昨日、パってテレビを付けたら、NHKでニーチェの番組をやっていた。哲学者の西研氏、と精神科医の斉藤環氏が解説していた。面白そうだったので見てみた。
西研氏の言っていることはピンとこなかったが、斉藤環氏の言っていることにおもわず反応してしまった。
彼は、このように言っていた。「ひきこもりの状態にある自分を肯定せよ」、というのがニーチェの思想だと。
簡単に言うと、社会の価値観はひとまず置いておいて、自分がちっぽけな存在だろうがなんだろうが根拠なく自己肯定することが大切なんだということである。なるほど、精神科医らしい発言である。
人は誰でも誰かに愛されたいと思う。そんなこと当たり前のことであるが、それを分析的に考えれば、自己承認をめぐる欲望である。自己承認を求める欲望は、常に他者の視線を問題にする。みんなに自分がどう思われているのかが重要なのである。しかし、他者の視線に自分を合わせている限り、本当の自分に出会うことはない。他者の考えが変われば、自分も変わらざるを得ないからである。そこに自分というものはない。
問題は、他者の承認なくして、根拠なく自己肯定ができるかどうかなのである。特に幼児期に親との関係がうまくいかなかった人はそれが難しい。生まれたときの大切な時期に、自己承認を欠くからである。
斎藤環氏は続けていう。
自己肯定するには「偶然的な出来事を必然だと感じる力が大切だ」と。
どんなに悲惨な出来事があっても、またわけのわからない状況に置かれても、そのことが必然だったんだと感じることである。
「これでいいんだ」と自分に起こった出来事をすべて受け入れることである。もし自分に起きるすべてのことが必然で選択の余地がないのなら、それを受け入れるほかない。
何があってもすべてを受け入れていこうとする悲劇的な精神には、勇気が必要である。自分がどんな境遇にいようと、勇気をもってそれを肯定すること。
良い悪いの判断は、とりあえずおいておこう。
自己肯定が人生を生き抜く上での、小さいが強力な足場になる。そこから一歩を踏み出していくこと。
図書館から借りてきた「楢山節考」を読んだ。短編なのですぐ読み終わった。うわさどおり、たしかに、なんとも言えない読後感だった。内容は、簡単にいうと、姥捨て山の話である。
この小説は中央公論の新人賞をとるのだが、その選者に三島由紀夫がいて、深夜に読んで怖くなったらしい。「これは何か不安定で、どろどろしたものがあって、とても脅かすんだ」と。
主人公のおりんという老婆、老婆といっても70歳であるが、山に捨てられるのが嫌というより、自分から進んで捨てられようとしている。それは、村や家の食物が乏しいため、自分が死ぬことによって口減らししようとする、自己犠牲の精神からである。捨てられることを早めるために、自分の前歯を折る。一方、息子は母を山に捨てなければいけない村の掟を知っているのだけれど、知らないように振舞っている。けれども、いずれ楢山に捨てに行かなくてはならない時がやってくる。
三島由紀夫のいう「どろどろ」とした怖さみたいなもの。
この「どろどろ」としたものの正体は何か。
都会は人間が計画的・人工的に作り上げた場所である。できるだけ自然をコントロールし排除しようとする。
「人工的に作られた空間には自然が排除されること」の例として、部屋にゴキブリがいたときの人の反応を考えればいい。私達は居住者の許可なく部屋には入れない。それなのにゴキブリのようなわけの分からない虫(自然)が許可なく入ってくるのを許せない、ということになる。これが都会人の考え方である。
自然は根本的に人間にはコントロールができない。多少はできるが、完全にはできないと言い換えたほうがいいのかもしれないが。
田舎はどうしても東京のように完全に都会化していないので、自然と共生しなければならない。自然というと聞こえはいいが、本当は気持ちの悪いものである。
例えば、昔はぼっとん便所だった。糞は自然である。ただ臭い。夜寝ていると頭の周りにねずみが動き回っていた。朝起きるとねずみの死体が私の横にあったこともある。猫が枕もとに獲物を置いった。
自然は人工的なものではなくコントロール出来ないので薄気味悪い。人間はわけの分からないものに恐怖を覚えるのだ。
三島由紀夫の小説をそんなにたくさん読んでいるわけではないが、論理的で美しい言葉を使っていて、なかなか素晴らしい。しかし、そこに自然はなく人工的な世界が広がっている。よく言えば都会的である。
三島由紀夫が恐怖した「どろどろ」としたものとは、「自然」なのだと思う。
どのように役に立つのかさっぱりわからないが、この「楢山節考」を読んで、ある事が私の中でいろいろと繋がってきた。私は都会が大好きである。だからこそ東京に住んでいるのだが、それだけでは、何かが足りないとも思っていた。
自然、もっと身近にいうと身体の問題は、古くて新しい問題なのだと思う。
なんか暴れたいなぁと思う。
体調がいいこと、暖かくなってきたこと、家でじーっとして本を読んだりモノを書いたりしてストレスがたまっていること、などいろいろ原因がある。
その辺を走っているだけでは、この根拠ない衝動は収まらない。だから、ゴールデンウィークはどこでもいいから山に行ってへとへとになるまで体を動かそうと思っている。
ギリシャ神話が示すように、自然は、時に、私たちの日常を粉々に破壊するくらい暴れる。そう考えると私だって自然の一部なのだから暴れたくなっても当然である。
春は自律神経の変調で体調がおかしくなる。
気持ちも体もオフからオンに変わる大事な時期である。行動的になるのが本来の姿である。体の内側から感じるワクワク感を見逃してはいけない。
そのエネルギー放出が、開放的で明るい自己を作っていく。体から湧き上がるエネルギーが大事。太陽から降り注ぐ日差しのエネルギーと体から湧き上がるエネルギーをシンクロさせることである。
統一地方選挙の後半戦が今週の日曜日に行われる。
区長・区議会議員選挙である。区議会議員は全く知らない。区長については、現在の区の行政に満足しているのかどうかが、一応、投票の判断基準になるが、区議会議員については公認もしくは推薦している政党で判断するしかない。しかし、支持政党がない。
私は、ほとんど投票に行くし、政治に関してもそれなりの知識もある。それでも、区議会議員の活動や議員の政策については全く知らず、どのような基準で投票しようか迷ってしまう。
そうなると、ルックスなどで選んでしまおうかとおもわず思ってしまう。
区議会議員選挙のポスターを見ていて、今回、私は少しだけムカついていることがある。それは立候補者の名前のほとんどがひらがなで書かれていることである。投票するとき難しい名前だと書いてもらえず、不利なのでひらがなにするそうである。
小沢一郎なんかは、投票してもらうとき楽なので一郎という名前を付けられたという話である。そういえば、二世の政治家は太郎とか一郎とか簡単な名前が多い。麻生太郎とか。
難しく普通の人には読めなかったり書けなかったりする漢字については、それをひらがなに直すのはよくわかる。しかし、そんなに難しくないのに、猫も杓子もひらがなにして、アホなんじゃないかと思ってしまう。
というか、選挙人を馬鹿にした話である。漢字が書けないと決めつけているのである。結局、このような行動は、「一事が万事」という言葉が示すように、議会の活動にも現れるのではないかと思う。
つまり、みんながやっているから私もやろう的なことである。
人が何を言おうが自分の意思を貫いて何かをやり抜くというより、とりあえずみんなに合わせておこうという性格が透けて見える。
だから、私は、今回、区議会議員については、ひらがなを使っている人をはじいて、自分の名前を漢字で表している人に投票しようと思う。
そうするとかなり絞られるので、その上で、公認政党や政策を調べて判断しようと思っている。
「悲しみよこんにちは」は、めぞん一刻のOP曲。斉藤由貴のこの歌を聴いたら、めぞん一刻を読みたくなってしまった。
あなたに会えなくなって
錆びた時計と泣いたけど
平気、涙が乾いた後には夢への扉があるの。悩んでちゃいけない
今度、悲しみが来ても、友達迎えるように笑うわ
きっと、約束よ