フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

反哲学

2009年07月31日 23時27分41秒 | 社会・政治・思想哲学

 たえず変化し混沌とした世界に一定の規則を発見し図式化したものを仮に真理と呼ぶなら、ニーチェは「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような一種の誤謬である」といった。

 さらに「芸術は真理に増していっそう価値が高い」 「われわれは真理によって駄目になってしまわないために芸術を持っているのだ」という。
 
 哲学が真理の追求をする学問だとすれば、ニーチェは哲学なんてものはいらないということ(反哲学)を宣言したといえる。

 真面目くさっていろいろ語るときに、だんだん自分がつまらなくなってしまうことがある。芸術より認識を、美よりも真理を高みに置くことによって生を衰弱させてしまうとはこのことだろう。

 人間は美に触れたとき、一番わくわくする。
 芸術なんて大上段に構えなくても、おいしいものを食べたとき(美味)、きれいな景色を見たとき、きれいな女性と話したときとか、そういうことを大切にすることだ。

 

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ザフォド様への返信

2009年07月23日 23時40分31秒 | 社会・政治・思想哲学

  ザフォド様へ

 コメントありがとうございました。深い内容のコメントなので、ちょっと簡単には返事できないと思い、一つの記事として返答しようと思います。

 人間の意識は、おっしゃる通り、セミと同様に環境に適応するための生理的機能の一種でしょう。人間の意識や思考が高度だからといって他の動物と一線を画する特別なものではなく、単なる生物の進化形態だと思います。そうすると、セミに生きている意味がたいして無いとするならば、単なる進化形態である人間にも生きている意味が無いということになります。本当にそうなのだろうかということがこれからの話の内容になります。

 いつも自分のブログは夕方にしか見ないのですが、今日はたまたま携帯で自分のブログにアクセスしたところ、このコメントがありました。そして内容がなかなかのものだったので、一日中ずーっとこのことについて考えていました。しかし一生かかっても答えが出ないような問いなので一日考えたくらいでどうにかなるものではなく、基本的に今まで私が考えてきたことを整理するということしかできません。
 ご了承ください。

 いろいろな問題が含まれているので、話し始めると論点があっちこっち飛んでしまう可能性があるので、絞り込んでいきたいと思います。
 1生きることに意味があるのか
 2自殺について
の2点です。

 自分で項目を立てておいて何ですが本当にそれが語れるのか非常に不安になるほど難しい問題です。まあがんばってみます。

 まず、生きることに意味があるのかという問いですが、言い換えれば生きるとは、存在していることですから、人間の存在の根拠が示されなければならないとおもいます。
 オギャーと生まれてくるわけですが、別に頼んだわけでもなく自分で求めたわけではない。勝手に生きていくことを強制されるわけです。人間として生きていくことをとりあえず課される。何で課されるのかというのが存在根拠になるのでしょう。だけど根拠はないんですよね。
 いくら考えても思いつかない。だから人間は外部から根拠を持ってきて神様が御作りになったという物語が語られるのでしょう。

 もうひとつもっとリアルな話として、両親の、もっと言えば母親の無償の愛(母性)がとりあえず生まれた時の存在の根拠になりうるかもしれない。
 その時期にうけた愛情が自己を肯定するエネルギーになるといわれています。ただ自己を肯定するエネルギーになるからといって存在の根拠にはやはりなりえないと思われます。

 釈迦は生きることは苦役だと言いました。それは瞬間的な苦しみではなく、楽しいことうれしいこと全部含んだ上で、生きていくことは苦しいということです。だったら何のために生きているのかということになります。
 考えれば考えるほど、思考が高度になればなるほど生きることなんて全く意味がない、虚無だ、ということになりますね。これをニヒリズムと呼ぶかどうかは別として、カラマーゾフの兄弟のイワンが同じようなことを考えています。
 そしてこの考え方は非常に強力で反論はほとんど不可能に近い。弟のアリョーシャと命がけの議論をします。
 ドストエフスキーの心の中の葛藤が手に取るようにわかります。
 宇宙のほとんどが闇です。闇は非常に強力です。大陽がどんなにパワーがあっても結局時間がたてば闇に飲み込まれてしまう。全くの虚無の世界。恐ろしい力です。闇には勝てません。

 

 しかし、それにもかかわらず私は次のように考えます。

 

  |1意味がある|2どちらでもない|3意味がない| 

 このような区分けがされた場合、私の立場は、「生きていることに意味がないわけではない」、つまり1、2の領域になるのでしょうか。

 つまり、「2どちらでもない」を含みます。根拠はありません。そう信じているだけです。実際ここに今タイピングして説得しようとがんばっているのだから生きていることに意味がないなんていいたくないよ、ぐらいな感じです。
 そもそもこの問題は「なぜ」には向いていないと思います。丁か半かという場合、なぜ丁?と聞かれると、そう信じているからというしかありません。それに賭けるということでしょうか。
 ただ私の肉親や恋人や友人は「私にとって」生きてもらっていることに意味はあります。それは「私が君を好きで愛しているから」です。生きていてもらわなくては困る、悲しい、寂しいからです。当の本人にとっては関係がないかもしれませんが。

 
 次の自殺の問題です。これもなかなか難しい厄介な問題ですね。

 人を殺すことは刑法で処罰されていますが、その「人」の中には自分は含まれていません。つまり自殺をしても処罰されることはない。よく考えれば当たり前のことですが、自殺既遂はもう死んでいるので処罰しょうがない。自殺未遂で処罰すれば、未遂だと処罰されるのできちんと死のうということになり、法律が自殺既遂を推し進めることになってしまい不都合だからです。そうすると少なくとも法律は自殺について中立の立場とは言えそうです。
 他殺、これは悪いです。これは許さない。誰かがナイフを持って切りかかってきたら叩きのめす。場合によっては殺すかも。その場合殺すのはいいのかよと突っ込まれると、具体的事案によってはいいというしかないですが。
 ただ自殺は正直言って、必ずしも悪いといえない側面があると思います。生まれてくることは決められないが、死ぬことは自分で決めることができます。そのことが肯定されれば、そしてそれが自己の利益にまで拡大されれば、自殺だって自己決定の一つのあり方ということにもなるでしょう。

 カミュは、「真に偉大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」といいました。

 そうすると先ほどの人生の意味の問題と自殺の問題は密接に関係していると哲学上はいえそうです。そして人生に意味があるのかどうかわからないということになれば、自殺が良いか悪いかわからないとの結論を導くことも可能でしょう。

 

 これは自分のことになりますが、今まで死について真剣に考えてきましたが、過去の記憶を探ると自殺したいと思ったことが、多分、ないと思います。自殺というより、どちらかというとブログにも書きましたが、死ぬのが怖い。
 しかし私も自殺についてもいろいろ想像はします。
 自殺の場合、命を絶つというところに力点があるのではなくて、生きているのがつらいとか面倒とか何の意味があるのかとか、無意味さのほうに力点があるのだと想像します。

 
 ただ他者との関係性から、自殺はいけないことだといえるかも知れない。
 自殺したら人が悲しむからです。
 自分が死んだら友人を悲しませることになる。そんなことをしてはいけないという責任があるということです。
 頼むから死なないでくれという人がいる。生きるほうに賭けてくれと心の底から願う人がいるということだろうと思います。
 じゃあ、そう思ってくれる人がいなければ、許されるのか。

 それでも許されないと思います。私が許さない。それが答えです。 

 

 
 

 

 

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死ぬこと ジョージ・ソロス

2009年07月23日 00時42分34秒 | 社会・政治・思想哲学

  ジョージ・ソロスは死について次のように述べている。

 「死の概念が人間の意識にとって到底受け入れがたいのは、死がその意識の消滅であるからである。死は、現実と自己に対する概念も含めて私たちのすべての概念を無化してしまう。それは、ひどく呪わしい何か、脳裏に浮かべることすら不可能な何かである。
 しかし、私たちの世界観とあるがままの世界との間に乖離があることを発見すると、この問題に新しい照明が当てられる。死の概念は、死の事実と同じではないのだ。死の概念は意識の否定だが、死の事実は生の否定ではなく、生の自然な帰結なのである。あらゆる情熱が使い果たされたときに死が訪れるならば、別に怯えることはない。未だに死の展望が重く心にのしかかるのは、私の情熱がまだ使い果たされていないためだ」

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ねこの友人

2009年07月19日 08時03分32秒 | 日々の出来事・雑記



 いつものジョギングコースにいくと、私を待っててくれる猫ちゃん。

 いっしょになって転がりたい。

 心の友。

 

 

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銀行誕生の歴史

2009年07月17日 00時47分22秒 | 社会・政治・思想哲学

 企業が資金調達するとき大きく二つの方法がある。一つは銀行から借り入れをすることで、もう一つは新株発行(社債も)することである。前者を間接金融といい後者を直接金融という。
 銀行から借り入れをすれば利息をつけて返済しなければならず返せなければ破産・倒産ということになる。
 一方、新株発行は返済する必要はないが、多数派株主の総株式に対する割合が低下し、会社にたいする支配力が弱まるという欠点がある。
 中小企業は新株発行による資金調達をほとんどすることはなく、銀行から借り入れをするのが通常である。
 この点については、すでに過去のブログで述べた。 

  ところで、銀行の誕生について、一応流れをおさえておこう。

 中世末期のイギリスにおいて主要な決済手段はゴールドであった。
 商業取引が増え、多額のゴールドを抱える商人が出てきた。これらの者はゴールドを手元に置くのは不安であり、それを金庫業者(ユダヤ人)に預けることになる。金庫業者は預り証をゴールド所有者に渡した。

 ちなみに、キリスト教ではお金を預かることが禁止されていたから、ユダヤ人が、それをすることになる。
  ゴールド
所有者は支払いをするとき、いちいちゴールドを金庫から出して支払うのは重いし面倒だから、紙切れの預り証を渡して決済するようになる。
 この預り証が紙幣の起源である。

 しばらくして金庫業者は金庫に預けられているゴールドが減らないことに気づく。そこで、こっそりばれないように利息をつけてゴールドの貸し出しを始める。この貸し出し運用が銀行の始まりである。
 つまり、金貸しの始まりは違法なことだったのである。 

 
 貸し出したゴールドが、再びどこかの金庫に預け入れられ、再度貸し出しに回る。
 それで。預り証が大量発行されることになる。預かり証(貨幣)がたくさん出まわれば、経済活動が活発になる。
 それが、貨幣経済成長の原動力となった。
 このように、預り証を保証するゴールドよりも、預り証の量が多くなることを信用創造と呼び、これは現代の銀行においても重要な機能である。

 
 やがてイギリス全土に同業者が現れ、それぞれが独自の預り証を発行するようになり、多種多様な紙幣が現れた。しかし、それぞれの紙幣が業者の信用力に依存することになったため、やがて預り証を発行する権限を持つ銀行が統合され、中央銀行となった。それ以外の銀行は、預り証を預かる商業銀行として発展することになる。

 ニクソンは世界中のアメリカドルを持つ人間がアメリカに対しゴールドとドルを交換してくれといわれたら、もうゴールドはありませんというしかない状態になったため、ドルと金の交換を停止し、金本位制をやめてしまった。
 これがいわゆるニクソンショックである。これによりアメリカはゴールドを根拠とせずにバンバン紙幣が刷れるようになった。

 このように銀行を中心とした金融システムには成り立ちは違法なものだったし、、現行のあり方にしても、大きな欠陥がある。
 

 ただし、銀行もいろいろと進化している。貸出をほとんどしないで高収益を上げている銀行が既に現れている。セブン銀行だ。
 セブン銀行の主な収益源は、セブン&アイのグループ各店舗にATMを設置することによる、
 提携先金融機関や利用者からの利用手数料であり、消費者から受け入れた預金は、国債・政府保証債など信用リスクの低い商品に限定して運用している。同社はATMによる決済専業銀行という新しいビジネスモデルといえる。

 

 

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シンプル族の時代

2009年07月15日 20時19分19秒 | 社会・政治・思想哲学

 最近、あまり消費しない人間が増えているらしい。車には乗らず自転車に乗る。デパートで買い物をしないがユニクロで買い物をする。テレビは見ないがネットは見る。このような団塊ジュニア世代の消費をあまりしない購買層を、消費社会研究家の三浦展氏は「シンプル族」と名づけている。
 このシンプル族の生活原理は「物をあまり消費しない。ためない」「手仕事を重んじる」「基本的な生活を愛する」の3つである。

 経済成長や経済活性化のためには消費活動が必要不可欠である。ただ、よく考えるとおかしいことにと気づく。環境にやさしく、物を大事に使うことと大量な消費活動は矛盾する。
 企業も環境環境と言いながら、消費を促進しようとしている。

 企業はコスト削減してできるだけ無駄を省く。儲けもできるだけ少なくし、値段を下げる。その場合、大量生産して無駄に消費させなければ利益が少なく割りに合わなくなる。企業が存続していくためには、大量に無駄に消費してもらうほうがいいからである。
 
 環境を守るためにはできるだけ消費を抑え資源を有効に使わなければならない。そしてそれは、バブル経済を起こしにくくし世界恐慌を回避する方法でもある。
 基本的に、消費を抑えることは資本主義経済と矛盾する。
 しかし、共産主義をとることはできない。だめだめな制度であり、歴史的にそれが証明された。

 
 じゃあ、この矛盾をどう解決するか。シンプル族が増えれば、物が売れずデフレに向かい景気は後退する。本当に難しい問題で、資本主義のゆくえを左右する問題である。

  
 私は昔からシンプル族だったと思う。質素な生活をしているので、どちらかというと友人からは変わり者だと思われている。私の友人はほとんど車を持っているが、私は今までの人生で車を持ったことはない。ぜんぜん欲しいと思わなかったし、これからも多分欲しいと思わないだろう。酒も飲まずタバコも吸わず賭け事もしない。食べ物の好き嫌いもなく何でも食べる。贅沢はしない。そしてほとんど欲しいものもなく、買い物もあまりしない。こういう風に書いているとつまらない平凡な男のように思えてきたが、性格は非常に個性的だ。単に生活がシンプルなだけだ。
 思うに、欲望を追求していくとだんだんそれが拡大していき、すぎると依存症になる。依存症になれば満足度は低くなり、逆にそれがなくなれば精神的におかしくなる。だから、欲望をできるだけ抑え、少ない量で満足度を高めていくほうがいい。そのように節制した生活は思ったより難しくない。経験的に。

 個人的な話だが、私は20代の頃、テレビがなかった。貧乏で買えなかった訳ではなく(もちろん貧乏でもあったが)、しいて言うなら、自分に対する人体実験というかテレビを見ないと人間はどうなるのかということに興味があった。ほぼ10年テレビを見なかったが、特に何の問題もなかった。どちらかというとあまり人と話をあわせることが減り、自分でものを考える癖がついたと思う。そして、テレビを見ないかわりに、その時間は本を読んだり、新聞を読んだりしていたから特につまらないということもないし、世間知らずにもならなかった。

 刺激が少なくなれば、道端に咲いている一輪の花に感動したり、素朴なサツマイモの甘みで満足したりするのが人間だ。あるもので何とかしていくし、物がありすぎたからといって幸せかどうかはわからない。

 欲望を限りなく追求していく制度が資本主義であり、そのおかげで科学も発展していった。やはり科学の発展はいいものだ。だから単純に欲望を否定し清貧の思想を説くのは抵抗がある。しかし、それにもかかわらず、私はシンプルな背伸びしない生き方が好きだ。この生き方はさりげなく静かに幸せを味わうことができる。少なくとも私はそうだ。

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減価する貨幣 

2009年07月14日 23時57分11秒 | 社会・政治・思想哲学

 古代代エジプトでは減価するお金のシステムがあった。当時のエジプトの農民は穀物を収穫すると大きな倉庫に保管してもらっていた。その際、預り証を発行してもらっていた。その預り証はお金としても使われていた。
 倉庫の穀物はねずみが食べたり、カビが生えたりする。その場合、預り証は穀物にあわせて減価する。すなわち、お金としての預り証は減価するのだ。

 農民はお金をたくさん貯めておいても損だから、土地の改良や灌漑施設の整備などの長期的な利益をもたらすものに投資する。このようにナイル川流域は豊かな穀物地帯になった。
 しかし、ローマ人がエジプトを支配し、利子のつくお金のシステムを採用してからエジプトの繁栄は終わる。

 同様に1150年から1350年の中世ヨーロッパにも減価するお金のシステムがあった。
 当時、地域の領主たちがお金を発行していた。お金は6ヶ月とか8ヶ月とか、一定の期間がたつと回収し、そして2~3%、減価させて再発行していた。
 この仕組みは、富をお金の形で持つのではなく、永久に価値が維持されるであろうと思えるものに投資させることになった。
 地域の人々は連帯して、信仰の対象でありながら、経済的な意味でも将来の投資としてカテドラル(大聖堂)を建設していった。この時期に建設された大聖堂は今でも多くの観光客が見に来るくらいの素晴らしいものばかりである。
 ここに見られるのは、もしお金がマイナスの利子のシステム(減価する貨幣)におかれるならば、社会が実現した富はなるだけ長期的に価値が維持されるようなものに投資されるということである。これに対し、プラスの利子の場合には、より短期の利益を上げるものへの投資が優勢になる。

 例えば、日本の林業はよい例である。なぜ日本の森は死んだのか。それは、今のお金のシステムだと林業が割に合わないからである。木を売り払ったお金で別の短期的な利益を上げるものに投資したほうが有利だからだ。
 しかし、オーストリアのヴェルグルで減価する労働証明書が貨幣として使われたとき(減価する貨幣)、町民は自分が手に入れた富を家の修繕に使い、その次には、積極的に木を植え始めたといわれる。
 
 エジプトや欧州に旅行し、古代の遺跡や中世のカテドラルを見物した人は多いと思う。数千年、数百年後の人間が見るに値するものがそこには残っている。20年たったら壊れるような住宅やビル、10年もつかどうかの自動車、すべては、私たちの、利子の存在ゆえの短期的な利益を上げていかねばならない仕組みのなかで成立している。
 息の長い価値あるものは作られず、他方で浪費の果てにゴミの山が吐き出されている。
 (エンデの遺書 NHK出版)

 

 
 

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男と女が人間を分析するときの違い

2009年07月12日 10時53分34秒 | 社会・政治・思想哲学

 ラジオのテレフォン人生相談をよく聴く。すごいと思う人に、加藤諦三先生と大原敬子さんがいる。マドモアゼル愛先生も結構好きだ。

 加藤諦三先生は、子供の頃からの親との関係や家族との葛藤から精神分析をして、そこから問題を解決していく手法をとる。フロイトやユングの理論をすこしかじっていれば、比較的わかりやすく納得する面がある。

 しかし、大原敬子さんは唐突に「あなたはこういう性格でこうだ」ということを、スパッと言うので、まるで魔法にかけられたようになってしまう。
 なんだこの人はという感じだ。とにかくびっくりする。この人ある意味天才なんではないかと思うときがある。

 
 そこで図書館で大原敬子さんの本を借りてきた。
 読んでみるとやっぱり大した人物で面白かった。そして、少しそのスパッと人を読みきる秘密がわかったような気がした。

 2a+4b+8c とならんでいると 2(a+2(b+2c)) とやりたくなるのが男の思考だ。つまり、別個ばらばらな事実の共通項を見つけて、それを抽象化し一定の公式にして、誰でも使えるようにする。
 フロイトも精神というわけのわからない分野を、いろんな人間に当てはめてもわかるように公式化した。いわゆる演繹的思考だ。

 これに対して非常に優れた女性は、いろいろ経験した事実を事実として受け止め、その細部を考えぬいて経験として蓄積していく。そして、例えば、ある人がある言葉を発した場合、瞬間的に過去の自分の経験した事実と照らし合わせこの人はどういう性格なのかを判断する。
 だから、親との関係とか家庭環境などより、どういう言葉づかいをするかとか声のトーンとかその人の具体的な部分からアプローチしていく。
 分析して体系化していくというより、細部の経験の積み重ねを重視していると言える。どちらかと言うと経験則重視、帰納法的思考方法だ。

 だから、優秀な女性は、頭の中にいろんな細部を貯めこんで記憶し、それを瞬時に引き出し、使いこなす。

 とにかく大原さんはすごいなぁと思う。

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アダモちゃん

2009年07月08日 18時03分31秒 | 日々の出来事・雑記

 昼のテリー伊藤のラジオに島崎俊郎が出ていた。
 彼が元気が出るテレビで受けたひどい仕打ちについて、いろいろ話をしていた。
 テリー伊藤は元気が出るテレビのプロデューサーで、いろんなことを無理やりやらせたのだろう。すこし悪そうにしていた。
 例えば、ライオンの尻尾に墨汁をつけて「命」と書くとか、シマヘビがたくさん入ったプールに入るとか。
 シマヘビが島崎のモモを咬んでブラブラしていたので、スタッフに「とって」といったら、一生懸命カメラを回して撮り始めたらしい。島崎は「違うよへびを取ってくれという意味だよ」と
いったとかwwwww。
 完全にふざけきっている。

 アダモちゃんも昔は嫌いだったが今はなんとなく笑える。
 そもそもアダモちゃんは、たけしが島崎に、「お前はポリネシア人に似ているからポリネシアダンスを踊れ」と楽屋で命令ところから始まったらしい。
 それを見て、みんなが笑い者にしていたのを、プロデューサーの三宅さんが面白がって、ひょうきん族のコーナーにしたらしい。

 
 多分、彼は無理やり強制されるとぶつぶつ言いながらも断れない性格なのだろう。ただそのおかげで伝説的な企画ができたのだからよかったというべきか。

 

 

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原理主義について

2009年07月06日 23時22分18秒 | 社会・政治・思想哲学

 精神的な安定を求めるなら、宗教でもイデオロギーでもなんでもいいから、ある原則を忠実に守っていく原理主義をとればよい。固定的な考えを繰り返し言っていれば安定した状態を保てるからである。
 しかし、世界や自然、社会的環境は常に変化する。だからそれに対応した形で原則は修正されなければならない。

 世の中には、キリスト教原理主義、イスラム原理主義、共産主義、市場原理主義、さまざまな原理主義がある。
 どの立場をとっても、どこかと衝突する。原理主義者は自身の考え方を他人に広めることが目的なのだろうが、それが実現されたことはないし、実現できそうもない。ただ無駄に血が流れるだけである。

 
 なぜ正しい原理主義が、人類に統一的に採用されないのか。
例えば、なぜ世界中の人間がキリスト教にならないのか。
 それは、哲学的に解決されていると思われる。つまり、人の価値判断は客観的な基準で統一化できないからだ。「トマトはおいしい」と誰かがいっても、まずいと感じる人がいるからだ。
 よって、原理主義は統一化されることはない。

 にもかかわらず、人は自分の宗教だったりイデオロギーを押し付けようと躍起になっている。

 では、客観的に正しい世界がないとすれば、この不確実な世界を生き抜いていくためには、どうすればよいのか?
 
 その問いに、答えはないし、答えられない。 

 

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