フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

雲取山登山

2010年08月29日 09時20分23秒 | 登山

 雲取山は東京・埼玉・山梨の境界にある標高2017mの山である。
 東京最高峰の山である。日帰りでトライした。
 前回、雲取山の頂上近くで大雨に降られてしまって、途中で断念してしまったから今回は二回目のトライである。
 雲取山は、東京の最西端にあり、私は東京の最東端に住んでいるので、文字通り、東京の端から端を横断していることになる。

 雲取山は他の奥多摩の山に比べ、道がきれいに整備されていてとても広く、悠々とした気分で登れる。ただ、気持ちはいいが、安全すぎて物足りないと感じる人もいるかもしれない。

 

 
  

 

 東京の気温は32℃くらいあったが、山の気温は20度前後だった。
 もう涼しくなってきた。空気が前より乾燥していて、秋がもうそこに来ていることが感じられる。
 紅葉した葉っぱや栗も落ちていた。

 

  

 

 途中にだだっ広い場所があるが、ヘリポートとのことだ。遭難してもここから助けてもらえると思うと少しほっとする。

 

 

 

 雲行きが少し怪しくなってきて不安になる。前回の雲取山登山ではこんな感じの雲が発生してからすぐ雨になった。
 写真は秩父方面を撮ったものであるが、どうも秩父の方から流れてくる雨雲がこっちに雨を降らせるようだ。埼玉の熊谷付近に停滞している温かく湿った空気が秩父の山々にぶつかって山頂の方に流れてくる。そして山頂で空気が冷やされ、水滴が発生し雨が降るわけである。以前よりも、空気が乾燥気味なので、雨は大丈夫そうだ。

 


 

 

 朝早くから登り始めて、やっと頂上にたどり着いた。緩やかな坂道で特にきついところは無かったが、長い行程だったので疲れてしまった。
 頂上には立派な避難小屋がある。ここは避難小屋で宿泊施設ではありません的なことが書いてあるが、少し布団もあり十分泊まれる。 

 帰り支度をしていたら、人に話しかけられた。いろんな話をした。
 
 その中のトンボの話。
 
 雲取山にはもうかなりの数のトンボがいたが、そのほとんどが日本種の赤とんぼ(アキアカネ)ではなくウスバキトンボ(薄羽黄トンボ)とのことだ。
 このウスバキトンボは名の示すように羽が透明で胴が黄色である。見た目で、赤とんぼではないことがわかる。
 このウスバキトンボは渡りトンボだという。つまり、フィリピンから何万匹ものウスバキトンボが、
海を渡ってはるばる日本にやってくるんだそうだ。お盆の時期にたくさん見られるので「精霊トンボ」とも言われているらしい。だから殺してはいけないとの言い伝えがある地域もある。なかなかロマンティックである。
 
 雲取山では、この時期になると通常の年であればだいぶ涼しくなってきて赤とんぼが多く飛んでいる。しかし、今年は暑いので赤とんぼは標高の高い涼しいとことに逃げている。
 そのかわり山のふもとの暑いところにウスバキトンボがたくさんいると、その人は言っていた。
 たしかに山のふもとでは、胴の黄色いトンボばかり飛んでいた。
 
 暑すぎてお盆がすぎても先祖の霊が帰れず、まだ山のふもとでうろうろしているのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無意識と坐禅

2010年08月27日 08時58分11秒 | 身体・健康・筋トレ

 坐禅を組んでいるときは、部屋を薄暗くして静かにしているから、外部からの刺激は少なくなる。
 刺激が少ないから
妄想なんて浮かばないようだが、それは違う。頭の中は妄想だらけである。次から次へと浮かんでくる。私たちはその妄想からストーリー作り出し、感情を生み出してしまう。それが怒りの感情なら最悪である。
 この妄想の正体は、記憶である。記憶自体は脈絡はなく断片的である。ストーリーは私たちがつくる。
 記憶は、現実に今起っていることではなく、頭の中にある仮想的なものである。
 たとえば、むかつく人が頭に浮かんだとする。その人がどんなに頭の中でリアルに思い出されてもそれは幻想にすぎない。現実に存在しているそのむかつく人は、どこか別のところで生活している。
 だから、その妄想(記憶)がどんなにむかつくことを言ったとしても、現実のその人とは関係ない。
 しかし、私たちは現実には存在しない妄想によって、心を動かされてしまう。
 
 断食を行ったり、幻覚きのこやLSDと摂取すれば、妄想を超えて幻覚が生じてくる。
 身体感覚が遮断された脳の世界は、私たちにはコントロールしづらい無意識の世界が広がっている。
 このような断片的な無意識とうまく付き合うには、コツがある。
 無意識は身体を通して表層に現れる。だから、身体の微妙な変化に敏感であること、それが重要である。
 無意識が、自分ではコントロールできない自律神経を暴走させる。自律神経が失調する状態である。
 例えば、セックスを抑圧していたとする。そのセックスに関することが、心の奥に隠されて無意識になる。そして、本人もそのことを表面上は忘れる。
 しかし、セックスの話題が出た途端、心臓がバクバクし呼吸が乱れる。無意識が、自律神経に働きかけるのである。
 だから、その変化に敏感でなければならない。
 変化に気づいたら、呼吸を整える。呼吸は、自律神経に直接働きかけられる唯一の方法である。
 その体の変化に気づき、呼吸でコントロールする。それをうまくやるために坐禅がある。 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Her Morning Elegance / Oren Lavie

2010年08月26日 08時42分34秒 | 日々の出来事・雑記

Her Morning Elegance / Oren Lavie 

 アートだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火を熾す ジャック・ロンドン 

2010年08月25日 22時03分31秒 | 読書・書籍

 ジャック・ロンドンの短編集に出てくる物語には、どれもピリッとした緊張感がある。
 死んでいく情景を描くことで生へのあきらめや執着を、一時的な勝利を描くことでいつか不可避的に負けてしまうであろう人生の深遠を、負けることを描くことで自分が負かしてきた過去の人々の哀しみを、映し出す。
 
 その中の1つ、「生の掟」についてスポットと当ててみる。
 この短編は、インディアンの部族の長老が老いてしまい、一族の頭である息子に遺棄される話である。
 皆食べるものが無くて飢えている。ゆえに老人を養っていく余裕がない。そこで長老は置いてけぼりにされる。
 いわゆる日本でいう「姥捨て」である。 

 これを読んだとき、こういう死に方も悪くないなぁと思った。なぜか分からないが。
 
 そのシーンを少し抜粋してみる。

 

    「お父さまは、よいか?」と息子は訊いた。

そして老人は「よい」と答えた。

「横に薪がある」と年下の男はさらに言った。「火は明るく燃える。朝は灰色で、寒さがやってきた。じきに雪が降る。もう降り出している」

「ああ、いまも降っている」

「皆は急いでいる。荷は重く、腹は馳走を欠いてぺしゃんっこだ。道は長く、皆は先を急ぐ。俺ももう行く。よいか?」

「よい。わしは茎にかろうじてしがみついた去年の葉っぱのようなもの。息ほどの風が吹いたとたんに落ちてしまう。声は老いた女のようになった。目はもはや足の行く先を見せてくれず、足は重く、わしは疲れている。よい」
 
 満ち足りた思いで、頭を垂れた。雪がぐずる音がすっかり消えて、もはや息子は呼んでも届かぬところにいるとわかるまでそうしていた。それから片手が、あたふたと薪の方へ這っていった。自分と、ぱっくり口を開けて迫りくる永遠とのあいだに立つのは、いまやこの薪のみ。命は何束かの木切れで量られる。一束、一束と火にくべられ、そうやって一歩一歩死が近づいてくる。最後の一本がその熱を明け渡すとともに、無情な寒さが力を帯びはじめるだろう。まず足が降伏し、次は手。かじかみがじわじわ、足先手先から芯まで広がっていくだろう。頭が膝に倒れこみ、自分は眠りにつくだろう。簡単なこと。人はみないずれ死ぬ身だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミッドナイトコール 田口ランディ

2010年08月18日 22時00分12秒 | 読書・書籍

 ブックオフで田口ランディの本が目に入った。彼女の小説を今まで読んだことはなかった。オカルト的だといううわさを聞いていたので多少興味があった。そこで、ミッドナイトコールという短編小説を手にとって、先にあとがきを読んだ。そして、買った。

 あとがきを面白いので、
一部を抜粋してみる。


 むかしむかし、石文という風習があったのだ、と、友達のはまり君から聞いたことがあった。自分の気持ちにぴったりの石を探して、その石を手紙の代わりに相手に送るのだそうだ。

 男が女に、あるいは女が男に、気持ちを伝えるなんて、まるで石を手渡すようなものではないかと思う。想いは言葉などを超えている。その時に、あたしたちはどうするのか。自分の気持ちを伝えるために石を探す。
 でも、あたしが選んだ石を相手が感じてくれるかどうかわからない。
「なんだよ。こんな石、つまんねえ」
 そう思われるかもしれない。そしてまた、相手の選んだ石を、あたしが感じ取れるかどうかもわからない。精一杯の思いが込められた石を貰っても、
「なんじゃこの汚い石は」と思われるかもしれない。
 この世界のどこかには、同じ石を「素晴らしい」と思う、同じ感性をもった相手がいるかもしれない。でも出会えるかどうかなんて誰にもわからない。
 それでも、あたしは同じ石を感じあえる誰かを探している。


 このあとがきを読んで、この「石探し」をしている人々の話を読んでみようと思ったわけだ。
 多少思っていた内容と違っていた。かわいそうなというか痛いというか、たしかに感情をうまく伝えることのできない女性の話が、これでもかというくらい出てくる。正直言って、すこしつらくなった。私はすこし優しすぎるのかもしれない。
 と同時に、この小説に出てくるようなストレートな自己表現のできない人たちに接すると困ったものだとも思ってしまう。
 しかし、私もうまく気持ちを伝えられないときがある。それは、恋に落ちているときである。

 人をすごーく好きになってしまうと、自分で何を言っているのかわからなくなることがある。そのようにときは、たしかに、「想いが言葉を超えている」と思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川乗山

2010年08月16日 23時21分02秒 | 登山

 友人が今週末に長野と岐阜の境にある穂高岳(3190m)に登るということで、直前に軽いトレーニングとして奥多摩の川乗山(1363m)に登った。
 川乗山は緩やかで登りやすく直前のトレーニングとしては最適である、と思うが低山だからすごく暑かった。そしてきつかった。

 

  

 友人が撮ってくれた私の写真。



  
 
 (左・杉林 右・ブナ林) 
 杉がかなりの数倒れている。杉は常緑樹で一年中、葉が生えている。そのため、冬でも光合成をできるという利点がある反面、寒い冬でも葉に水分を送らなければならない。
 氷点下になる冬に、水分が通っていると、それが凍って膨張し、それによって木が破裂し倒れてしまう。特に今年のように雪がたくさん降った年には、多くの杉がばたばた倒れた。

 これに対し、ブナは秋になると葉を落とし、光合成をしなくなる。それ故、木に水分がなく凍っても膨張せず、折れない。だから雪の降る地方の山にはブナのような落葉樹が多い。

 

 


 右の写真はクワガタのメスである。左はトカゲの子供である。夏は虫や小動物が多い。

 

 

 Tシャツがびっしょり汗で濡れてしまって着替えている。 

 今日のような気温が高い暑い状態で山に登るのはきつい。しかし、だんだん涼しくなっている。
 夏がすぎていくというのは、なんとなくさみしいことだが、秋の山は本当に素晴らしいからそれはそれで楽しみである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖先崇拝と仏教

2010年08月12日 00時35分10秒 | 社会・政治・思想哲学

 日本人の宗教観のバックボーンは神道だとか仏教だとか言われるが、なんといっても祖先崇拝だと思う。田舎に帰ってつくづくそう感じた。
 田舎の法要では、浄土真宗の坊さんがお経を読んでいたが、そもそも、お釈迦様は死後の世界については、何も語らなかった。つまり、死後の世界や宇宙の果てみたいなわからないことについては語らないというのが仏教の姿勢である。このような考え方を「無記」という。
 仏教には「輪廻転生」という考え方があるじゃないかという人もいるかも知れない。しかし、「輪廻転生」は古代インドの考え方で仏教の思想ではない。心の安らぎを得るために、そのような説明がなされることもあるが、基本的に仏教の考え方ではない。
 仏教は祖先崇拝とはあまり関係のない宗教といえる。

 そもそも仏教は、宗教というより、煩悩を脱却して悟りを開く方法を説く「思想」である。
 お釈迦様が他の宗教の神と異なってすごいところは、普通の人も悟りを開きお釈迦様と同じようになれるといったところにある。

 しかし、日本の仏教界は、檀家との経済的つながりを重視しすぎる。あまり仏事に気をとられ、本当の意味での宗教的役割を果たしていない。
 宗教の役割は、煩悩から生じる不安や怒りを排し、人が安らかで幸せな人生を送るように導いていくことにある。
 仏事で形式的なお経を読めば、先祖の供養につながり、親族の気持ちが、多少、落ち着くかもしれない。しかし、それだけである。どう生きるべきかについては、何も示されない。
 結局、自分たちの稼ぎのためにやっていると悪口をいわれても反論できないだろう。
 無明(真理を理解できない状態)のため、苦しみにあえいでいる人は多い。このような人たちが救えず何が宗教だと思う。
 科学の力が強まり、宗教の力が弱まっている。また、そのせいで
、詐欺的なインチキ宗教が広まり、人々の間に宗教アレルギーが起こっている。それでいいという考えもありうる。
 私はもともと無神論的な仏教が好きだから。だが、仏教のいいところは広めて欲しいと思う。 
 その意味で、日本の仏教には頑張ってもらいたい。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤマアラシのジレンマ

2010年08月10日 00時40分36秒 | 社会・政治・思想哲学

 愛し合って一緒になったにも関わらず、憎しみあう夫婦がいる。だったら一緒にならなければいいのにと思うが、物事はそう単純ではない。今ある問題を解決しようとせずに、離婚して新しい人と結婚してもまた同じ問題が生じるだけである。精神的問題を抱えた同じ人間が同じ行動をするからだ。
 相手に依存度の強い人間は、幼児的であり傷つきやすい。傷つくから怒りっぽくなる。このような態度を依存的攻撃性という。相手に依存しているから、自分の今の感情が相手の態度に影響されてしまう。相手はいつも自分の思ったとおりの行動を取らないので、それについて不満が出てくる。不満が出てくるからつい怒ってしまう。この問題は、相手に心理的に依存していることにある。子供が母親に依存している状況が成人になっても続いていると考えればいい。

寒い冬に、とげがたくさん生えているヤマアラシのカップルが岩陰で横たわっていました。あんまり寒いので、二人で抱き合って温まろうとしました。しかし、相手のとげが刺さって固く抱き合うことができません。そうかといって離れると寒くて仕方がありません。そこで、ヤマアラシは、とげに刺さらずに、かつ寒くない程度に温まる距離を見つけるようにがんばりました。そのようにして二人はやっとのことで適度な距離を見つけることができました」

 
 まず、ヤマアラシは相手と近づくことで相手との一体感を求める。
 これは母子の関係に回帰することであり、幼児性の現れである。なぜなら、母子の関係はべったりしていて距離はなく、心地いい状態だからである。

 しかし、自分は既に赤ん坊ではなく、また相手も母親でもないから簡単に距離を近づくと、相手のとげによって自己愛が傷つけられることになる。また、人とくっついていると「自己の自立」の欲求も妨げられることになる。
 このように、相反する二つの欲求を求めてしまうことによって生じる矛盾を「ヤマアラシのジレンマ」という。
 
 大人になるということは、このような距離感を保って人と付き合えるようになることである。依存度の強い人間は、べたーっとくっつきたい欲求を優先してしまい、傷つき怒りっぽくなる。そして、いつも不満ばかり言っている。

 

 まずは自分がリラックスすることである。それから、相手を責め立てるとをやめて、リラックスさせることである。リラックスすることによって、とげが抜け落ちていく。そのようにしてから二人でゆっくり抱き合えばよい。
 どうすればリラックスするかってて?それは精神的に自立して大人になること。そして相手を包み込むだけの包容力を身につけることである。
 相手から愛情を貰うことではなく、愛情を与えること。それには精神的自立が必要である。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京に帰ってきた

2010年08月09日 09時00分33秒 | 日々の出来事・雑記

 実家の法要も無事終わった。
  久しぶりにあう多くの人たちのおかげで非常に楽しい時間を過ごさせてもらった。と同時に多くの人とたくさんの会話を交わすのは、かなりの気を使う。だからヘトヘトに疲れてしまった。特に何をしたわけではないのだが、今日は朝起きるのが大変だった。
 一人で過ごす生活が長いので、あのような濃くて親密な人間関係の中にいるのはつらい。
 皆、孤独死のような、人とのつながりが薄い都会の状況を問題にするが、田舎の濃くて親密な人間関係もけっこう疲れる。地方社会の隣近所、親戚などの濃い人間関係は、都会のようにあっさりした関係とは違うが、それなりの問題がある。
 例えば、うわさ話、陰口などネガティヴな会話だ。本人たちは悪気はあまりなく、どちらかというとそれが日常の一部になっていて、それが単に癖になっているのだろう。
そういえば、私がほとんど人の陰口を言わないのは、こんな感じが嫌だったkとを思い出した。

 あまり変化のない静かな日常生活に、その理由があるような気がする。つまり、変化がないからあまり面白い話のなく、その内容が貧相になる。そこで、話の潤滑油としてうわさ話がされるのだろう。面白いことはいえなくても人の話をすれば、それなりに会話が盛り上がるから。
 だけど、本人たちは悪気はなくても言われた人はいい気はしない。だから、そういうことはやめたほうがいいと思うが、なかなかやめられないのだろう。その状況で自己防衛しようとすれば、少しぐらい何か言われても気にしない図太い神経が必要となる。そういえば皆図太い。
 しかし、話するとみんな素朴で優しい人たちである。単に生活習慣の違いである。人間にはいろんな意味でガス抜きが必要で、これはその一つの表れだと思う。

 久しぶりに帰って楽しかったし、いろいろ勉強になった。帰省してよかったと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりに新潟に帰ってきた

2010年08月07日 01時00分52秒 | 日々の出来事・雑記

 法事があるから帰って来いと実家から連絡があった。
用事があるから、法事にはいけないよ」と私。
「だったら、おれの葬式にも来るな」と言い放ってガチャンと電話を切るおやじ。
 そこまで言われたら出席しないわけにはいかない。ということで夕方に新幹線に乗ってやって来た。

 

 

 

 何年ぶりかに帰ってきた。少しずついろんなことが変わっている。なんだか浦島太郎になったような気分だ。親はそれなりに歳をとっているし、子供たちはいつの間にかに大きくなっている。時は好むと好まざるとに関わらず静かに流れている。はっと思ったときに、失ってしまったものの大きさに気づくのだ。そのようにして人は歳を取っていく。私ももちろん例外ではない。
 とはいっても、やはり慣れ親しんだ土地に帰ってくれば、感傷的になる反面、いろんな意味で楽しい気分にもなる。

 

 少しだけ近くを散歩した。暗かったから細かいことはよく分からなかったが、あまり変わっていないようだ。田舎は東京のようにそれほど大きく変化はしない。子供の時に、駆けずり回っていた風景とあまり変わっていないと思う。
 夜道は街灯が少ない分だけ怖い。幽霊が出そうなくらい暗い。幽霊が出てこないかなぁと思いながら歩いていたけれど、結局、出てこなかった。そういう人のところには出てこないようだ。
 
 なんか明日早く私を起こして枝豆もぎをさせるようなことを言っていたから、早く寝なきゃ。では。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする