フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

囚人ビジネス

2010年04月27日 23時47分48秒 | 社会・政治・思想哲学

 製造業が生き残るひとつの方法は、低価格商品を提供することだといった。それには低賃金地域を開発してそこで製造させる方法をとるのが通常だ。つまり、企画と販売は先進国で行うが、製造は後進国で行う。
 ただ、先進国の国内の中に低賃金労働者を作り出し、そこから安い製品を作りだせれば、わざわざ後進国に行く必要が無い。派遣労働などはこのような手法はこれだ。
 しかし、派遣労働がいかに安く使われようと、後進国より賃金が高い。したがって先進国内で安い製品を提供するモデルの製造業を行うのは難しい・・・ と思っていた。しかし、アメリカは信じられないビジネスモデルを作りつつある。それが囚人ビジネスだ。
 州政府は財政困難から様々な負担を囚人に押し付けている。つまり部屋代・食事代、それだけでなくトイレットペーパーや図書館利用料までも有料にして囚人に請求している。そのせいで囚人は借金漬けになってしまう。囚人は借金を返すために働かなくてはならない。そしてその弱みにつけ込んで最安値の労働力として利用する。
 たとえば、電話交換手などはインドなどで行われていたが、インド人より安く使えるなら、国内の方がいい。囚人の電話交換手は雇用保険も要らず低賃金でも文句は言えない。ストも無ければ組合も作れない。
 アメリカの人口は世界の5%だが、囚人数は世界の25%を占める。それこそ囚人は腐るほどいる。夢のような労働力である。

 アメリカの投資家がいま注目している投資先は、利益率の高い刑務所ビジネスである。

 ある種の奴隷である。アングロサクソンはこのように奴隷をつかうのが文化がある。
 日本人にはちょっと考え付かない発想である。恐ろしい話だ。

 

 「ルポ 貧困大国アメリカ ?」 堤未果 

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フリー(無料)について

2010年04月26日 00時18分42秒 | 社会・政治・思想哲学

 最近、フリー(無料)のビジネスが注目されている。一瞬、それで商売やっていけるのかと思う。
 しかし、他のところで儲けるようにできている。

 タダでもらうとうれしいことはうれしいが、ある種の負い目を負うことは否定できない。もちろん与える側は意識的にまたは無意識的にそれを狙っているわけだ。
 モースの贈与論では「贈与」が義務感を中心とした集団のコミュニケーションとして考えられている。贈与を受けることによって霊的な絆が生まれる。

 フリーの商品には現実の物だけでなく接客サービスなども含まれると考えるべきだ。アメリカなどのチップは、接客は有料だということを意味している。また、中国などは、お金を払わないのならサービスをしないという感じの接客だ。
 それに対して日本の接客のレベルは相当高い。チップをもらわないことを考えると日本の接客はフリービジネスだといえる。人はいい接客を受ければ無意識的にある種の負い目を負うことになる。

 贈与は人と人を結びつける社会的コミュニケーションである。コミュニケーションのうまいところに人が集まる。フリーのビジネスは、思ったより合理的といえそうだ。

 

 

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生成変化(becoming)

2010年04月24日 01時32分36秒 | 社会・政治・思想哲学

 ドゥルーズは存在する(being)のではなく生成変化(becoming)すべきという。

 その中でドゥルーズは「強度になること・動物になること・知覚しえぬものになること」といっている。

 
 強度になること 
 
 弱い人間ほど肩書きが必要になる。自分がこういう権威をもった者だと主張することで、他者を納得させる方法をとる。しかし、強度な人間は自分の肩書きの裏をかく。そして常に肩書きを超えている。従って肩書きが不要になるのである。

 
 動物になること
 
 正確に言うと、人間にならないことである。つまり模範的な人間社会のルールから離れて新たなルールを創りだすことである。

 
 知覚し得ないものになること
 
 無責任になること。返事をしないこと。あらゆる視線から逃れ、あらゆる要求から逃れることである。誰かに何かを求められても、自分の居場所をずらし相手に自分をつかませないということである。

 

 

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世界のセックス事情

2010年04月14日 01時11分03秒 | 社会・政治・思想哲学

 セックス頻度と性満足度の統計で日本人は頻度も満足度もほぼ最低だった。日本人は年に45回しかしないとのことだ。日本人は性欲が弱い民族といえる。
 ただ、少しだけ笑えるのは中国である。中国人は年96回やるが、満足度は日本人より低い。中国人の男は早漏なのだろうか。
 これに対して、東欧は回数も満足度も高い。アメリカもそうだ。幸せな人々だ。性欲は人間としてのパワーをあらわしていると思う。だから、エロい男の方がいい。
 浮気する男は性欲が強いというより、パワーがなくて同じ女に飽きてしまうから他の女にいってしまうのだと思う。性欲が強ければ、同じ女と何回やっても問題は無い。女の方が体がもたないから浮気でもしてきてくれと言わせるくらいでなくてはならない(笑)。

 コスプレとかロリコンとかは、動物的な本能の欲望というより、倒錯した観念的な状態をつくりだすことによって性欲を喚起するものであるから、性欲が弱い人間のもつ性癖である。性欲が強ければ、女であればすぐ反応し誰でもやってしまう。容姿なんて関係ないし、当然格好なんかどうでもいい。

 だから、コスプレやロリコンみたいなものは、性欲の弱い人が多い日本で発達するのだろう。面白いね。 

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ねこちゃんのへんな病気

2010年04月12日 23時46分55秒 | 日々の出来事・雑記

 図書館でぱらぱらっと本をめくっていたら、ねこの病気にボス顔症というのがあるとのことだ。けんかばっかりして、顔に傷がつき、そこからばい菌がはいって腫れるから顔がでかくなる。ほんまかいなと思ったが、たしかに金玉がでかくてきかんぼうな猫は皆顔がでかい。それはそうだよなぁ。態度がでかいからって顔まででかくなるわけではない。

 

 人間でも顔がでかいと迫力がある。しかしほんの少しだけ笑える。その笑える感じが、この人ならついていってもいいなと思わせるところなのかもしれない。愛嬌ってやっぱり大事だ。
 

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吉野家の没落について思うこと

2010年04月11日 14時51分17秒 | 日々の出来事・雑記

 新潟には吉野家がなくて、食べたことも見たこともなかった。しかし、キン肉マンがよく牛丼の歌を歌っていて、東京には吉野家っていう牛丼屋があるということは知っていた。上京してはじめて牛丼を食べた。たしかにうまかった。吉野家の大ファンになった。それはもうランチといえば吉野家の牛丼だった。
 
 十日くらい前に、久しぶりに牛丼を食べた。そのときにこれはもう駄目だなと思った。大盛480円を注文。しかし、昔の並盛程度の量で肉も相当少なく感じた。アレを食べるんだったら、マックのダブルクオーターパウンダーの方がいい。
 個人的な意見だが、吉野家にいく人は、決して安さを求めているばかりじゃないと思う。お金のない学生だったり、貧乏なサラリーマンだった人は必ず吉野家のお世話になっている。そしてたまに吉野家の牛丼を食べたくなる。「ああそうだ、これだよなぁ。吉野家っていつ食ってもうまいなぁ」と確認したい部分もある。そのように懐かしさだったり変わらないものだったり、そういうものを求めている人も中にはいる。吉野家の牛丼って、決しておしゃれなものではなく、むしろそれ食っていると、ダメダメ感が漂ってくるような食べ物である。パチンコや競馬に負けたり、人生がうまくいってなかったりしてチクショーといいながら、心の涙を流しながら食っているというイメージだ。またそれがなんともいえなくいい。

 吉野家は文化である。没落するのは哀しすぎる。ぜひとも、もう一度原点に戻って頑張ってもらいたいものである。

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