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フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

今年の総括と来年の抱負

2010年12月31日 20時17分06秒 | 日々の出来事・雑記

 今年一年を総括すると、変化だったと思う。正確にいうと、まだ変化していなくて変化の始まりという感じだろうか。それも外形的な変化ではなく、内面的・精神的な変化である。それは、まず自分自身の大きな問題点が明確になってきたことを意味している。それが分からなくては変化のしようがないからである。

 

 「他者の自己化」と「自己の他者化」という概念がある。
 他者の自己化とは、他人の感じたことをあたかも自分の事のように感じることである。つまり、他者と自己の同一化であり、共感能力を高めるということである。そもそも共感能力がなければ、社会生活できないので、通常の社会生活をしている以上、この能力はあまり問題にならないだろう。
 どちらかというと問題になるのは、「自己の他者化」である。

 

 自己の他者化とは、自分をあたかも他人のように客観視して観察することのできる能力である。どのように観察するかというと自己を二つに分裂させるのである。つまり、自分の中に「観察される自分」と「観察する自分」の二人を同時に存在させることである。
 
 ところで、仏教でいう煩悩(三毒)とは、欲・怒り・迷いだといわれている。私の場合、「欲」はあまりないが「怒り」の力が強い。「欲」が引き寄せ吸い込むことによって人から奪う力だとすると、「怒り」は吐き出すことによって
人に負のエネルギーを放射する力である。
 怒りの原因は「おれがおれが」という強すぎる自我にありそうである。自分というものが前面に出すぎていて、プライドが高すぎるということである。そして、それがちょっとでも傷つけられると怒りに変わる。だから、自分というのを否定していく。否定否定否定である。仏教的に。
 
 ただ、簡単に自我を否定できるものではない。そこで、自分自身に湧き上がってくる感情を客観的に観察していくことからはじめる。どんなに怒っている状態でも、それをきちんと客観視して観察できているとすれば、もうひとりの自分は冷静なのである。だから、怒っていることを止めるのではなく(強引に止めれば不満が溜まる)、観察しているもうひとりの自分を常に冷静に保つことが必要である。
 
 まずは、自分の手足、呼吸、脈拍などの身体の状態を観察する。その後に感情面を観察していくのである。そのようにして、自己を他者化していく。
 これの一番いい方法は、坐禅だろうと思う。

 

 来年のテーマは「自己の他者化」である。
 そのようにして沈静化した穏やかな自己を作り上げていく。来年はそれを徹底的にやるつもりである。

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奥多摩縦走 2010 12月

2010年12月31日 18時42分12秒 | 登山

 12月29日 
 奥多摩駅~中日原(標高620m)11時頃スタート~稲村岩尾根~鷹ノ巣山(標高1736m)三時ごろ登頂~鷹ノ巣避難小屋に三時半ごろ着く。ここで一泊する。
 稲村岩尾根は初めて登ったが、なかなかきついコースだった。
 鷹ノ巣避難小屋に着くと、既にひとり居て、ご飯を食べていた。なんとなく話しかけるな的な感じだったので、話しをしないで私は黙々とドストエフスキーの「死の家の記録」を読む。登山に向いている本かどうか分からない。ああいう静かな場所では普段読まない古典がいい。集中して読める。
 あんまり寒いので(氷点下6度くらい)、寝袋に入って本を読んでいたが、7時にはもう熟睡していた。

 4時起床。4時半にはもう出発した。

 12月30日
 日蔭名栗山(1736m)~高丸山(1733m)~七ツ石山(1757m)~雲取山(2017m)9時半ごろ登頂~芋の木ドッケ(1946m)~長沢山(1738m)~滝谷ノ峰(1710m)~酉谷避難小屋(1700m)4時ごろ到着

 5時起床、5時半出発

 ブログにアップした夜景は日陰名栗山付近からとったもので、朝日は高丸山から撮ったものである。暗かったので注意深く登った。

 
 七ツ石小屋には水場があるので水を補充していたら、管理人なのか宿泊者なのかよく分からないが、少しぽっちゃりしたかわいらしい女の人がやかんを持って水を汲みに来た。世間話をする。富士山がきれいに見えた。
 
 雲取山の避難小屋で朝食をとる。トレイルランニングをしている二人組みが、中に入ってくる。体中から湯気が出ている。何でも、鴨沢から雲取山まで二時間半で来たそうだ。
 通常、鴨沢から普通に登って5時間から6時間かかる。トレイルランニングはすごい。

 
 雲取山を10時ごろ出発したのだが、酉谷避難小屋に着いたのが4時ごろになった。疲れた。
 雪が膝下まであったこと以外、よく覚えていない。ボロボロになるほど疲れたというのはこういうことなんだと思う。
 朝からおよそ11時間歩きっぱなしだった。

 
 酉谷避難小屋は小さいのだが、私を含めて4人で泊まった。酒を飲まないのは私だけだったが、わいわいと話が盛り上がった。氷点下13度くらいになったが、4人いたので温かい感じがした。私は疲れていたので一番早く寝てしまった。多分6時頃。

 12月31日
 酉谷避難小屋、5時半出発~七跳山(1651m)~三つドッケ・天目山(1576m)~一杯水避難小屋、朝食をとる~蕎麦粒山(1472m)~日向沢ノ峰(1356m)~赤杭山(923m)~古里駅に2時頃着く~自宅4時ごろ到着

 あまり食べなかったので(疲れすぎて)、4,5キロ体重が落ちたと思う。

 疲れたが今年最後の有意義な登山だった。楽しかった。
 

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朝日

2010年12月30日 07時01分02秒 | 登山

 鷹ノ巣避難小屋から雲取山に向かう途中の朝日。
 素晴らしい。生きているって感じ。

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山からの夜景

2010年12月30日 05時16分28秒 | 登山

 朝早く、鷹ノ巣避難小屋を出発した。
 その時の夜景。多分、八王子方面だと思う。

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乗り越えられない試練

2010年12月28日 23時54分38秒 | 社会・政治・思想哲学

 ドラマ「仁」の再放送をすこし見ていたら、「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉が出てきた。
 ぱっと聞くと、なかなかいい言葉だなぁと思うが、よく考えてみると、どういう意味なんだろうか。
 だって、乗り越えられない試練っていっぱいあるから。

 

 聖書の一節。コリントの信徒への手紙 10章・偶像への礼拝に対する警告 13節 

 12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

 13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
 
 14 私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像崇拝を避けなさい。

 

 
 すこし分かりづらい。多分、こういう事だろうと思う。
 もし神が乗り越えられない試練を人間に与えたら、人間は自分で解決しようとせず、何か超越的なものにすがってしまい、その象徴である偶像を崇拝してしまうだろう。だから、神様はそういう厳しい試練は与えないのだ、という意味だ。
 そうすると、ドラマで使っている言葉は、ちょっと違う使い方になる。
 つまり、ドラマでの使い方は、今この瞬間に厳しい試練が立ちはだかっている。その危機的状況の中で、勇気を振り絞るために、「神は乗り越えられない試練は与えない」のだといい、自身を鼓舞するのだ。
 確かにそういう気持ちはよくわかる。
 しかし、乗り越えられないことなんかたくさんある。特に勝負事なんて、勝つ人がいれば負ける人もいるのだから、両者が試練を乗り越えるのは不可能である。
 
 ただ、もう一歩深く考えてみよう。さっきの例でいえば、勝負事をして勝ったほうは無事に試練を乗り越えたといえるだろう。では負けたほうはどうか。負けたら精神的にきついこともあるだろうし、いろいろ大変なことが起きてくるかもしれない。それ自体がまた別の試練である。
 たしかに、勝負という試練は乗り越えられなかったが、その負けてしまった後の厳しい状況を乗り越えれば、それは乗り越えられる試練だったのではないだろうか。
 そのように考えれば、どんな状況だって乗り越えられることができる。
 まさしく、「神は乗り越えられない試練は与えない」のである。一回くらいの失敗で、くよくよするな、それくらい乗り越えられることができるよ、という意味なら、個人的に納得がいく。
 
 ドラマを見ながら、あれこれくだらないことを考えていた。

 

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趙州洗鉢

2010年12月15日 08時53分52秒 | 社会・政治・思想哲学

 禅の公案に「趙州洗鉢」というのがある。
 
 趙州という有名な禅僧が、ある若い僧に「仏教とは何かを教えてください」といわれた。

 「朝ごはんを食べたか」

 「はい」

 「では、君が食べたご飯のお椀を洗いなさい」といった。
 
 この言葉で、この若い僧は悟ったという話である。


 昨日、虎ノ門で遅くまで飲んでいた。ひとりが「一週間長いね、まだ火曜日だよ」と言っていた。本当に一週間が長く感じる。多分、ルーティーンの仕事に嫌気がさしてきているのだろう。そういう何もかも面倒くさくなるときに、この公案を思い出すようにしている。

 仏教の真髄は、今この瞬間にやるべきことをやる、つまり、この瞬間を生き抜く、ということにある。過去でもなく将来でもない。今、息をしているこの現在である。そのように生きれば、長いも短いも、ルーティーンもない。


 

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精霊の王 中沢新一

2010年12月08日 08時50分20秒 | 社会・政治・思想哲学

 昨日、中沢新一氏の「精霊の王」を読み終わった。興味深い本だったが、一回読んだだけ分かったというような類の本ではなかった。何回も読まなければならないような内容である。
 
 本書でいう精霊の王とは、日本に国家が現れる前に存在した最古の神、精霊シャグジである。
 このシャグジは国家が形成され国家権力が確立してくる西日本では姿を消し、縄文的文化を色濃く残した東日本と西日本の国家からはじかれた被差別や定住せず移動しながら芸能を洗練させていった芸能の徒に「宿神」として生き続けていった。

 室町初期の能楽師・金春禅竹が残した「明宿集」という書物が昭和39年に発見された。この書物は猿楽で最も重要な精神的価値をもつ「翁」の本質が明らかにしようとした、一種の内部文書である。
 この翁として表現されたものが宿神であり、自然界の神つまり精霊の王だというのである。

 そもそも、天皇制もこのシャグジを王権内部に取り込むことによって権力を確立していったといえる。例えば、スサノオがヤマタノオロチを倒すことによってその胎内から王権の象徴でもある剣(シャグジ)を取り出し、土地神の娘と結婚して、地上の王権の基礎を作り上げたとの神話などは、その一例でもある。

 天皇制という王権の特徴は、王権が作り出される過程の本質を宗教的神話を取り込むことによって、国家を発生させたということにある。
 本書には取り上げられていないが、神楽の巫女舞は一種のシャーマニズムであり、精霊を巫女の身体に憑依させる儀式である。この神楽と深いかかわりにある猿楽・雅楽などの芸術はその精霊が重要な役割を果たしており関係が深い。

 ちょっと、話はずれるが、ある組織(宗教団体だけでなく会社とかも)が急激に拡大していくには、ある種のシャーマニズム的なものが組織内部に組み込まれていると推測している。
 それがどのようなもの分からないが、人々が熱狂的ともいえる状態(トランス状態ともいえる)で活動しなければ、組織は大きく拡大していかないからである。

 その意味で、シャーマニズムから派生した芸能活動は人々を熱狂させ扇動していく側面がその活動の本質的な部分になるのだろう。

 いまテレビでやっている海老蔵の会見を見ていて、いろんなことを考えてしまう。芸能は、非日常と日常の間を行き来し、それを橋渡しする役割がある。
 闇社会と日常の社会の橋渡しもそうかもしれない。また、力のある芸能人ほど、人々に与える影響が強く、シャーマニズム的な魔術をもっている。
 本人が自覚するかしないかは問わずに。

 

 

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酉谷山から日原へ

2010年12月05日 21時50分22秒 | 登山

 今朝、一杯水避難小屋を出て、酉谷山に向かった。よく寝たのだが、寒くて寒くてなかなか起きれなかった。そして、頭がボーっとしていて午前中のことはよく覚えていない。

  

 

  

 

 

 


 昭文社の2010年度版の奥多摩の地図では、酉谷山避難小屋は使用できないと記載されている。てっきり、ボロボロの小屋で使えないんだろうなぁと思っていたのだが、行ってみるとなかなか素晴らしい避難小屋だった。なんといっても、すぐ近くに水場があるのが良い。水は重くてかさばるが、持たないわけにはいかない。大体3リットルくらいは持ち歩いているのだが、水場があることが分かっているなら、一リットルで十分だ。そうすれば歩くのがずいぶん楽になる。今度、ここの避難小屋に泊まってみたいと思う。

 



 カップラーメンを食べるとき割り箸を忘れてきているのに気づいた。別にどうということはない。箸になりそうな木はたくさんある。まっすぐで箸になりそうな木を取ってナイフでシャカシャカと削って箸を作った。削っていくと、小さい芋虫みたいな虫が出てきた。アボリジニーなんかは喜んで食べるらしい。私も山に二日もいるとかなり野生化しているので、食べてみようかと口に持っていってみる。しかし、生で食べる勇気がない。そこで、沸かしたお湯の中にサッと湯通しして食べてみた。味はないが十分食べれる。今度遭難した場合、虫を食って生き延びれる勇気が出てきた。何でもやってみるものである。



  


 酉谷山の下りは、ミズナラの木が多く景色が他の場所と違っている。枯葉も多くて歩きにくい。しかし、水が豊富で本当に美しい。



  


 



 日原付近に来ると、大きな滝があった。小川の大滝というらしい。下の記述が読みにくいのでちょっと紹介する。


 地元では大昔から、男釜、女釜と呼称し、昼なお暗く渕の奥深く龍神が棲むといわれ、大昔奥山から伐木搬出に河川が利用された当時この渕に伐木が流れ着くと雨が降ると言い伝えられた。


 なるほど、龍がいてもおかしくないくらいの迫力のある滝だった。

 

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川乗橋~鳥屋戸尾根~笙ノ岩山~蕎麦粒山~一杯水避難小屋

2010年12月04日 18時32分52秒 | 登山

 夕暮れの富士山。



 一杯水避難小屋。


 焚き火。



 今日は避難小屋には誰もいない。私一人だ。さっきイタチか狐みたいな小動物が焚き火の近くに来たが。
 少し怖い。早く寝よう。

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未開社会から学ぶべきこと(ぜんまい仕掛けの機械)

2010年12月03日 08時44分41秒 | 社会・政治・思想哲学

 レヴィ=ストロース氏は未開社会についてこのように語る。
 
 未開社会はしきたりや信仰に支えられながら自然資源を保全する。人口増加も抑制され、低コストの社会が実現されている。そのような社会は「ぜんまい仕掛けの機械」に喩えられる。最初に機械に与えたエネルギーを用いて作動し、その機械が摩擦も熱も生じないように作られている。理論的には果てしなく作動する。
 しかし、この社会は初期状況を保持しようとする傾向を持っているため、外部から見ると、歴史も進まない社会のように見えてしまう。
 一方、近代社会は大量のエネルギーを消費する「熱力学的機械」である。大量の仕事をこなし、大量のエネルギーを消費し、進歩することが運命づけられている。

 現代人のこころの問題を考えるとき、未開人がどのような心の動きをしていたかを想像してみることは問題解決にとって有効な手段だと思う。

 未開社会は必ずしも劣った社会ではない。力(エネルギー)の闘争には敗れてしまったが、未だにすぐれた社会システムである(省エネ社会として)。もし石油が無くなった未来を想像すればよい。
 それどころか、個人個人にとっては、心のトラブルが生じにくいすぐれた社会だともいえる。学ぶべき点は多い。

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