昨日、モジモジ君に追われている夢を見た。
私は普段夢をほとんど見ないし、モジモジ君と全く関係のない人生を送っている。
なぜそんな夢を見たのか不可解である。と思いつつ、スポーツニュースを見ていたらスピードスケートの選手はモジモジ君そのものではないか。
多分、スケート選手の格好が私の無意識に何らかの影響を与えたに違いない。
そしたら、何日か前に大竹まことのラジオで言っていたことを思い出した。それは、ある会社が遅刻だったかミスだったかをすると、罰としてモジモジ君のようなタイツ姿で一日過ごさせるというものだ。
その際、絶対笑ったり突っ込んではいけなくて普通どおりに扱うとのことだった。結構きつい罰だ。
うーん、それにしても無意識的にモジモジ君が私の中に入り込んでいたとは。何が頭に入り込んでくるかわかったものではない。
昼ぐらいから、突然の濃霧で周りが見えにくくなってきた。普段はカモメうろうろしているのに、今日はいない。もちろんカラスもいない。カラスが飛んでいたら結構目立つのに。
実際に、ドッキリカメラに使われたおもしろい状況について。
病院の待合室で何人かが待っている。そこにいる人たちが皆パンツ一枚になっている。何も知らずその病院の待合室に入る。そして、皆がパンツ一枚になっているのを見る。何かおかしいと思いつつ、自分もズボンを脱いでパンツ一枚になってしまう。
思わず笑ってしまうが、自分がその状況になったらどうするか。うーん、私もパンツを脱ぐ可能性が高いのではないかと思う。
これは、いわゆる「空気を読む」ということである。
人間は社会的な生き物であるから、本能的に他人と違う行動を避ける傾向にある。それが危機を回避することにつながる場合が多いからである。例えば、外国に行って車を運転するとき、日本とずいぶん交通のルールが違う場合があるが、現地のやり方を真似なければ、非常に危険である。ルールを知らないときは、人の行為を真似ることが危機回避につながる。
しかし、他方で、単に人がやっているというだけで真似ると滑稽な場合がある。そこにいた皆が葬式でお焼香のやり方が分からなかった場合、最初にお焼香をやった人がでたらめで、ペロッと一回抹香を舐めから合掌したとする。それを次から次へと人が真似ていくことになる。焼香くらいならいいが、生命に関わることなら大変なことになる。
一般的に、どのように行動したらいいか分からないときは、皆がやっていることを真似るというのが、賢明である。しかし、ちょっと落ち着いて考えることができる状況になったら、その皆がやっているルールを疑うことが必要である。
社会システムに問題があった場合、個人が勇気を出して、別の行動を取らないと取り返しのつかないことが起こることもある。
「鎖はもっとも弱い環より強くなることはできない」という格言がある。
確かに、鎖を引っ張ってちぎれるのは、弱い環のところである。
しかし、それが必ずしも悪いことだとは限らない。例えば、その弱い環を利用したシステムが、ヒューズである。システムに過剰な負荷がかかると、ヒューズは自分が犠牲になってシステム全体を守る。
弱い部分は、ある種のメッセージとして機能する。それは個人でも同じで、自分の弱い部分を熟知することで、危機管理が可能となる。
後半のスティビーはすごい。
衝撃映像。ちょっとびっくりする。
EAGLE VS. MOUNTAIN GOAT: AMAZING FOOTAGE! FULL CLIP
冬の山は美しい。しかし危険だ。雪山は怖い。
人間の本能の観点からすれば、危険な雪景色を不快に感じる方が理にかなっているのだが、危険な場所を美しく感じるとはどういうことなんだろうか。
雪山といえば雪女だが、雪女も美しくて危険だ。冷たい息を吹きかけてまたぎを殺してしまう。俗説であるが、冬に食べ物がない農家の嫁が、またぎに体を売ることでウサギや狸を分けてもらっていて、そのことは誰にも言ってはいけないとまたぎと約束する。しゃべったら呪いをかけると。その売春していた嫁が雪女とされたという説がある。真偽のほどは分からないが、雪女は自分のことをしゃべったら殺しにいくことを考えると、あながち外れていないような気もする・・・
本当はこのような話の方が恐ろしい。
ホリエモンが服装原理主義という内容のブログを書いていた。例の国母選手のことについてだなとピンときたが、読んでみると私の思っていた内容と反対のことを書いていた。というのも、私はてっきり国母選手が服装原理主義だと思っていたのだが、ホリエモンは世間の人たちが服装原理主義だと主張していたのである。
服装原理主義とは面白い言葉を発明したものだが、私はこのように考えた。すなわち、「様々な価値の中で、服装(ファッション)というものを、自分の中で重要な価値として捉えていて、人とトラブルになっても自分のファッションを優先するような人々」であると。私は国母選手こそが、自分のやりたいファッションが重要であって、それを貫くためにはオリンピックという場であっても自分のファッションを優先する服装原理主義だと思ったわけだ。
しかし、ホリエモンは私が考えたこととは違って、「セレモニーにおける正装を乱すような服装をする者は許さないとする人々」を服装原理主義と考えたようだ。なるほど、彼は球団買収の際、Tシャツで現れ批判を浴びていた。そのように考えることも納得がいく。
通常、原理主義とは、自分の主義主張についての原理原則を忠実に守り、例外を全く認めない堅苦しい人々のことをいう。この例外を認めないというガチガチのものの考え方が人々と衝突することになる。
服装は単なるファッションではなく、自分のポジション(地位)を表したり、人間の気持ちを形式的に表したり、一定の思想を表現している場合もある。単なるおしゃれといえない。だからこそ、人々がその場にそぐわない服装に怒り出すのだ。例えば、高級なスーツは自分が高い地位にいて権力者であることを表しているし、喪服は死者に対する追悼の意を形式的に表している。また、黒人などのあのだぼだぼな服装は、権威に対する反抗という思想を表しているのかもしれない。葬式にだぼだぼの服でパンツを腰まで下げて出席すれば、それは暗に「死者に追悼の意を表さない」というメッセージが含まれている。口から発せられたり紙に書かれたりする現実の言葉とは異なるが、ある種の服装が表象するメッセージに人々は反応するのである。