真っ暗な暗闇を男が歩いていた。
すると向こうから目の不自由な人がちょうちんを持って歩いてきた。
そこで男は、「あなたは目が見えないのに、なぜちょうちんがいるのですか」と聞いた。
目の不自由な人は、「私がこれを持って歩いていれば、自分が歩いていることが目の見える人にわかるからです」と言った。
この話にはいろんな教訓が含まれている。感じる人の感性で。
真っ暗な暗闇を男が歩いていた。
すると向こうから目の不自由な人がちょうちんを持って歩いてきた。
そこで男は、「あなたは目が見えないのに、なぜちょうちんがいるのですか」と聞いた。
目の不自由な人は、「私がこれを持って歩いていれば、自分が歩いていることが目の見える人にわかるからです」と言った。
この話にはいろんな教訓が含まれている。感じる人の感性で。
明日、山を登るので、軽く土手を走ってきた。
土手で中学生くらいの少年少女達がが花火をしていた。線香花火みたいなかわいいものではなく、どちらかというとロケット花火のようなバンバン音がする激しいものが多かった。その激しい音は、どこにぶつけていいかわからない彼らの荒ぶれる魂の響きのように聞こえる。
夏は過剰なエネルギーが生まれてくる季節である。
その中学生を横目で見ながら、自分の中学時代のことを思い出していた。夏の全国大会に負けて部活が終わると、高校受験に目標が変わっていく。
その気持ちの整理がうまくいかず、仲間同士で遊びまわっていた。そしてしまいに「樹氷」とか何とかの酒を手に入れて(まだあるのかなぁ)、外でこっそり飲み出した。
祭りなんかあるとビールを軽く舐める程度には飲んだことがあったが、きちんとアルコールを摂取するのははじめてだったと思う。完全に酔っ払って軽い急性アルコール中毒気味になってしまい、弟に担いでもらって帰ったことを記憶している。このトラウマ的経験は私のアルコール嫌いに強い影響を与えていると思う。
私は今でも一年に数回しかアルコールを摂取しない。
そんなことを考えていると、警察がやってきて中学生に注意をし始めた。多分、うるさいとの通報があったのだろう。花火くらいやらせてあげればいいのにね。かわいそうに。
私も軽く流そうと思っていたが、スピードを上げて思いっきり走ってしまった。この身体からあふれ出るような過剰なエネルギーを消費しなければよく眠れないなぁと感じたからだ。
よく考えると、私の場合、この過剰なエネルギーから生まれる暴力性とどう向き合うかが、日常での大きなテーマだったような気がする。
暴走族の爆音も、花火の激しい音もある種の行き場のない暴力性の現れである。人はそれを敏感に感じる。それは暴力性に対する不安と不快な感情である。だから、このエネルギーをうまく処理しなければ周りを不幸にしてしまう可能性がある。
この過剰なエネルギーの正体は、おもいきっていってしまえば、性的エネルギーである。俗にいう「たまっている」ということである。このエネルギーは生命力の源であり生きるパワーでもあるが、正しい方向性を失えば暴力に変わる。しかし、うまく使えば文化的活動に昇華させることもできる(芸術など)。まあ、私も少しづつその方法を学んでいる。
昨日、オイゲン・へリゲルの「弓道における禅」を「無我と無私」を読んだ。
薄い本なのですぐ読み終わったが、読み終わった後、精神的にすこし衝撃を受け、しばらくの間、固まってしまった。
短いが内容は濃くて素晴らしい。
去年、鎌倉の禅寺、円覚寺に行ったときに、あの寺のたたじまいに感動してしまった。その「何か」が私の内部に働きかけ、「しーんとする」精神的静寂を経験した。それ以来、禅というものにはまってしまった。
その時、寺の入り口付近でで弓道をしていた。そのときは深く考えていなかったが、弓道と禅は深い関係にある。
私は今、「何か」とか「しーん」とか、言葉にできないものについて、説明した。それでも日本人なら「なんとなく」感覚で分かってくれることが多い。
しかし、このドイツ人である著者はそのなんとなくをゆるさない。ヨーロッパ的自我が理性的・論理的にクリアーな状態を要求するのである。
だからこそ、このような長い間読まれ続けている傑作が生まれたのだと思う。
私たち日本人なら師匠に口答えまでして、あれこれ追及しようとせず、言われたとおりにやるだろう。それが日本式だ。
しかし、彼はわからない状態で弓を射るということができない。その行為に何らかの目的が明確になければ納得できない。
それを得るため師匠に、問い続ける。その師匠との衝突の過程があるからこそ、また彼の精神的葛藤がよく見えるからこそ、禅や弓道の初心者である私たちに、様々なことを教えてくれる。
彼は「離れ」がどうしてもうまくできない。離れとは弓を引いて指を離すときのことである。彼は技術的にどうすればうまくいくかの指導を求めている。しかし師匠はドイツ人に意味不明のことを言う。
オリゲン 「的に当てるという目的を果たすために、弓を引くという手段をとっているのです。この関係を無視するわけにはいきません。子供は目的とか手段などということを考えませんが。私にとってこの二つは切るに切れない関係なのです」
師匠 「正しく射るためには無為自然でなければなりませんぞ。的に当てるために正しい矢の離れを修得しようと躍起になればなるほど、ますます離れはうまくいかず、当たらなくなるでしょう。あなたのあまりにも強い執着が邪魔をしているのです。作為的に狙わない限り当たらないと思っているのでしょうね」
オリゲンはこの時点で、無為とか強い執着ということが何を意味するか分かっていない。むしろ強い執着があるからこそうまく当てられると思っている。
「ではいったい私はどうすればいいのでしょう」と私は思いあぐねて尋ねた。
「正しく待つことを覚えなければなりません」
「ではどのようにしたらそれができるようになるのでしょうか」
「あなたは自身から離脱し、あなたやあなたのもの一切を捨て去れば、そこに残るのは引き絞った弓だけになります」
「では作為的に無為になるのですね」と思わず私の口から漏れた。
「私にそんなことを言う弟子は今まで誰もいませんでした。だからどう答えたらよいのか分かりません」
「ではいつ新しい課題が始まるのですか」
「時が熟すまで待ちなさい」
また、別のときにこうも言っている。
ある日私は師範に尋ねた。「『私』が矢を射ないのなら、いったいどのようにして矢をいることができるのですか」
「『それ』が射るのです」と師範は答えた。
「師範がそうおっしゃるのを前にも何回か聞いたことがあります。では別な方向から伺いましょう。『私』がそこに存在していないのなら、いったいどのようにして自分を忘れて離れを待つことができるのでしょうか」
「いっぱいに引き絞られた所で、『それ』が待っているのです」
「では、『それ』とはいったい誰ですか、いや何ですか?」
「ひとたびそのことが分かったら、あなたはもはや私を必要としなくなるでしょう。あなたが経験を通して分かるようになるのを待たずに、私があなたに手がかりを与えようとするなら、私は最悪な教師となり、解雇に値するでしょう。ですからその話はやめて、稽古しましょう」
この本を読んで、個人的にいろいろ合点がいったことがたくさんあった。
本来、日本にはスポーツというものはなく、肉体の鍛錬を通じた宗教的儀式だけがあったのだと思う。イチローを見ているとよく分かる。彼のやっていることは禅なのではないかと思う。
相撲は、スポーツ的側面を重視しすぎて駄目になってしまった。
少し分析的に弓道を考えてみると、とにかく徹底的に弓を射ることによって弓の軌道を体に染み込ませることが重要なのではないかと思う。
そうすることによって、体がその軌道から逆算して、体を調節する。
それが無為の状態でなされるのである。
無為の状態でそれができるようにするまで、鍛錬する。頭でなく身体が反応するように。
これらの本当の目的は的に当てることではなく、人を無我と無為の状態にすることにある。だから、その状態になれば、たとえ的に当たらないという結果になったとしてもよしとするのである。
このような、宗教的儀式ともいえる弓道の中核には、呼吸法がしっかり会得されていなくてはならない。
坐禅と同じである。
私も特に呼吸に集中することで、日常生活の中で瞑想を行っている。身体の変化により呼吸がどのように変化するのかを淡々と観察するだけである。そのことで自分というものがどういう人間なのかよく分かってくる。
結局、道は違ってもたどり着くところは同じである。そのような方法が、クールな日本的やり方である。
昨日、雑誌をパラパラめくっていたら、内田樹氏がラガーマンと対談していた。いろいろと興味深い話をしていた。
雑誌を買いたかったけど、金がなくてやめた。
その中でとても面白かった話。
スラムダンク(バスケット漫画)で流川が桜木にパスしたシーンがあった。
井上氏があの漫画で言いたかったことは、結局そのシーンに尽きるのではないか。
「なるほど」と思わず声を出してしまった。
流川は桜木が大嫌いである。しかし、勝つために「身体」が無意識的に反応し、桜木にパスをしてしまった。
それは、好き嫌いという脳の判断ではなく、自然に動く身体の反応を優先した。その身体の動きが勝利をもたらしたということである。
そのような境地にたどり着くことがスポーツ(武道)の目的であると。
思考せず、体が反応すること。
また、彼はこのようにも言っている。
強者が、もう一段上のレベルに上がり自分を乗り越えるためには、他者の力が必要である。
他者との共同行為によって、自分にある大きな壁を乗り越えられると。
過酷な環境に身をおけば、無駄な思考は削げ落ちていく。無駄なことを考えている余裕が無いから、自分に必要なことのみを考えるようになる。
例えば、坐禅では妄想がすぐに生まれてきてなかなか思考を停止することはできないが、きつい山登りだと簡単に思考を停止できる。
きつい登山の場合、心拍数、呼吸、腿やふくらはぎの筋肉の状態、汗のかき具合など、体の内部の観察に神経を集中して登るからだ。
自分の体を観察するから、山登り=瞑想といった感じになる。
地面を蹴り上げ、体全体を支え、収縮し膨れ上がる腿の筋肉に意識を集中していると、たしかにそこに生命が宿っていることを感じることができる。
生きているということは素晴らしいなぁと思える。
無駄な思考は無駄な感情を生み、心を汚してしまう。自分の身体を観察することによって無駄な思考を停止し、落ち着いた心の時間をつくるということが、現代人には必要なのではないかと思う。
好きな言葉に「人事を尽くして天命を待つ」というのがある。
できる限りのことをやったら、後は運命に任せるという意味。
自分のできる範囲でベストを尽くすということは、なかなか難しいが、自分でコントロールできる事柄なのでやってられないことはない。
問題は、自分のコントロールできない「結果」を気にしないでいられるかということである。
ベストを尽くしたからといって必ずしも自分の満足のいく結果にならないが多い。というか、うまくいかないことの方が多い。
うまくいかないときに私たちはどうすればいいのだろうか。
一つの方法として、起こってしまった結果・事柄を、悪いことだとすぐに判断せず「保留する」という態度が必要だ。「人間万事塞翁が馬」ということ。
例えば、交通事故で大怪我をしてしまったとする。しかし入院先の美人の看護婦さんに出会って結婚できた。その場合、交通事故が必ずしも悪かったとはいえない。しかし、美人の妻がギャンブル好きで、貯金を全部使い果たしてしまった。が、カジノのルーレットで大当たりして大金持ちになったとか、物事は絶えず流転する。
だから、今起こった出来事が、いいのか悪いのかを判断せず保留するということが、生きる上で重要なのだと思う。
そこで、タルムードの中の「売春宿の門番の話」をひとつ。
ある町に売春宿の門番の仕事があった。体裁も悪く賃金も安かった。しかし、彼の祖父や父がその仕事を代々していたこともあったし、ほかに取り柄もなく読み書きもできなかったので、男は仕方なくその仕事をしていた。
ある日、売春宿のオーナーの老人が亡くなり、やる気のある若い息子が後を継いだ。息子は早速、売春宿の経営の改善に乗り出した。そして、門番に言った。
「明日から、お客についての報告書を出してください」
「えーっと、私は字が書けません。どうしましょうか?」門番は言った。
「では、仕方ありませんね。やめてもらうしかありません」若いオーナーは冷たく言い放った。
男は、世界が崩れ落ちていくような気がしていた。今まで門番以外の仕事をしたことがなかったので、どのように生きていこうか途方に暮れていた。
しかし、彼は売春宿のベッドや家具の足が壊れたときに、それを修理をしていたことを思い出し、その修理で一時的に稼いでいこうと考えた。そして工具を揃えることにした。工具を売っているところは、今いる町から二日かかる場所にあったが、彼はそこに行くことを決意して出発した。
そして、工具を揃えて帰ってきた。家に入ってブーツも脱ぎ終わらないうちに隣の住人が、どんどんとドアを叩いた。
「スイマセン、かなづちを貸して下さい」と隣の住民は言った。
「私も、これを使って稼いでいこうと思っているので貸すことはできません」
「どうしても必要なんです。レンタル料を払いますので貸してもらえませんか」
男は考えた。修理の仕事があるかどうか分からないし、レンタル料がもらえるならそっちの方がいいのではないかと。そこで彼は金づちを貸すことにした。
工具が買えるところが、あまりに遠いので、工具のレンタルは結構いい稼ぎになった。そのうち男は、レンタルではなく売買した方が儲かるのではないかと思い、工具の商売を始めた。そのアイディアは大当たりした。彼はその町で最初の金物屋になった。今まで町には金物屋はなかったのでたくさんの注文をもらい、いい稼ぎになった。彼は人柄もよく一生懸命誠実に働いたから、いつの間にか大金持ちになった。そして、大金持ちになった彼は、町に大金を寄付して学校をいくつも作った。
ある開校式で彼はサインを求められた。しかし彼はいまだに字が書けなかったので、こう言った。
「私もできればサインをしてあげたい。しかし私は文盲なのです」
「あなたが?」サインを求めた人は信じられないといった顔でこう言った。「あなたのような一代で事業を大成功に導いた立派な人が読み書きもできないなんて、もし読み書きができたらどんなことが成し遂げられたのでしょうか?」
「それなら、お答えできます」男は静かに言った。
「もし、字を知っていたら・・・・・売春宿の門番です」と。
昨日の夕方に少しだけ喉が痛いかなぁと感じたので、昨日は早く寝た。クーラーはつけずに、布団をかぶって体を温めるように気をつけた。
今朝は体調がいい。この時期は暑いことは暑いのだが、雨にぬれたままクーラーにあたっていると体が冷えて、簡単に調子を崩してしまう。
夏は、意外と低体温症になりやすいとのことだ。体温が35度台になっていると、内臓の機能がうまく働かなくなったり、免疫力が低下して様々な体の不調が生じてくる。また、低体温の状態だとがん細胞が活発化することも指摘されている。
私の場合、筋トレをしているから、筋肉が炎症して体が火照ってくる。だからどうしても体を冷やしたくなる。しかし、クーラーをかけた状態でいると喉が痛くなってきたり腹の調子が悪くなってきたりする。その辺の感じはすごく敏感である。
クーラーでなくても、例えば、走っていて風が強く吹いてくると体が冷えてくる。そうすると鼻水が止まらなくなってくる。体が冷えてくると体が悪いほうにすぐ反応する。だから、あまり暑いのも体によくないが、少し汗がでる程度ならそのほうが体にいい。
花粉症などのアレルギーも低体温と関係しているとの研究がある。低体温症は一般家庭にエアコンが普及し始めた頃から増えているとのことである。
タルムードはユダヤ人の聖典だといわれている。
比較的当たり前なことが書いてあるが、非常に役立つ。こういう分かりやすく示唆に富む書物があるということは、素晴らしい。
日本に道徳教育が必要だとよく言われる。道徳といわれても漠然としていてしっくりこない。日本にもタルムード的な聖典があったらいいのになあと思う。経済活動が欲望に深く関係している以上、倫理的縛りがどうしても必要になってくる。
ユダヤ人は金儲けがうまいが、タルムードを読む限り、しっかりとした倫理性が根付いているから、より成功するのだろう。
少し、抜粋してみる。
「友が怒っているときになだめようとするな。悲しんでいるときに慰めるな」
「どんな男であれ、女のあやしい美しさには抵抗できない」
「世の中でもっとも幸福な人は誰か。よき妻をめとった男」
「自分をコントロールできないような場面ではセックスをおこなってはいけない」
「強い人 それは自分を抑えることのできる人」
「豊かな人とは自分の持っているもので満足できる人である」
「真実は重いものだ。だから若い人々しか運ぶことができない」
最近、読んでみたいなぁと思っている小説に「やし酒飲み」というアフリカの小説がある。保坂和志氏の本に紹介されていたものだ。ちょっとだけ引用されていたのだが、その部分を読んだだけで完全につかまれてしまった。なんともいえないアフリカ的グダグダ感。本当に小説というものは奥が深い。
わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として流通していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。
父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで、夜と昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた。
父は、わたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのが気がついて、わたしのために専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。彼の仕事は、わたしのために毎日やし酒を造ってくれることであった。
父は、わたしに、9平方マイルのやし園をくれた。そしてそのやし園には56万本のやしの木がはえていた。このやし酒造りは、毎朝、150タルのやし酒を採集してきてくれたが、わたしは、午後2時前にそれをすっかり飲み干してしまい、そこで、彼はまた出かけて夕方にさらに75タルを造っておいてくれ、それをわたしは朝まで飲んでいたものだった。そのためわたしの友人は数え切れないほどにふくれあがり、朝から深夜おそくまでわたしと一緒に、やし酒を飲んでいたものでした。ところで、15年間かかさずこのようにやし酒造りは、わたしのためにやし酒を造ってくれたのだが、15年目に突然父が死んでしまった。父が死んで6カ月たったある日曜日の夕方、やし酒造りは、やし酒を造りにやし園へ行った。やし園に着くと、彼は一番高いやしの木に登り、やし酒を採集していたが、その時ふとしたはずみに木から落ち、その怪我がもとでやしの木の根っこで死んでしまった。やし酒を運んでくれるのを待っていたわたしは、いつまで待っても彼が戻ってこないし、今までこんなに長くわたしを待たせたこともなかったので、友だち二人を呼んでやし園までにいっしょについていってもらうことにした。やし園に着いてからやしの木を一本一本見てまわり、そのうちに彼が倒れて死んでいるやしの木の根っこをみつけた。(「やし酒飲み」エイモス・チェツオーラ 土屋晢訳)
このやし酒ばっかり飲んでいる男はどうなってしまうのか非常に気になる。アマゾンのカスタマーレビューを読むといろんな面白いことが起こるらしい。
高橋源一郎氏が小説はほとんどが恋愛と死者のことが書かれているといっていたが、人間の心の動きの中で重要なことは、「愛すること」と「愛する人との別れ」に関係しているからだと思う。恋愛は人が人を濃密に愛する場面であるし、死は究極の別れであるからである。幸せや哀しみそれから孤独は、「愛」と「別れ」に関係している。たとえば、それぞれの人の人生が小説だとすれば、そこに書かれる物語は愛と別れという出来事が中心になるし、その物語の中で書かれる感情の流れは「愛と別れ」という出来事から派生する感情のバリエーションである。自分が今どのようなバリエーションの中に生きているかはそれぞれ違うが、人が自分の人生を思いっきり生きようとすれば、良くも悪くも深く喜んだり傷ついたりしてしまう。
ジョン・アービングの小説を読むと、へんてこりんで深く傷ついている人たちがたくさん出てくる。彼らの人生は暗くて重苦しい。人ごとだと思って客観的に眺めてみると、パロディのようで笑ってしまうかもしれない。小説の前半は、このような感じだが、彼の小説はどんなヘンテコな人間だってちゃんと生きてていいんだし、居場所もきちんと見つかることを教えてくれる。心の傷もいつか癒えるものだということが分かる。
山の夜露や湧き水が少しずつ集まって川になり、曲がりくねったところや落差のある滝を越えて、大いなる海に流れていくように、自然な感じで人生を送れたらいいなと思う。人生は自分という個性的な存在の中でしか生きれない。ひどい人生だとしても、そのひどさがその人の個性なのだ。ただ、人生はうまくできていて、ひどさの中でも、十分に幸せに生きていくことができる。ひどさという川の流れに自分を委ね、自然に生きていければいつか大いなる海にたどり着く。だから、きついなぁと思っている人には、頑張ってもらいたい。もちろん私もね。