これから説明しようと思う。

 邪悪なものとは、有形無形の私たちを傷つける暴力的なものの総体である。社会システムだったり父性的なものだったり呪いだったりする。この邪悪なものとどのように対峙し、またどのように折り合いをつけて生きていくのかというのが、この本のテーマだと思う。

 内田氏の思想を考える前提として、一言付け加えなくてはならないことに、私たち人間は根本的に「世界に対して遅れている」というユダヤ的考え方がある。どういうことかというと、私たちが生まれた時には既に世界は始まっており、私たちのまだ知らないルールによってゲームが始まっているというものだ。日本語だってある種のルールだし、日本の道徳や法律も生まれたときには決められている。私たちはそのゲームのルールを知らなくても、とりあえず知らないなりに何とかやっていかなくてはならない。

 このように、世界は本質的に分からないものだということが、人間の本能に刷り込まれている。その上で、彼の著書に繰り返し現れる主題、「人間の最大の知性は、第六感である」というものがある(内田氏はそうはいっていないが)。
 この第六感を霊感と言い換えてもいい。ポランニーは暗黙の知といい、フッサールは超越論的直観といい、カントは先験的統覚といった。
 
 具体的にどういうことかというと、
 
 「どう振舞っていいか分からず間違いが許されない場面で、適切に振舞うことができる能力」とか、
 
 「それを学ぶ意味や実用性をまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすだろうことを先駆的に確信する能力」とか、
 
 「自分がその解き方を知らない問題を、実際に解くより先に、これは解ける、と分かる能力」

 

 などである。
 
 世界は本質的に分からないものなのだから、人間にそのような能力が備わっているのは自然のことである。

 

 このような第六感を研ぎ澄ます方法は、意外にも、常識だったり、礼儀正しさ(礼儀正しい者を傷つける者は稀だ)、身体の感覚だったりする。その辺が興味深い。

 また、呪いについて語っている。

 「呪いというのは、他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びをすることである。さしあたり、自分には利益がない」こと、という。
 私たちの社会では「他者が何かを失うこと」をみずからの喜びとする人間が異常な速度で増殖している。内田氏は、これは一つには偏差値教育の効果だと分析する。偏差値は同集団の中のどの位置にいるかの指標であり、他人の学力を下げることができれば努力せずに相対的に自分の学力を上げることができるからである。

 自分で自分にかけた呪いは誰にも解除できないとも言っている。自分にかけた呪いとはどういうものかというと、「自分自身の消滅を求める呪い」である。どうしてこのような呪いを自分自身にかける羽目になってしまうのか。

 ルールを愚直に守る人間たちが多数派である場所では、ルールを破る少数派は利益を得ることができる。だから、ルール違反をした本人は、彼以外の人々が全員ルールを守ることを望んでいる。そうであればそうであるほど利益が大きいからである。例えば、高速道路で渋滞しているときに、ルール違反をして路肩を走っているドライバーは「自分のように振舞うドライバー」ができるだけいないことを切望している。
 自分のような人間がいないことで利益を得ている人間は、いずれ自分のような人間が一人もいなくなることを願うようになる。その願いは、潜在的に、無意識的に「自分自身の消滅を求める呪い」となって返ってくる。

 

 
 これは個人的な意見だが、人を呪おうとしている人間は、既に呪われている。どういうことかというと、他人を呪おうとするからには、その他人に対して、恨みや嫉妬や許しがたい出来事があったのだと思う。しかし、過去のある出来事にとらわれていると、自分自身が前には進めない。この前には進めないことが呪いなのである。例えば、いじめられた過去があったとする。うまくいかないことがあるとすぐにあの時いじめられていたからだと考える。その時点で心が過去にさかのぼっているのである。過去にとらわれていると言い換えてもいい。この過去の出来事に、足を絡めとられているうちは前には進めない。だから、人を呪おうとしている間は、自分自身の呪いを解くことはできない。

 

 
 最後に、カミュの言葉で締めくくりたい。

私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じていません。私が知りたいのはどう振舞うべきかです。より厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、どのように振る舞い得るかを知りたいのです。
 

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乾徳山

2010年09月20日 16時55分28秒 | 登山

 

 乾徳山は日帰りでいけるとガイドブックに書いてあったが、標高差が1200mあり(標高差1000mあったら結構きつい)、岩場が多く非常に危険らしいので、登山前日に近くに泊まって朝早く登山を始める計画を立てた。経費節約のため宿泊施設には泊まらずキャンプをすることにした。
 
 国道140号をずーっとまっすぐいくと徳和の乾徳山登山口に着く。登山口付近にいいキャンプを張る場所がないかなぁと思って探してみたが、その辺は民家が多くキャンプを張る雰囲気ではなかったので、国道140号を戻り、
うろうろ探すことにした。五分くらい車を走らせると国道沿いに車を20台くらいとめても平気な感じの広いスペースの路肩があり、きれいだったので、そこでキャンプを張ることにした。すぐ脇に徳和川が流れていて、なかなかいい場所だった。渓流の流れの音が程よく、気持ちのいい夜を過ごせたと思う。
 9時ごろには完全に熟睡していた。

 

 朝、4時に目覚ましをセットしていたのだが、起きれず5時ごろ起きた。パンとコーヒーを食べてからキャンプをたたんで、6時頃から登り始めた。

 


 

 

 登山口から登山道まで結構距離があって、途中、徳和の民家を通り抜ける。徳和川の水を利用して、イワナかヤマメの養殖をやっていた。丸い大きな水槽にたくさん魚がいた。

 




 民家をすぎてしばらくすると、やっと乾徳山への入り口に着く。朝早いのに、結構人がいる。人気の山だ。

 


 

 

 東京の山は、杉やヒノキが多くて景色が単調でつまらないが、山梨の山はいろんな木が生えていて、なかなか面白い。
 
 東京の山は熊なんていなそうだが、山梨の山はいかにも熊が出てきそうである。みな熊が嫌いでリュックに鈴をつけて熊が来ないようにしているが、私はできれば熊を近くで見てみたいと思っている。だから、鈴なんかつけない。
 ヒグマは怖いが、本州にいるツキノワグマなんて犬がすこし大きくなった位だとたかをくくっている。しかし、調べるとツキノワグマも結構大きいらしい。だから鈴はちゃんとつけたほうがいいかも。

 


 

 

 水場。 


  

 

 木が少なく見晴らしのよい場所。乾徳山はむかし放牧をしていたとのことだ。詳しくは分からないが、牛の放牧なのだろうか。
 里山に放牧をすると、木がまばらになって見晴らしがよくなる。
 最近、里山の放牧がまた注目されている。低投入で生産効率が高いからである。山でのんきに牛が草を食っていたら、見ているだけで楽しそうである。

 


 

 月見岩。岩の上で少年が座っている。

 


 

 扇平。1850m。扇平ってなんなのかよく分からないが、これから岩場の危険なところ行くことは分かっている。少し緊張する。

 


 

 これがかの有名なトリカブトだ。

 

  

 

 少し岩が多くなってくる。自然の日本庭園のようで、なかなかの景色だ。

 


 

 大きな岩と岩の間に裂け目がある。なにやら日本の神話に出てきそうな所である。中に入っているところを写真に撮ってもらう。

 

 

 

 だんだん危険な岩場になってくる。しかし、まだふざけた写真を撮るだけの余裕はある。

 


 

 

 危険な場所。落ちたら確実に死ぬ。

 


  

 

 

 

 心臓バクバク、想像以上に怖い。本当に怖い。乾徳山が危険だということがよく分かる。腕力に自身のない人は、岩場を避けて巻き道にそれることをお勧めする。
 

 


  

 

 ガスが出てきて、不穏な雰囲気になる。頼むから「雨降らないでくれ」と祈る。

 


  

 

 ガイドブックによく載っている最後の難所。しかし、個人的には、この場所は怖くなかった。

 


 

 岩場で休むところがない頂上。昼はコンロでお湯を沸かしカップラーメンを食べる予定だったが、水が無くなってカップラーメンを食べることができない。仕方ないから、おやつのアンパンとむき栗を食べる。カップラーメンは降りて食べることにする。
 


 

 

 下りは、少し違うコースで帰る。コケだらけの岩と樹木。なかなかの景色だった。

 


  

 

 無人の高原ヒュッテ。

 乾徳山は危険であったが、魅力的な山であった。草原や岩場がバランスよくあって、景色が変わって面白い。しかし、危険なので注意が必要である。頂上付近の岩場はかなり危険である。 
 楽しい登山だった。 

 

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秩父の琴平丘陵

2010年09月19日 23時21分15秒 | 登山

 乾徳山に行くことにした。しかし、山梨で東京からはかなり遠いし歩行時間も長い。日帰りでは危険だ。そこで、土曜日に登り口まで行ってキャンプを張り、そこで泊まることにした。
 ただ、土曜日が単なる移動日になるのはもったいないから、秩父の琴平丘陵に行くことにした。

 

  

 

 

 

 まずは、秩父鉄道・影森駅をから出発して、大渕寺からハイキングを始める。なんとなく不気味な寺であったが、トイレはきれいできちんとしていたから、とてもよかった。

 

 

 巨大な観音様。名前は忘れた。あっ、護国観音だ。

 

  

 

 

 

 岩井堂という清水寺を思わせるような外観の建物である。

 

 

 山の中の大仏様。誰が運んだのだろうか。結構、岩場の上の方にある。

 

  

 

 修験道。呪術力を得るために山にこもって修行する日本古来の山岳信仰と仏教が混在したもの。
 

 

 羊山公園の羊。草をあげたらキチガイのようにむしゃむしゃ食べた。あんなに目の色を変えて食べるとは思わなかった。イメージとしては、毛を刈られてもじーっとおとなしくしていて、迷える子羊みたいな弱弱しい感じなのだが、意外とパワフルで力強い。

 

 

 

 公園内に羊山センターというものがあって、銭湯のような風呂があった。
 せっかくなんで、入浴した。300円で安い。秩父在住の65歳以上のお年寄りは無料ということだ。二人ぐらいお年寄りが体を洗っていた。少し話をしたが、元気で幸せそうだった。まぁ、風呂に入って不幸そうにすることは難しい。

 

 土曜日はこんな感じだった。今日はかなり疲れているので、乾徳山のことは明日のブログで。では、また。

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オウエンのために祈りを ジョン・アーヴィング

2010年09月14日 08時06分35秒 | 読書・書籍

 ある人がどんな性格かは内面が見えない以上、その行動から判断するしかない。つまり、どのような行動をするかがその人の性格となる。もう少し正確に言うと、人は自由意志を有しているわけだが、どのような行動をとるかを選び取るその選び方がその人の性格といえそうである。ポイントは「自由に選び取ること」にある。人間の性格を論じるとき、前提となるのは自由である。自由に行動できなければ個性的な性格も生まれてこない。
 それに対して、人はある出来事に対して、宿命を感じることがある。宿命はある出来事がそうなるように予定されていたかのような感覚である。そのように言うと自由と宿命はまったく相容れないような気がしてくるが、それは違う。人がある行動を自由に選び取っているはずなのに、そうなるように予定されていたかのように感じるときのほうが、より深く宿命を感じるといえる。
 
 個人的に題名を聞いただけで思わず涙が出そうになる小説の一つに「オウエンのために祈りを」がある。宗教に興味のない人も、この小説を読んだら人生における宗教的側面について深く考えさせられることになると思う。キリスト教がベースになっていると思われるが、仏教徒が読んでも深く考えさせられる事には変わりがない。
 この小説は端的に言えば、主人公のオウエンの人生が描かれたものである。彼の自由な意志で選び取った人生なのだが、トータルとして眺めると、結果的に「宿命」という糸に操られているとしか思えない。それほど人生における何気ない出来事が繋がりをもって彼に大きな意味を与える。読後、人生の宿命について深く感動させられてしまう。ある種の宗教的体験ともいえるのかもしれない。
 オウエンの人生は、生まれた状態もあまり幸福とはいえないし、死に方もあまり幸福とはいえない。しかし、最高の人生だったなぁと素直に思える物語である。

 

 人生における物語の不思議さは、生き切ってみないと、結局、どういう人生だったのかうまくいえないところにある。また、ある苦しみが後に重要な出来事となって繋がってくる場合もある。何がどう繋がっていたかは終わってみないことにはわからない。人生を終えて、もう一度ビデオを再生するかのように見返してみると、ああ、あれとこれが繋がっていたんだと分かるが、その行為をしている瞬間にはそれがどのような意味を持っているのか知るすべはない。
 
 さしあたって、私たちにできることは、今この瞬間を一生懸命生き抜くことしかないのだろうと思う。どんな物語であろうとそれが私達の個性なのだから。

 

 

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共時性(シンクロニシティ)

2010年09月10日 00時32分32秒 | 社会・政治・思想哲学

 共時性とは意味をもつかのように結びあわされた偶然のパターンをいう。

 端的に「意味のある偶然の一致」でもいいと思う。

 ユングの患者に合理主義的な態度を崩さない女性がいたそうだ。その態度のため治療が困難になっていた。あるとき彼女がコガネムシの夢について語っていた。ユングはコガネムシが古代エジプト人にとって再生のシンボルとしての意味を持っていることを知っていた(集合的無意識)。
 彼女が話を続けていると、窓がかたかたと鳴ったので開けてみると、そこからコガネムシが飛び込んできたそうだ。それから彼女の合理主義的な態度が直って、治療が進み、彼女の精神状態は改善されたとのことである。

 単なる偶然にしては話が出来すぎている。しかし、こういうことはよくある。

 ある人のことを考えていたら、その人とばったり逢ってしまったり、夢で見た同じ光景を次の日に見てしまったり。

 このようなことは、たしかに偶然なんだけれどなんとなく意味のありそうな感じの出来事である。

 人と人との深いつながりなんて小さな共時性の積み重ねによるところが大きい。

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からだことば

2010年09月07日 22時58分47秒 | 社会・政治・思想哲学

 知らない間に体が勝手に反応していて、その動きにハッとすることがある。机が揺れるほどの貧乏ゆすりをしていたり、異常に汗をかいたり、心拍数が上がっていたり。
 その動きによって、はじめて自分が焦っていたんだとか、怒っていたんだとか気付かされる。
 
 心と身体は連動している。
 
 自分の気持ちを伝えるには、会話が一番である。しかし、微妙な人の心をの動きを読み取るためには、言葉だけでは足りないこともある。人は嘘をいうこともあるからである。だから、体の変化からその人のメッセージを受け取らなければならない場合もある。
  例えば、会話中に腕組みをしたら、それは拒絶の意思表示を表しているし、また、話の途中、ポケットに手を隠したら、嘘をついているサインである。
 相手と目を合わせたときに瞳孔が開いていたら、あなたに興味を持っている証拠である。 
 このように、人間は言葉と裏腹の本心を体で表している。
 体の変化の特徴と心の関係について書かれた心理本がたくさん出ている。だからそのような本を研究するのも面白い。
 しかし、手っ取り早く体の変化に敏感になるためには、自分の内面や体の動きを注意深く観察するのがいい。感情と身体の連動の仕方がわかってくる。それは自分ことが分かるだけではなく、他人のことも敏感になり、自然と相手の動きでその考えがわかるようになってくる。特に、長い付き合いの友人なんかだと癖もあるし、ある程度のパターンがある。
 慣れてくると、言葉を交わす前に考えていることが手に取るようにわかる。そして、自分自身の心の状態もより深く理解できるようになる。
  
 このようなコミュニケーションを「からだことば」とでも言おうか。

  

 

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