ドストエフスキーの小説に興味はあるが難しそうでどうかな、と思っている人がいたら、手始めに、斉藤孝著 「過剰な人」を薦める。
この本はドストエフスキーの作品の最高の解説書であるとともに、読みやすく非常に面白い。
私はカラマーゾフの兄弟は2回くらい挫折して、3回目にやっと全部読み終わった。しかしその時もあまり面白いとは思わなかった。4回目でやっとその価値が分かった。
ドストエフスキーのカラ兄はとにかくすごいと思う。
世界最高レベルの傑作だ。
ということで、「過剰な人」のまえがきを、ちょっと引用してみる。
<過剰な人>
現代日本を二つのエネルギー問題が襲っている。一つは、言わずと知れた電力問題。もう一つは、人間のパワーの問題だ。全身からみなぎるエネルギーが年々減ってきている。そう感じるのは私だけではないだろう。
私は勢い余った人が好きだ。つい一言余計なことを言い過ぎてしまう人。「ほどほど」という加減がわからずに、仕事をしすぎてしまう人。芥川龍之介の「地獄変」には、地獄の絵を描くために実際に車の中で娘が燃えているのを見たくなってしまう絵師が出てくる。これなどは典型的に「過剰な人」だ。誰もそこまでやれとは言っていないのにデーモンにとりつかれたように突っ走ってしまう。自分でも止めようのない勢いに身を任せてしまった人は、周囲に悲劇や喜劇を巻き起こす。周囲にとっては甚だ迷惑な存在になることが多い。
しかしそうした「過剰な人」は、人生を生きるためのスパイスでもある。辛いものは癖になる。もっと強烈でコクのある辛味がほしくなる。人間にも似たようなところがある。癖の強い人の良さがわかりだすと、もっと見たくなってしまう。チーズでも、好きになってくるとブルーチーズのような臭みのあるものがおいしく感じられてくる。臭みさえも味わうことができる。これが文化というものだ。
現代日本のエネルギー問題とは、実はまさにこの味わう文化の問題だ。人間のエネルギーは、一人で勝手に出てくるものではない。うまく受け止めてくれる相手がいることで次々に噴出してくる、そういう性質のものだ。
ドストエフスキーの作品世界は、まさに過剰な人の博覧会だ。わたしは、大学のゼミで毎年ドストエフスキーを学生たちと読んでいる。すると、ゼミの中にもドストエフスキー的人物とでも呼びたい人間関係が浮かび上がってくる。つまりは、癖のある、過剰な人ということだ。そんなドストな人は存在感を放っている。場の空気の密度が濃くなり、祭りでもないのに、祝祭空間が生まれてくる。
エネルギーのつぼが体の中にあるとすれば、それが開く瞬間は、人生の醍醐味だ。壷のふたが開くような濃密で過剰な空気を生み出すための呪文を、私はいくつか持っている。
「癖の強い人を愛したい」
「出会いのときを祝祭に」