ザフォド様へ
コメントありがとうございました。深い内容のコメントなので、ちょっと簡単には返事できないと思い、一つの記事として返答しようと思います。
人間の意識は、おっしゃる通り、セミと同様に環境に適応するための生理的機能の一種でしょう。人間の意識や思考が高度だからといって他の動物と一線を画する特別なものではなく、単なる生物の進化形態だと思います。そうすると、セミに生きている意味がたいして無いとするならば、単なる進化形態である人間にも生きている意味が無いということになります。本当にそうなのだろうかということがこれからの話の内容になります。
いつも自分のブログは夕方にしか見ないのですが、今日はたまたま携帯で自分のブログにアクセスしたところ、このコメントがありました。そして内容がなかなかのものだったので、一日中ずーっとこのことについて考えていました。しかし一生かかっても答えが出ないような問いなので一日考えたくらいでどうにかなるものではなく、基本的に今まで私が考えてきたことを整理するということしかできません。
ご了承ください。
いろいろな問題が含まれているので、話し始めると論点があっちこっち飛んでしまう可能性があるので、絞り込んでいきたいと思います。
1生きることに意味があるのか
2自殺について
の2点です。
自分で項目を立てておいて何ですが本当にそれが語れるのか非常に不安になるほど難しい問題です。まあがんばってみます。
まず、生きることに意味があるのかという問いですが、言い換えれば生きるとは、存在していることですから、人間の存在の根拠が示されなければならないとおもいます。
オギャーと生まれてくるわけですが、別に頼んだわけでもなく自分で求めたわけではない。勝手に生きていくことを強制されるわけです。人間として生きていくことをとりあえず課される。何で課されるのかというのが存在根拠になるのでしょう。だけど根拠はないんですよね。
いくら考えても思いつかない。だから人間は外部から根拠を持ってきて神様が御作りになったという物語が語られるのでしょう。
もうひとつもっとリアルな話として、両親の、もっと言えば母親の無償の愛(母性)がとりあえず生まれた時の存在の根拠になりうるかもしれない。
その時期にうけた愛情が自己を肯定するエネルギーになるといわれています。ただ自己を肯定するエネルギーになるからといって存在の根拠にはやはりなりえないと思われます。
釈迦は生きることは苦役だと言いました。それは瞬間的な苦しみではなく、楽しいことうれしいこと全部含んだ上で、生きていくことは苦しいということです。だったら何のために生きているのかということになります。
考えれば考えるほど、思考が高度になればなるほど生きることなんて全く意味がない、虚無だ、ということになりますね。これをニヒリズムと呼ぶかどうかは別として、カラマーゾフの兄弟のイワンが同じようなことを考えています。
そしてこの考え方は非常に強力で反論はほとんど不可能に近い。弟のアリョーシャと命がけの議論をします。
ドストエフスキーの心の中の葛藤が手に取るようにわかります。
宇宙のほとんどが闇です。闇は非常に強力です。大陽がどんなにパワーがあっても結局時間がたてば闇に飲み込まれてしまう。全くの虚無の世界。恐ろしい力です。闇には勝てません。
しかし、それにもかかわらず私は次のように考えます。
|1意味がある|2どちらでもない|3意味がない|
このような区分けがされた場合、私の立場は、「生きていることに意味がないわけではない」、つまり1、2の領域になるのでしょうか。
つまり、「2どちらでもない」を含みます。根拠はありません。そう信じているだけです。実際ここに今タイピングして説得しようとがんばっているのだから生きていることに意味がないなんていいたくないよ、ぐらいな感じです。
そもそもこの問題は「なぜ」には向いていないと思います。丁か半かという場合、なぜ丁?と聞かれると、そう信じているからというしかありません。それに賭けるということでしょうか。
ただ私の肉親や恋人や友人は「私にとって」生きてもらっていることに意味はあります。それは「私が君を好きで愛しているから」です。生きていてもらわなくては困る、悲しい、寂しいからです。当の本人にとっては関係がないかもしれませんが。
次の自殺の問題です。これもなかなか難しい厄介な問題ですね。
人を殺すことは刑法で処罰されていますが、その「人」の中には自分は含まれていません。つまり自殺をしても処罰されることはない。よく考えれば当たり前のことですが、自殺既遂はもう死んでいるので処罰しょうがない。自殺未遂で処罰すれば、未遂だと処罰されるのできちんと死のうということになり、法律が自殺既遂を推し進めることになってしまい不都合だからです。そうすると少なくとも法律は自殺について中立の立場とは言えそうです。
他殺、これは悪いです。これは許さない。誰かがナイフを持って切りかかってきたら叩きのめす。場合によっては殺すかも。その場合殺すのはいいのかよと突っ込まれると、具体的事案によってはいいというしかないですが。
ただ自殺は正直言って、必ずしも悪いといえない側面があると思います。生まれてくることは決められないが、死ぬことは自分で決めることができます。そのことが肯定されれば、そしてそれが自己の利益にまで拡大されれば、自殺だって自己決定の一つのあり方ということにもなるでしょう。
カミュは、「真に偉大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」といいました。
そうすると先ほどの人生の意味の問題と自殺の問題は密接に関係していると哲学上はいえそうです。そして人生に意味があるのかどうかわからないということになれば、自殺が良いか悪いかわからないとの結論を導くことも可能でしょう。
これは自分のことになりますが、今まで死について真剣に考えてきましたが、過去の記憶を探ると自殺したいと思ったことが、多分、ないと思います。自殺というより、どちらかというとブログにも書きましたが、死ぬのが怖い。
しかし私も自殺についてもいろいろ想像はします。
自殺の場合、命を絶つというところに力点があるのではなくて、生きているのがつらいとか面倒とか何の意味があるのかとか、無意味さのほうに力点があるのだと想像します。
ただ他者との関係性から、自殺はいけないことだといえるかも知れない。
自殺したら人が悲しむからです。
自分が死んだら友人を悲しませることになる。そんなことをしてはいけないという責任があるということです。
頼むから死なないでくれという人がいる。生きるほうに賭けてくれと心の底から願う人がいるということだろうと思います。
じゃあ、そう思ってくれる人がいなければ、許されるのか。
それでも許されないと思います。私が許さない。それが答えです。