フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

オーストラリアの小さな町がラクダに占拠された問題

2009年11月30日 23時14分35秒 | 社会・政治・思想哲学

 

 オーストラリアの北部、人口350人の町、ドッカーリバーをラクダ6000頭が占拠した。干ばつによる水不足で、水場を求めこの町に集まってきたようだ。ジョークみたいな話だが、ラクダが水道施設などを破壊し、やりたい放題である。銃撃によって駆除する方法について、動物愛護団体が反発している。しかし、オーストラリア政府は銃による駆除を決定した。
 そもそも、ラクダはオーストラリア大陸にいなかった。白人が砂漠地帯の開発のために持ち込んだものだ。その後、野生化して増え続けた。現在、100万頭いるという。
 近年、オーストラリアは干ばつに悩まされている。これはいわば、オーストラリア病というべき問題であり、小麦の輸入に関連して、日本にも影響がある。
 オーストラリアの農業はほぼ地下水を利用して行われている。地下水は数千年の間、貯えられてきたものであり、使いすぎれば、当然、枯渇する。地下水を十分に貯えるには、森林の存在が不可欠である。森林は雨を受け止め、ゆっくり地下に浸透させ、洪水になって水が流れ出すのを防ぐ。しかし、オーストラリアには森林が少ない。それは、イギリス人がオーストラリアを植民地にしてから、森林を伐採したからである。特にオールドグロース林の伐採がひどい。オールドグロース林とは、大多数の樹木が樹齢200年から1000年で占められている森林のことである。
 日本の製紙会社と商社も、オールドグロース林の木材を輸入していた。日本の紙は原料が安いオーストラリアのオールドグロース林の木材でまかなわれていた。オーストラリアは特に産業もなく、資源を輸出することでしか外貨を獲得できなかったからである。
 オーストラリアの原住民のアボリジニーにとってオールドグロース林は生活・宗教・文化の中核である。
 しかし欧米人の持ち込んだ小麦農業と牧畜は森林伐採と砂漠化を進行させる。なぜなら、小麦は、森林を伐採して更地にする方法が、オーソドックスなやり方であるからだ。また、放牧により牛は草を食べつくし、草木を丸裸にしてしまう。それが地域を砂漠化してしまう。

 
 また、キリスト教やイスラム教などの一神教も砂漠化に関係する。人間中心・科学優位の思想は、自然を征服し破壊することを否定しない。

 
 話は少しラクダ問題とはずれてしまうが、重要なのでちょっと突っ込んで話そう。

 小麦農業と牧畜は1万2千年前に発生する。そして、チグリス川・ユーフラチス川のメソポタミア地方(現在の中東・イラク付近)に5000年前、シュメール人が世界最古の都市文明を築いた。
 このシュメール人には「ギルガメッシュ叙事詩」という神話がある。そして、その神話に森の神を殺す場面がある。 

 「町を建設するために、二人の勇者が、森へ木の伐採に出かける。ところが、二人は森のあまりの美しさに立ちつくしてしまう。しかし、この森を破壊しなければ、町を立派にすることができないので、森の神を殺し、森を破壊する。勇者の一人は森の神を殺した祟りで死んでしまう」という話である。
 このように、森の神を殺し、森の樹木をエネルギー源にしたため、急速に中東の森の伐採と砂漠化が進む。中東は昔自然に恵まれていたのだ。
 また、ローマ帝国も同じように西に勢力を広げていき、ヨーロッパの森を伐採していく。日本のように木材で家を建てることは、木の伐採を進めるように思うが、レンガなどの方がそれを作るのに木を燃やさなければならず、どれだけの木を伐採するか分からない。レンガ文化のほうが、無駄にエネルギーを使うのである。

 
 小麦農業に比べ、中国南部に発生した米文化は水を利用するかんがい農業ゆえ、完全な自然破壊はできず、森林を残すようになる。中国から日本に渡ってきた米文化が、結果的に日本の森林を破壊せず豊かな自然を残したともいえる。また、神道や山岳信仰とも喧嘩しない仏教も、これに関係している。つまり、仏教は、森の神様を殺さなかったのである。

 
 このように、自然を征服し破壊するのは、欧米・アラブの一神教・小麦農業・牧畜文化であり、仏教・米文化は森林などの自然と調和する。

 中東が砂漠化したのと同様に、オーストラリアが砂漠化するのは避けられないのかもしれない。ただ、それに日本も加担していることも忘れてはならないだろう。

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依存的攻撃性

2009年11月28日 14時39分59秒 | 社会・政治・思想哲学

 攻撃的であるが、同時に依存的な関係を依存的攻撃性という。
 例えば、自立しておらず親に依存している子供が、家庭内暴力を振るうことが典型だ。

 このような関係は、意外と多い。会社の愚痴をいうのもその一つである。嫌なら辞めればいいだけである。依存しているからそれができない。
 
 
 自分の問題を自分自身で解決できないから、他人に依存する。しかし、相手が自分の問題を解決してくれない。だから、攻撃する。
 
 自分の問題は、結局、自分で解決しなければならない。

 
 こういう関係を終わらせる方法は「自立」にあると思う。自立するためには、自分の問題は、自分で解決するという意識が必要である。そのことで、ちゃんとした大人の付き合いができる。

 
 日本の防衛問題についても同じことが言えるだろう。普天間の基地問題について、アメリカに依存していながら文句をいっている。
 本当は、自立していない日本人の精神性が問題なのである。

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体を観察すること (ジョギング編)

2009年11月25日 23時57分00秒 | 身体・健康・筋トレ

 イライラしていたり、怒りが収まらなかったり、不安や落ち込みでうつ的な状態だったら、ジョギングをすることをお薦めする。
 
 もちろん、ウォーキングでも構わないが、体に負荷をかけるほうが、丈夫になるので、出来ればジョギングがいい。
 そして、ただやるのではなくて自分の体の状態を観察しながらやる。この自分の体を観察しながら動くのは、仏教の瞑想の一種である。瞑想は必ずしも坐禅だけに限らない。ジョギングしながらでも、仕事をしながらでもできる。
 ジョギングしながら体の観察をすること。それができるようになれば、日常生活でイライラした時にも役に立つ。
 
 まずはジョギングの基本と、それに関する体の働きについて述べる。
 ウォーキング・ジョギング・ランニングは、有酸素運動である。これに対し、100m走のように全力疾走をするのは、無酸素運動となる。
 無酸素運動は、呼吸しながらでは間に合わないくらいのハードな運動である。
 有酸素運動は、呼吸をしながらできるくらいの緩やかな運動で、体内に蓄えられている脂肪を燃焼させる。
 有酸素運動をする場合、最初の20分は、血中に含まれている脂肪を使う。20分を超えて運動する場合に、内蔵脂肪・皮下脂肪が使われる。
 有酸素運動は筋肉をつけるというより、心肺機能を高め、また脂肪を燃焼させることを目的として行われる。だから、筋肉をつけようとすれば、無酸素運動をしなければならない。筋トレである。

 ジョギングをすすめる実質的な理由は、ウォーキングとジョギングを同じ時間した場合、ジョギングの消費カロリーはウォーキングの約2倍に達するからである。
 また、ウォーキングとジョギングの大きな違いは、足と地面の関係にある。
 すなわち、ウォーキングは、必ず片足が地面に付いているのに対し、ジョギングは、両足が宙に浮いている瞬間がある。
 そのため、ジョギングが、体、特に骨に与える衝撃は、ウォーキングの比ではなく、衝撃が与えられた骨は太くなり丈夫になる。
 ところで、ジョギングとランニングの違いについてであるが、単に運動強度の違いである。ランニングのほうが強度が強い。ジョギングは、話ができる程度のゆっくりなペースの走り方で、ランニングは、息切れする一歩手前の走り方である。

 呼吸法については、「二回吸ってて二回吐く」やり方がいいという人がいるが、その点に関しては、どのようなやり方でも自分のやりやすい方法でやればいい。
 問題は、呼吸が上がらないように注意することである。呼吸があがってしまうと、無酸素運動に変わってしまうからである。 

 内臓脂肪や皮下脂肪を燃やすには20分以上走るのが効果的なのは既に述べた。しかし、ペースが速すぎるとバテてしまう。

 そこで、重要になるのは、ゆっくり、長時間、走り続けることである。
 長時間走り続けることによって、筋肉の持続力や内臓疲労に対する
する抵抗力、耐久力は向上する。心肺機能を高め、最大酸素摂取量を向上させることができる。ゆっくりのスピードで、40分以上行うのが理想である。

 次に、体の観察方法についてである。
 基本は、ジョギング中の自分の呼吸がどうなっているかを観察すること。
 呼吸は酸素と炭素ガスの交換である。炭素ガスが体の老廃物になる。そこ交換を円滑に行うように注意して行う。
 次第に、ジョギングのリズムと呼吸のリズムが同調してくる。同様に、心拍数のリズムも一定になる。
 そうすると、セロトニン神経が活性化し、気持ちが落ち着いてくる。
 





 

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必然を感じる心、自由意志の否定、歎異抄13条

2009年11月23日 19時34分51秒 | 社会・政治・思想哲学

 今日、NHKのプロフェッショナルの流儀で、井上雄彦が出ていた。
 彼の絵はマンガというより、芸術に近い。見ているだけで涙が出そうになる。
番組の最後で又八の母、オババの絵が出てきた。
 武蔵が息子の又八をたぶらかし村から連れ出したと思い込み、武蔵を憎んでいるオババは作品の中で最も嫌な感じの人物として描かれている。しかし、死んでいく夢の中で又八と村に帰っていくシーンでのオババの顔はとても幸せそうだった。その顔は、穏やかで仏のようだった。
 井上氏は番組の中で「物語には興味がない。キャラクターをしっかり作りこめば、その人物がどのように行動するかは必然的に決まってくる」との趣旨の発言をしていた。
 なるほど。
 この発言は、人間の自由意志を否定し、運命に導かれ必然的に行動することを信じているかのようだ。 

 歎異抄13条の中に「なぜ人間がそのような行動をするのか」について深い洞察がある。歎異抄は親鸞の弟子の唯円によって書かれたものだ。ちょっと引用する。

  「唯円房よ、おまえは私のいうことを信じるのか」とおっしゃいましたので、「もちろんでございます」とお答え申し上げたところが、「そうか、それじゃ私のこれからいうことに決してそむかないか」と重ねて仰せられたので、つつしんでご承知いたしましたところ、「じゃ、どうか、人を千人殺してくれ。そうしたらお前は必ず往生することができる」とおっしゃったのであります。
 そのとき私が、「聖人の仰せですが、私のような人間には、千人はおろか一人だって殺すことができるとは思いません」とお答えしたところ、「それではどうして先に親鸞のいうことにそむかないといったのか」とおっしゃいました。
 そして、「これでおまえは分かるはずである。人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと私がいったら、おまえは直ちに千人殺すことことができるはずである。
 しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、お前の中に、殺すべき業縁が備わっていないからである。自分の心がよくて殺さないのではない。また殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるだろう」とおっしゃいましたのは、われわれの心が、よいのをよいと思って、悪いのを悪いと思って、善悪の判断にとらわれて、本願の不思議さに助けたまわるということを知らないことを仰せられたのであります。

 

 なかなか過激な発言であるが、親鸞がすごした時代は源氏・平家の争いの中で日本史においてもまれに見る殺し合いが行われていた時代だということも考慮にいれる必要がある。
 人なんて殺したくないと思っていても、戦にかりだされたりすれば自分の意志とは関係なく千人殺してしまうこともある。また殺そうと思っても業縁がなければ一人も殺すことができない。この業縁とは、人間の自由意志の力を否定し、不可避的に行動してしまう必然の力をいっているのだと思う。それを先祖代々受け継いだ血筋を理由にあげる人もいるだろう。それは分からない。
 人の行動を見ていると、こうすればいいのにと思うことがある。しかし、どのような助言をしても根本的なところでは同じような行動をしてしまう。そして、そのような行動の積み重ねを個性と呼ぶのだろう。
 また、強い意志を有していても社会の情勢など自分の意志とは何の関係のない事柄で、自分の意志と別のことをやってしまう(やらされてしまう)こともある。そのように考えると、たしかに、選択的に自分の意志で行動しているのかわからなくなってくる。

 人生は基本的に偶然の出来事の積み重ねなのだが、それについて必然性を感じるその感覚は一体何なのかは、考えるに値する問題である。
 あった瞬間にこの人だと思い、赤い糸で繋がっていたなどと感じる人もいる。
 運命とは偶然的な出来事を必然的に感じることと定義すれば、自分の知らないところで、必然的に物事を決定しているのは、何なのか、誰なのかということになる。

 武蔵と小次郎が戦うのは必然だったのだろう。

 それ以外の道はなかったに違いない。

 

 

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高水山・岩茸石山・惣岳山

2009年11月23日 13時20分47秒 | 登山

 昨日、高水三山を登った。二日連続で山登りをして体が痛く、今日はゆっくり家で休息している。
 高水山(たかみずさん)は東京都青梅市にある標高759mの山で、岩茸石山(標高793m)、惣岳山(標高756m)と共に高水三山とよばれ、東京近郊のハイキングコースあるいは手頃な登山コースとして人気がある。
 青梅線・軍畑駅で下車し30分くらい歩くと登山口がある。   

   
 

登山道入り口の途中で高源寺がある。

 

 

 神奈川県の山と東京都の山の大きな違いは、杉の多さだと思う。東京の山は本当に杉が多い。これでは花粉症が多くなるのも理解できる。
 

 

 

 川沿いに山道があるので、付近が全体的に湿っている。そのため植物が生い茂っていてジャングルのようだ。なかなか幻想的でいい。

 

  

 

 高水山の山頂付近に常福院がある。少し寂れているが、なかなか趣があっていい寺だ。紅葉がすごくきれいだった。

 

  

 

 頂上付近の景色。なかなか素晴らしい。

 

 

 

 午後からは雨らしく、雲行きが怪しくなってきた。山頂の間に雲がかかっていて、幻想的な感じがする。

 

 

 

 高水山をすぎると、岩茸石山、惣岳山がある。
 岩茸石山、惣岳山の両者とも頂上に行くときすごく危険な場所を登らなくてはならない。
 

 
 

 下山すると、ちょうど御岳駅の裏に出る。そこにいい感じのわらぶき屋根の蕎麦屋があった。玉川屋というらしい。

 体力的にきつくもなく、景色もよく、とてもいい山だった。
 駅に近いことから交通アクセスもいい。にもかかわらず登っている人が非常に少ない。

 

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超回復について

2009年11月21日 21時17分30秒 | 身体・健康・筋トレ

 ランニングや筋トレは、最初は面倒だが、やり始めるとだんだん習慣になる。
 筋肉をつけすぎるのも問題だが、それでも
筋肉が増えてくると生命力がみなぎってくる。
 ハードなトレーニングをしてしてから十分な休息をとると、体が爆発するんじゃないかと思うくらい調子がよくなる。
 このように身体が回復することを、超回復という。

 そもそも筋肉を増加させるには、筋肉の破壊と修復を繰り返さなければならない。筋力トレをすることで筋繊維が破壊される。筋トレはそれを目的とする。そして、24~48時間くらいで破壊された部分が修復されていく。修復されることにより筋肉が太くなる。
 そのようにしてたくましい体格になる。
 ランニングや筋トレ後にアルコールを摂取する人がいるが、回復が遅くなるので飲まないほうがいい。
 ランニング後のビールは確かにうまい。しかし、ビールよりスポーツドリンクのほうがいい。

 体調が悪いと口癖のように言っている人がいる。すこし運動すべき。
 体調が良くなってくると、セクシーになる。人間は、よく動き免疫力の高い個体を性的に欲する遺伝子を持っている。「あの女に子供を産ませたい、あの男の子供が産みたい」と遺伝子が命令するのである。
 
 性的魅力をあげるためには、
運動とたんぱく質の摂取と十分な休息である。

 健康は人生を楽しく生きるための必要条件である。また、性的魅力も人生を楽しくする。
 そして、それには努力が必要だ。

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箱根の金時山

2009年11月21日 21時12分40秒 | 登山

 

 金時神社から登り始める。うわさによると金太郎がこの辺に住んでいたみたいだ。金太郎が相撲をとっていたらしい土俵もあるし、まさかりもある。

 

 

写真に指が入ってしまった。初歩的なミス。


 

 

 

 

 頂上から富士山が見える。なかなかきれいだ。だが、座っておにぎりを食べているとすごーく寒くなってくる。さっきまで汗だくだったのに、もうぶるぶるしている。

 

 
 

 

  

 

 山から帰る途中に、つけ麺で有名な「やすべえ」にいった。
 ついでに、近くを見て回る。
 靴に山の泥がついた状態で、赤坂のTBSの周りを散歩する。一日のうちですごい自然とすごい都会の両方を回っているとおかしな気分になる。もちろんどちらもきれいでどちらも好きだ。

 うーん、なかなか悪くない一日だったと思う。

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着払いで砂を送る

2009年11月15日 00時14分04秒 | 日々の出来事・雑記

 金曜日の昼に大竹まことのゴールデンラジオを聞いていたら、アシスタントの六車奈々という人が面白ことを言っていた。
 

 すごく明るい感じの女性で、人のことなんて全く恨まないような雰囲気なのに、個人的に「処刑リスト」というものをつくっているそうだ。

 まぁ特に何かするというわけでなく、そのリストに載っている人に「不幸が起こればいいのに」と念じるということだ。
 

 それから嫌がらせについて話をしていて、その中で一番笑えたのが、「着払いで砂を送る」というものだ。

 変な嫌がらせ。

 

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明るいニヒリズム 仏教とニーチェ

2009年11月13日 00時35分02秒 | 社会・政治・思想哲学

  小沢一郎が「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点仏教は非常に心の広い度量の大きい宗教だ」と語ったらしい。
 本当のことだが、問題のある発言だという人もいる。

 
 仏教を、キリスト教やイスラム教と同列に並べて論じることが正しいかどうか議論の余地がある。そもそも仏教は宗教なのかという疑問もある。お釈迦様は「信仰を捨てよ」ともいっている。そして、死後の世界については語っていない

 
 仏教の本質は「無常」である。
 
 世界は固定されたものはなく、瞬間、瞬間に変化していく。

 だから、死後に天国に行くのか地獄に行くのかなんて事は重要でなく、今、この瞬間に生きていることが重要だとするのである。
 
 「人生は、過酷で不条理だ」ということを否定しない。
 
 このような考え方は、虚無的といえば虚無的である。しかし、今の一瞬にかけるという人生観は、明るい虚無だといえる。
 
 人は必ず死ぬ。天国も地獄もない。神様もいない。では何のために生きているのか。

 それは、今この一瞬のためである。

 このような考え方は、宗教というより哲学に近いのではないかと思っている。

 そもそも、神がいない(そのことは考えない)というのだから、無神論である。

 ニーチェは能動的ニヒリズムを説いた。

 それは、すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方で、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度である。

 (仮象とは感覚的現象。対応すべき客観的実在性を欠いた、単なる主観的幻影)
 
 世界についてどのように考えるかについて、仏教とニーチェは共鳴する。
 

 

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奥多摩 御嶽山 ロックガーデン

2009年11月08日 21時54分06秒 | 登山

 土曜日に御嶽山付近のハイキングに行った。今年二回目だ。

 

 

 御岳山にある御嶽神社の参道には推定樹齢1000年の天然記念物「神代ケヤキ」がある。1000年前というと平安時代である。写真は逆光だから、うまく撮れていない。御嶽神社は紀元前90年に建てられたと伝えられる。古くから霊山として信仰された。

 

 

 かっこつけて景色を見ている友人を後ろから撮る。

 

 

 きれいな滝。名前は忘れた。

 

 

 御嶽渓谷。つり橋の上から撮った。本当にきれいな渓谷である。きれいなところを散歩したい人はお勧めである。

 

 

 渓谷沿いにあったイチョウの木。大きくて形がよかった。写っている人は全く知らない人で、邪魔だったがどけとはいえないので、仕方なく一緒に撮った次第である。

 なかなか楽しいハイキングだった。

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