フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

銀座の寿司

2009年02月28日 22時46分19秒 | 日々の出来事・雑記

  今日、高田馬場に住んでいる先輩に、さいたまアリーナのクラプトンとジェフベックのジョイントコンサートの音源が手に入ったので聞きに来ないか、と言われた。
 喜んでいった。
 そうしたら、ちょうど彼の福岡の友人から電話があって、今日一緒にご飯食べないかとのことだった。
 悪いので帰ろうとしたら、一緒に来いよとのことだった。
 それで中華と寿司どっちがいいと訊かれたので、すかさず寿司と答えた。私がそんなことを答えていいのか分からなかったけれど。
 そしたらすかさず銀座のすし屋を予約くれた。
 彼は福岡の弁護士で、金を持っているから心配しなくても大丈夫、とのことだった。

 あんなにおいしい寿司を食べたのは生まれて初めてだった。
 シャリに少し色がついてて、何かと思ったが赤酢をまぜているとのことだった。
 一貫一貫は小さいが次から次へと出てくるから結構腹いっぱいになった。とてもうまかった。

 本当にご馳走様でした。

 

 

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文脈依存性(悪はシステムよって作られる)

2009年02月26日 23時27分27秒 | 社会・政治・思想哲学

 私たちが、自分自身の心の中を覗いてみれば、そこに善と悪が両方存在していることに気づくだろう。
 しかし、ある人は正しいことをして、ある人は悪いことをする。
 そこに、どのような違いがあるのだろうか。
 ただ、善人と悪人がいるだけなのだろうか。

 イスラエルの諜報機関モサドが、ユダヤ人を600万人ガス送りにしたといわれるアイヒマンを1965年に捕まえた。

 極悪人かと思いきや、ただの小心者の小役人にすぎなかった。

 そこで、悪は人格に帰属するのではなく、状況に帰属するのではないかという疑問が生まれた。
 悪が状況に帰属するとは、あるシステムの中で役割が与えられ、その文脈(ストーリー)に沿うような形で悪いことをしてしまうということである。
 悪は、個人の人格によるのか、システム上の文脈から生まれるのかが問題とされた。
 そこで、スタンフォード大学で実験が行われた。いわゆるスタンフォード監獄実験である。 

 その具体的内容は、普通の大学生に、刑務所内の、看守役と囚人役に分かれてもらい、それそれの役割を演じてもらうというものである。
 期間は2週間、刑務所は大学の地下実験室を改造し行われた。

 最初に囚人役の大学生に屈辱を与える。実際の実験では、本物の警察からパトカーで連行され、逮捕までされた。
 時間が経つに連れ、看守役は誰からも指示されることなく、囚人役に罰を与えるようになる。だんだんエスカレートし暴力的行為も行われるようになった。
 このように看守は権力を行使し看守らしく振る舞い、囚人役はより囚人らしい行動をとるようになった。
 つまり、悪は状況に帰属することが証明されたわけだ。

 これに近いことは、私たちの日常生活でもあると思う。
 例えば、だめ社員でも役職がついたらバリバリ仕事をやり始めたり、その逆もしかり。
 バイトを変えたりすると状況が変わるから演じるべき役割もかわる。
社長がマックでバイトしたら嫌でも下っ端を演じなくてはならない。

 システムが作り出す状況には、個人が抗うことにできないような力がある。
 流れが悪い方向に向かっていることが分かっていても、その文脈に対抗し正しい行為をすることは難しい。人は波風を立てないようにする。そのほうが楽だからだ。
 
 だが、その流れに逆らうことも、不可能ではない。
 
 はみ出し者になることを恐れてはいけない。
 
 多数派の作り上げた
ストーリーに身を任せないこと。
 
 自分の意志消さないこと。
 
 自分の中にあるヒロイズムに働きかけること。
 
 学校や職場のいじめの問題なども、強くて悪い意志をもった首謀者に付和雷同者が流されていく。
 
 ものを考えずに流されることは、罪だ。
 
 悪いシステムにとらわれてはだめだ。
自分自身で強力なストーリーを作りだし、システムの首謀者の仮想世界をぶち壊せ。

 文脈に依存してはいけない。 

 

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過剰な人 斉藤孝

2009年02月24日 22時25分23秒 | 読書・書籍

 ドストエフスキーの小説に興味はあるが難しそうでどうかな、と思っている人がいたら、手始めに、斉藤孝著 「過剰な人」を薦める。
 この本はドストエフスキーの作品の最高の解説書であるとともに、読みやすく非常に面白い。

 私はカラマーゾフの兄弟は2回くらい挫折して、3回目にやっと全部読み終わった。しかしその時もあまり面白いとは思わなかった。4回目でやっとその価値が分かった。
 ドストエフスキーのカラ兄はとにかくすごいと思う。
 世界最高レベルの傑作だ。

 
 ということで、「過剰な人」のまえがきを、ちょっと引用してみる。

<過剰な人>

 現代日本を二つのエネルギー問題が襲っている。一つは、言わずと知れた電力問題。もう一つは、人間のパワーの問題だ。全身からみなぎるエネルギーが年々減ってきている。そう感じるのは私だけではないだろう。

 私は勢い余った人が好きだ。つい一言余計なことを言い過ぎてしまう人。「ほどほど」という加減がわからずに、仕事をしすぎてしまう人。芥川龍之介の「地獄変」には、地獄の絵を描くために実際に車の中で娘が燃えているのを見たくなってしまう絵師が出てくる。これなどは典型的に「過剰な人」だ。誰もそこまでやれとは言っていないのにデーモンにとりつかれたように突っ走ってしまう。自分でも止めようのない勢いに身を任せてしまった人は、周囲に悲劇や喜劇を巻き起こす。周囲にとっては甚だ迷惑な存在になることが多い。
 しかしそうした「過剰な人」は、人生を生きるためのスパイスでもある。辛いものは癖になる。もっと強烈でコクのある辛味がほしくなる。人間にも似たようなところがある。癖の強い人の良さがわかりだすと、もっと見たくなってしまう。チーズでも、好きになってくるとブルーチーズのような臭みのあるものがおいしく感じられてくる。臭みさえも味わうことができる。これが文化というものだ。

 現代日本のエネルギー問題とは、実はまさにこの味わう文化の問題だ。人間のエネルギーは、一人で勝手に出てくるものではない。うまく受け止めてくれる相手がいることで次々に噴出してくる、そういう性質のものだ。

 ドストエフスキーの作品世界は、まさに過剰な人の博覧会だ。わたしは、大学のゼミで毎年ドストエフスキーを学生たちと読んでいる。すると、ゼミの中にもドストエフスキー的人物とでも呼びたい人間関係が浮かび上がってくる。つまりは、癖のある、過剰な人ということだ。そんなドストな人は存在感を放っている。場の空気の密度が濃くなり、祭りでもないのに、祝祭空間が生まれてくる。

 エネルギーのつぼが体の中にあるとすれば、それが開く瞬間は、人生の醍醐味だ。壷のふたが開くような濃密で過剰な空気を生み出すための呪文を、私はいくつか持っている。

 「癖の強い人を愛したい」

 「出会いのときを祝祭に」 

 

 

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ディッケンズの時代

2009年02月23日 23時24分30秒 | 日々の出来事・雑記

 資本主義のカウンターパートとしての共産主義がダメになってから資本主義がどんどん自己肥大していった。

 強欲資本主義に歯止めをかけるために、共産主義もそれなりの意味があったのは確かだ。
 

 最近、共産党員が増えているらしい。そして、小林多喜二の蟹工船が売れている。

 石原知事が共産党はカレーの福神漬程度の割合で十分だといった。

 私もそう思う。

 産業革命の真っ只中、19世紀はじめにマルクスはドイツで生まれた。彼はロンドンで資本論を書く。

 一方、同じ頃ディッケンズはイギリスで生まれる。

 マルクスは資本家の生み出す利益は、労働者の労働を搾取することで発生することを暴いた。

 ディッケンズは搾取される労働者だった。ディッケンズの小説はお涙頂戴で文学的価値が低いと思われている。

 しかし、私はそうは思わない。資本論と変わらない価値があると思っている。

 過酷な状況の中で人間がどう生き抜くべきかの啓示を与えてくれる。

 イギリスでは今だによく読まれている作家だ。

 ただ、ちょっと訳が古いので読みにくい。誰か新しく訳してほしい。

 

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続・猫ちゃん

2009年02月23日 01時53分05秒 | 日々の出来事・雑記

 昔、付き合ってた子が一人暮らしは寂しいというから、ペットショップで猫を買ってきた。

 ちっちゃくて可愛いシャム猫だった。

 最初はプルプル震えていて、蹴飛ばすと死にそうなくらい小さかった。

 部屋につれてきた初日はおねしょをした。

 俺があんまり猫をかわいがるものだから、彼女は猫に嫉妬するくらいだった。

 かわいくてかわいくて仕方がなかったので、頭を撫でる手におもわず力が入ってしまって、猫の頭がくねくねとして地面につきそうなくらいになってしまう。
 
 そうすると猫は俺の気持ちも知らずに、スタコラサッサとどこかに逃げてしまうのだった。

 猫が後ろ足で首筋を一生懸命掻いていると、その首筋に手をあてる。猫は掻いても掻いても痒さがとれないので狂ったように俺の手をまた掻く。
 しかし一向に痒さはとれない。
 俺はゲラゲラ笑う。

 夏場、暑そうにしていたから、はさみで猫の毛をジョキジョキ刈ってたら、猫なのに虎刈りになってしまったよと、あははと笑っていたら、彼女にめちゃくちゃ怒られた。

 猫は朝私が起きなければいけない時間をちゃんと知っていて、ぺろぺろと顔をなめて起こしてくれた。
 なかなか賢かった。

 彼女と別れるとき、猫と別れるほうが辛かったくらいだ。

 すごーく昔だからもう猫はもう死んでしまっただろう。
 
 いま、彼女が何をやっているのか知らない。
 だけど、彼女の愛情にあふれる丁寧な猫の育て方から推測するに、いいお母さんになってるんじゃないかな。
 そうだといいけど。

 時は静かに流れる。

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猫ちゃん

2009年02月22日 08時19分42秒 | 日々の出来事・雑記

 昔、学生の頃、千代田区三番町の東郷公園の近くのぼろいアパートに住んでいた。

 そこはラーメン屋のすぐ裏で、部屋から窓開けてラーメンくださいというと、すぐ手渡しでもってきてくれた。

 ひどいところだったが、そこだけは気に入っていた。

 あの辺はすごい都会なのにやたら猫がたくさんいた。誰かが東郷公園でえさをやっているのだ。

 私が窓をあけてラーメンを食ってると、かわいい猫ちゃんがニャァニャァと鳴いていた。まあ麺は食わないだろうから、あげるとすればチャーシューぐらいだ。

 当時はひどい貧乏だったから、チャーシューをあげるのはすごく勇気がいったがあんまりかわいいから、えいっと、あげた。

 猫ちゃんはすぐ走ってきてチャーシューに飛びついた、ように見えたが、匂いをかいだだけで食べようとしない。

 なんで食わないんだよ、腹が立った。

 後で近所の人が、教えてくれたのだが、この辺の猫はカリカリのえさしか食べないらしい。

 小さいときからカリカリのえさを与えられ、世の中の食べ物はすべてカリカリのだと思っているらしい。

 おい、猫。チャーシュー食わないって絶対おかしいぞ。本当に猫か?

 落ちたチャーシュー拾って食べようか一瞬迷ったよ。

 


 

 

 

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お茶とコーヒー

2009年02月19日 19時00分23秒 | 日々の出来事・雑記

 阿川佐和子がラジオでコーヒーを飲むとき黙って飲むが、お茶を飲むときは必ずアーと声を出すと言っていた。

 確かにお茶を飲むときは、ほっとしたような声を出す。

 多分、味の問題ではないと思うから気持ちの問題なんだと思う。

 その話を聞いていたときはただ笑っていたが、まじめに考えると結構奥が深いかもしれない。

 そういえば温泉に浸かるときも声が出るなぁ。

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判断の公平性・中立性

2009年02月19日 16時13分41秒 | 社会・政治・思想哲学

 いろんな人がいろんなことを言う。
 個人的な意見なら極端な発言も、まぁ、許される。だが、公的な立場にある人の発言には、中立・公平さが求められる。

 
 しかし、そもそも公平な発言というものはありうるのだろうか。

 例えば、TVのコメンテーターはいろいろなことを言うが、その発言は番組やスポンサーの意向に反しない範囲でなされる。
 番組側には誰を使うかの選択権がある。スポンサーがお金を出している以上、スポンサーの利益を侵害する発言はできない。とすると、その発言は性格な意味では、公平とは言えない。

 他にも例がある。
 今回のサブプライムローンの問題の格付け会社である。今回の金融危機は、格付け会社がサブプライムローンを公平に判断しなかったことから起こったともいえる。
 格付け会社も、公的な機関ではなく、営利で事業をおこなっている。だから、なかなか厳しい審査ができない。審査を厳しくすれば使ってもらえないからだ。
 そのような状況では、中立性は担保できない。
 
 もう忘れているかもしれないが、日本のもマンションの耐震性の審査も同じようなものだった。

 これらの問題は資本主義に内在する問題である。利害が絡む以上、判断の中立性は、保たれない。
 
 では、どうすればいいのか。
 それは、いろんな意見があることを前提として、受け取る私たちが、中立に判断することで、偏った判断を避ける。
 だから、一方的な情報だけでなく、多種多様な情報を仕入れるべきである。その中で自分の責任において判断する。
 その方法が、一番いいように思う。
 
  

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お笑いについての一考察

2009年02月16日 23時17分36秒 | 日々の出来事・雑記

 漫才にはボケとツッコミのポジションがある。

 最近ではみんな知っている。

 ボケは常識からずれたことをやり、ツッコミは常識人の立場からズレを指摘する。そのことでボケのアホさ確認、強調するのである。

 そこでの笑いは、アホに対する優越感(ただし悪意はない)である。

 これに対して、一定の緊張状態を破ることで笑いが起こることもある。

 たとえば、学校の朝礼で校長が「静かにしろ」と怒鳴った後、シーンと静まりかえったとする。そこで、ブーっとオナラを一発かますような場合である。

 英語ではこのような爆笑を起こすことをbreakという。緊張した空気をぶち破るということだ。

 この二つをうまく組み合わせたのがサンドウィッチマンではないかと思う。つまり、ヤクザ風の一人がある種の緊張感を醸し出す。そこでボケることによって緊張状態を破り、笑いを起こし、突っ込むことで、もう一回笑わせる。

 ただ確実に言えることは、お笑いをやっている一流の芸人は常識人だということだ。なぜなら常識がわからなければ的確なズレは(ボケ)はできないし、常識人の立場で突っ込むこともできない。

 非常識なだけの人間は、単なる変人で、まったくつまらない。

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残存者利益

2009年02月15日 18時29分30秒 | 社会・政治・思想哲学

 昨日のTVでリアカーをつくる会社が特集されたいた。

 高度成長期に軽自動車が席巻すると同時にリアカーが消え、それらを作る会社も消えていった。 

 去年の原油高騰をうけてリアカーが注目を受ける。
 ヤマト運輸はリアカーを使った配達をはじめる。しかし、リアカーを製造する会社がないのだ。
 唯一、昨日TVでやっていた会社のみが細々と作っていた。
 その会社の溶接の技術がすごかった。接合部分がどれだけ耐えられるかという実験で訓練校を卒業したばかりの人の場合、4,50キロで壊れたのに対し、その会社の若手(42歳だが)が溶接したものは2トンを耐え、かつ実験機が壊れてしまった。

 「がんばってやっていてよかった。」と社長は言う。
 周りに流されずこつこつやることは報われるという典型的な美談だ。
 確かにラッキーだったことは否定できない。
 しかし、本物だったから生き残り、復活したともいえる。
 周りがなんと言おうが、時代遅れになろうが本物は生き残る。


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