エレファントカシマシ - 悲しみの果て
虎ノ門か神谷町かわからないが国道1号線の付近を歩いていたらボーンボーンと鐘の音が鳴ったので、そこに行ってみた。
坊さんが一生懸命、鐘を鳴らしていた。
鳴らし終わったところを見計らって「この寺はなんて名前ですか」と訊いたら、モゴモゴと言うので聞き取れなかった。だから、どこの寺かわからない。
お釈迦様がアレをブラブラさせている。
私の隣で、黒人女性の観光客がデジカメをもってこのお釈迦様を撮っている。いったいなんだと思っているのだろうか。
この付近は駄菓子屋みたいなところがあったり、洒落た建物があったりいろんなものが混在している。東京もまだまだ知らないところが多く、奥が深い。
ひさしぶりに、回転木馬のデッド・ヒートを読んだ。
これは短編小説というか、どちらかといえばノンフィクションにちかい。
人から聞いた話を元に書いた小説である。
その中にレーダーホーゼンという話がある。
妻の友人の母がドイツにいる妹をたずね、ドイツを旅行する。途中、父の土産にレーダーホーゼン(ドイツの半ズボン)を買いに行く。
その過程で、母は父と離婚することを決意する。そして、そのまま日本に帰って、父のみならず娘の自分をも捨てて姿を消してしまう。
どうも納得のいかない不思議な物語だけど、この話がすきだ。
三年後、親類の葬式で彼女は母と顔をあわせた。そのとき、どうして姿を消したのか理由を聞いてみた。そこで、このレーダーホーゼンの話をされたとのことだった。
この物語をいくら読んでも、彼女の母が離婚を決意した理由がよく分からなかった。いまもよくわからない。
物語の最後に村上氏と彼女が話ししているシーンがある、ちょっと抜き出してみる。
「それで、君はもうお母さんのことを憎んでいないの?」
「そうね、もう憎んではいないわ。決して親密なわけではないけれど、少なくとも憎んではいないと思うわ」と彼女は言った。
「それはその半ズボンの話を聞かされたから?」
「ええ、そうね。そうだと思うわ。その話を聞いたあとでは私は母のことを憎みつづけることができなくなったの。どうしてだかはうまく説明できないけれど、きっとそれは私たち二人が女だからだと思うの」
僕は頷いた。
「それでもしーもし、さっきの話から半ズボンの部分を抜きにして、一人の女性が旅先で自立を獲得するというだけの話だったとしたら、君はお母さんが君を捨てたことを許せただろうか?」
「駄目ね」と彼女は即座に答えた。「この話のポイントは半ズボンにあるのよ」
「僕もそう思う」と僕は言った。
モーツァルトの音楽の中で一番好きなものを一つ選べといわれたら間違いなくピアノ協奏曲20番を選ぶ。そのなかでも1、2、3楽章すべていいが、一つ選ぶなら3楽章だろう。最初のピアノソロと続く演奏に心がかき乱されるような感じになる。途中、長調に変わり、そこは少しだらけるが、最後のフィナーレは良い。
20番はモーツァルトのなかでも珍しく短調で、どちらかというと雰囲気がベートーベンに似ている。ベートーベンも20番が好きだったようだ。
基本的にモーツァルトのピアノは女性の演奏が好きだ。男性の演奏するものは個人的にあまり好みではない。20番はいろいろ聴いたが、内田光子の演奏がもう断然好きだ。
誰かがyoutubeにアップしてくれていて、映像で見るのははじめてだったので、少し感動した。 どうもありがとう。
Uchida conducts Mozart\'s Piano Concerto #20 - Rondo III
北鎌倉の円覚寺に行って来た。円覚寺について、詳しいことはよくわからないが、禅僧がそこで修行しているそうだ。
円覚寺に入ってすぐの左の建物の奥のほうに行くと、弓道をしていた。
静寂の中、これから打つという瞬間にバチッと音をたてて写真をとってしまった。 びっくりさせてしまったかもしれない。
この円覚寺は土曜日に一般人向けに禅をやっているそうだ。
その部屋を横目に、坂を上っていくと、坊さんの住んでいる家があった。
用事があったら叩いて呼ぶ。別に用事がないので写真だけ撮る。
その坊さんの家から見た下の景色。すごく眺めがいい。そして静かだ。
こういうところで住むことができたら幸せだろうなぁと思う。
最近、神社仏閣めぐりをしている。
中学の修学旅行が鎌倉だった。そのとき円覚寺にも来ていると思うが、まったく覚えていない。
浮き足立っている人間に寺とか見せても意味がない。
しかし、今は神社仏閣を見ていると気持ちが落ち着く。
そういう歳になってきたのだろうか。
ジョン・アーヴィングの未亡人の一年を読み終わった。
彼はインタビューで「僕は小説家として、読者の笑いや涙を誘い、読者の感情を揺さぶりたい。知的に説得したいとは思わない」といった。
その試みは成功したようだ。
母親が自分の息子を失うということは耐え難い悲しみなのだろう
「悲しみは伝染るのよ」と彼女は言う。
愛する人に悲しみを伝染さないように、彼女はその場を去っていく。
しかし、また、その悲しみは長い時間をかけて乗り越えることも可能だと作者は信じているようだ。
次から次へと女性をかえ浮気を繰り返す父親のテッド、それに対して一人の女性を愛し続けるエディ。
テッドは女性の悲しみに付け込み女性と関係を持つ。エディは女性の悲しみそれ自体を愛する。
両者の愛は対照的だ。
「僕はその女性のすべてを見ようとする」エディはハナにいった。
「もちろん、女性が年をとっているのはわかっている。でも彼女の写真がある。写真がなくても彼女の人生を写真のように想像することができる。身振りとか表情の中に、深く染み込んだ、年齢を超えたものがあるんだ。年をとった女性は自分のことをおばあさんだとは思っていない。僕もそうは思わない。僕は彼女のなかに、彼女の人生をすべてを見ようとする。一人の人の人生全体には、すごく感動的なものがあるんだ」
彼はそこでやめた。気恥ずかしくなったからだけではなく、ハナが泣いていたからだった。
「誰もそんなふうにわたしのこと、見てくれないわ」ハナはいった。
エディの生き方や行動はこっけいで馬鹿に見える。事実、馬鹿にされている。
しかし、彼の優しさは主人公のルーシーのをあたため、傷ついた心を少しずつ変化させていく。
テッドに育てられ混乱した愛情表現しかできなかった彼女は、彼と再会することで人の愛し方を学んでいく。
ルーシーの最初の夫アランが死んだとき読み上げられたイェーツの詩。
あなたが年をとって
髪は白くなり
居睡り好きになって
暖炉の前で
うとうとする時がきたら
この詩集をとりおろして
ゆっくりと読んでおくれ。
そして、あなたの眼がかつて持っていた、
あの柔らかな眼差しを
あの深い翳をふくんだ表情を
思い出しておくれ。
多くの男たちがあなたの明るい愛嬌を愛した。
そして、真偽はともあれ熱情をもって、あなたの美しさを褒めたたえた。
しかし、ひとりの男は、あなたのなかの尋ね求める魂そのものを愛した
そして、その変化する表情の奥にある悲しみを愛した。
だから赤く燃える暖炉の前にかがんで、つぶやいておくれ。
それも少しだけ哀しげに
あの「愛」は遠くに逃げ去って
いま、むこうの山々の上を歩いていると
そして、その顔をあたまの星くずのなかに隠していると。
KYというJKの隠語がある。
どの分野においても隠語というのがある。隠語は、自分たちのグループ内だけで通用する独自のコニュニケーション言語である。
他を排除し、自分たちのグループの団結力を高める効果がある。
JK=女子高生は隠語を使うことによって自分たちのグループの団結力を強め、大人の世界や他のグループを排除する。
ここで言いたかったのは隠語のことではない。「空気を読む」ということである。
この「空気」について考えてみる。
ドアをガラっと開けて教室に入る。
金八先生が一人の生徒に熱弁を振るっている。周りの人間はみんな泣いている。
わけも分からず完全に場違いなところに入ってきたようだ。
金八先生の足元に自分の財布を転がっている。
どうするか?
「空気」とは、その場の雰囲気も含まれるが、それだけではない。
過去の状況からどのようにして今に至ったのか、そして、その状況がどのように流れていくのかの、その一連の流れのことである。文脈と言い換えてもいい。
私たちは、今どのように振舞えばいいのかを、瞬時に考え行動する。
これができない人が、KYといわれる。
「空気を読む」とは、文脈を把握する能力である。
羽生さんが将棋の次の手の読み方について語っていた。みんなは、かなり先まで読んでから次の一手を決めていると思っているが、それは誤解である。まず、この手だとひらめく。その後になってその手でいいのか確認するのだ、と。
そのひらめきは、単なる勘ではなく、過去の戦い中で培ってきた経験があってこそ生まれてくる。脳は超高速で回転している。
空気を読むということにも同じことがいえる。
過去の経験から今どうすればいいかを瞬時に決定するわけだ。
だから、経験が豊富なほど、その場の空気が読める。
また、空気を読むだけではなく、場の空気を支配し、自分の思ったように流れを変えていく人もいる。それにはたくさんの経験と強い意志が必要である。
人の作った空気をうまく読むだけでは、文脈依存になり、人に利用される。
読めることを前提として、自分で空気を作り出していかなくてはならない。
それができないならKYでいることも、ひとつの方法だろう。
塩野七生がエッセイの中で言っていたこと。
「一度、夫でも恋人でもボーイフレンドでも、愛する人が病気になってくれないかなと願ったことのない女は、女ではない」
男が病気になって寝床から起きれない状態になると、完全に男を独占できるからだという。
そうなんだ。面白い。
最近、You Tubeでお笑いの動画を見る。好きな動画はだいたい決まっていて、不思議と笑うところも同じだ。人が好むパターンというのはだいたい決まっている。
水戸黄門の話のすじは、どの回もだいたい同じである。それにもかかわらず、TBSの中で、水戸黄門の再放送の視聴率は高い。また日テレのごくせんも内容はだいたい同じなのに高視聴率だ。
このことから人はワンパターン嫌うというより、むしろ好んでいるのが分かる。
ベテラン芸人は、同じギャグをくりかえす。同じ仕草や言葉がくりかえされると、そこにおかしみがうまれる。
ギャグは、ズレを楽しむという側面もあるが、くりかえすことがポイントである。
くりかえしは、人の心を落ち着ける作用がある。