昨日、村上春樹の新作「1Q84」を手に入れた。
昨日の夜から読み始めている。
二巻まである。
まだ今の時点で1巻の三分の一くらいしか読んでいないが、面白い。
さすが、ストーリーーテラーだ。
どういう展開になるのかさっぱり分からず、ワクワクする。
昨日、村上春樹の新作「1Q84」を手に入れた。
昨日の夜から読み始めている。
二巻まである。
まだ今の時点で1巻の三分の一くらいしか読んでいないが、面白い。
さすが、ストーリーーテラーだ。
どういう展開になるのかさっぱり分からず、ワクワクする。
高崎駅から3キロはなれた金沢山にある洞窟観音に行ってきた。
洞窟観音の創設者は山田徳蔵である。
1885年新潟県柏崎生まれ、高崎に呉服屋を開き成功する。
信仰心の強い彼は30歳過ぎにこの霊場の建設を思い立つ。
大正8年着工され、昭和39年、彼が88才の生涯を閉じる迄の50年間休むことなく工事が進められ、完成をみた。
動力や土木機械のない時代に、つるはしやスコップなどを使い、山を抜き、一日10センチ程度しか進まなかったという。
洞窟内の坑道は、長さ400メートルをこえ、御影石の観音像39体が他の石彫群と共に安置され神秘的で独特な世界を繰りひろげている。
洞窟の中はひんやりしていてクーラーが入っているかと思うくらいだった。
一年中、17℃で安定している。
普通なら薄気味悪いだろうが、私はあまり怖くない。むしろ、落ち着いた気持ちになった。
最初800円は高いかなぁと思ったが、その価値は十分にある。
山田徳蔵氏の穏やかな精神世界が見事に具現されている。
観音様が、安らかないい顔をしている。
仏像の顔は、人間の幸せなこころを写し取ったものである。
だれも神を見たことはないのだから。
安らかな顔をした人間の心の中に観音様が存在する。
仏も鬼も人間の心の中にある。仏像は人間の心を映し出したものだ。
今朝のニュースで韓国前大統領の暗殺疑惑について報道していた。
韓国は大統領を辞めたとたんに不遇の人生を歩むことが多い。
権力を手にするということは誰かから権力を奪うことで、恨みをかう。
成熟した社会では、権力の移行は選挙によって平和的になされる。
しかし、そうでないところでは、暴力によってなされる。
政治家は改革、改革と簡単にいうが、制度をひっくり返せば、必ず損する人がいる
だから、簡単にはできない。
できたとしても、恨まれることを引き受けなくてはならない。
その場合、権力・利益を奪われた人間の鎮魂が必要である。
雨が降ると無性にこの歌が聴きたくなる。作曲はバート・バカラック。
BJ Thomas raindrops 70s
今日のカンブリア宮殿でセブン&アイ・ホールディングスの会長の鈴木敏文氏が出ていた。セブンイレブンを創った男だ。
コンビニなんて日本で成功するはずないといわれたが押し通した。
おにぎりなんて売れるはずがないといわれるがそれでも販売した。
常識との戦いだった。
出版会社からの転職で小売業については全くの素人だったという。
鈴木氏は売り手側からだけでなく、買い手側の素人の視点でものを考えていた。
視点の複合性である。
何を売りたいか・何を売ったら利益が上がるかという視点と、何が欲しいか・どうしたら安いものを買えるかといった矛盾する視点を、同時に持っていなければならない。
商売には、売り手と買い手の二者がいる以上、「素人に何が分かるんだ」とか言う人はだめだ。
常に素人の視点を持っていなくてはならない。
うーん、トップに立つ人はどの人も物腰が柔らかい。
常識を打ち破っていく人はもっと強引な感じかと思いきや、意外とソフトだ。
ラジオの人生相談でおなじみのマドモアゼル愛先生のブログで、アパートをシェアしたらどうか、という提案がなされていた。なるほど。
私は、オーストラリアで、イギリス人のおばさん、シンガポールの大学生(インド系女性)、日本人の男、と三ヶ月くらいフラット(アパート)をシェアしていた経験がある。
ローカルの新聞に広告募集されていて、それをみて、現地に行き、契約する。シンプルなシステムである。日本みたいに難しいことは何もない。
生活も顔をあわせるのはキッチンとリビングくらいで、その他は完全にプライバシーが守られている。
お互いを深く干渉することもない。何か問題があったら、親切に教えてくれる。また教えることもある。
日本ではちょっと考えられないが、女性とへんな事になることもない。まぁ、ケースバイケースだろうが。
女の友達もオージーの男とシェアしていた。別に襲われることもなかったし、それどころかすごく親切にしてもらったと言っていた。
アングロサクソン系やヨーロッパ系の人たちは、日本人より人間を信頼する気持ちが強い。これは以前のブログ(信頼社会)でも述べた。
まずは信頼はする。問題は事後的に処理する。
日本人は問題が起こらないように、予防的に行動する。この辺に違いがある。
どっちがいいかは、社会制度の問題で、一概にはいえない。
ただ、この住む場所をシェアするという方法は、基本的に、人を信頼していなければできない。
無条件で信頼するのは危険であるが、自分の目で人を判断する能力があれば、それほど怖いものではない。
最初から人を疑ってばかりいると、判断力もつかない。
すこし難しいかもしれないが、日本に定着すれば面白いのと思う。ネットカフェよりましだ。
4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
放送法には、このようにテレビの政治的公平性が規定されている。
ただ、テレビメディアが本当に政治的に公平なのか問題となる。
公平とは、辞書によれば、自分の好みや情実などで特別扱いすることがなく、すべて同じように扱うことをいう。言い換えれば、ある政治的問題について価値判断しないということだろう。
はたしてそのようなことは可能なのだろうか。
価値判断しないということは、いいも悪いも言ってはいけないということだ。実際には、テレビのコメンテーターは、ある問題について、良い悪いを言っているし、最近は中立であるべきニュースキャスターすら、言っている。
公平性は、建前にすぎない。テレビ局には、一定のイデオロギー的な考えがある。それは自明のことである。
例えば、テレ朝・TBSは左、日テレ・フジは右である。決して政治的に公平ではない。
問題は、それを隠蔽しながら、公平に報道しているかのような建前をとっていることにある。
私は、放送法を改正して、政治的公平性の部分を、削除したほうがいいと思っている。そのかわり、局の政治的立場を明らかにする条項を加えるべきだと思っている。
ある問題について、意見をいった瞬間に価値判断が生じる。何故そのような価値判断をしたのか。それが明らかにされなければならない。
それを明らかにするのが、真の意味での公平だろう。
ニーチェは「道徳的現象などというものは全く存在しない。むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する」といった。
意訳すれば、正しさは存在しない。ただ、正しいと解釈する者がいる、ということだ。
ニーチェの優れたところは、客観的に正しい道徳は何かという形而上学的問いを否定し、正しい道徳だと語る者は誰かという権力的な問いに転換している。つまり、物事に対する評価は、その価値を判断する者・語る者を分析しなければならない、ということである。
ある問題についてこれが正しいと語る者がいた場合、その正しさは、その者がどういう立場で、何のために言っているのかを分析しなければならない。簡単にいえば、その者の得られる利益である。
一つの問題について多様な利害があれば、その利害をめぐって、いろいろな意見が生まれる。
大昔から、取り分の大きな問題ほど、ケンカが絶えないし声が大きくなる。
そのテレビ局が、ある政治的問題について、なぜそのような価値判断をするのか、言い換えれば、それを言うことで何を得ているのかが問題なのである。
今日、川沿いのジョギングコースに行った。
曇りで風が強かったけれど、図書館で借りたポール・オースターの「ティンブクトゥ」を読みながらウォーキングした。
ティンブクトゥは犬が主人公の物語である。
ここは犬を散歩させている人が多く、犬のくそだらけ。
まぁ、犬が好きだから、くそを踏まなければ、頭にはこない。
犬がしたくそを、飼い主が丁寧に処理していた。
それを見ていた犬ちゃんが大喜びで飛び跳ねていた。何故だ。
ちがう場所で、大声で泣きながらキチガイのように三輪車をこいでいる子供がいた。
親が後ろからついていっている。家出でもするつもりなのだろうか。よく分からない。
猫ちゃんが縄をつけて散歩させられていた。
私がチッチッと舌打ちすると、ビクッと、おびえていた。というかその場所につれてこられた時点でおびえていたのだろうと思う。
猫は知らない場所が苦手なのだ。
散歩は、単なる飼い主の自己満足で、うれしくない。完全に腰が引けている。
近くにいた野良猫は気持ちよさそうに金玉をぺろぺろなめていた。こっちの猫は幸せそうだ。
世界は意外と平和だ。