フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

メキシコ人 ジャック・ロンドン 

2012年05月29日 23時34分46秒 | 読書・書籍

 ジャック・ロンドンの「火を熾す」を読んだ。この短編集が好きで、何回も読んでいる。
 今日は、その中の「メキシコ人」という短編について、書いてみようと思う。

 ボクシング小説だ。読むと体温が1℃上昇するような熱い小説である。弱ったときに読んでみるといい。魂が揺さぶられ勇気が出てくる。
 内容と主人公のキャラはまったく違うが、基本的な構成はロッキーと同じである。圧倒的人気を誇るボクサーに挑み、執念でそのボクサーに打ち勝つ。
 
 時代は、1910年頃のメキシコである。
 当時のメキシコでは革命が進行していた。
 メキシコ革命は、ポルフィリオ・ディアス政権を倒すことを目的としていた。ディアスは先住民から農地を力ずくで奪った。それ故、先住民は貧しい農業労働者の地位に甘んじなければならなかった。
 そこで先住民たちは、奪われた土地を取り戻そうとする。しかし、政府、大農園主、資本家たちによって弾圧される。 

 主人公は、18歳の若者、フェリべ・リベラ。貧しくて厳しい生活だったが、優しい両親の下で、幸せにくらしていた。
 リベラがまだ小さかった頃、工場勤務をしていた両親は、政府・資本家に虐殺される。それ以来、彼はディアス政権を倒すことに、命をかけることになる。
 彼は、ボクシングを好んでやっているわけではない。むしろ憎んでいる。しかし、彼には他に資金を稼ぐ方法がない。だから、革命組織の資金を調達するために、ボクシングやる。

 物語はこのように始まる。
 
 フェリペ・リベラと名乗り、革命のために働きたいと言った。ただそれだけだった。無駄な言葉はひとつもなく、それ以上の説明も無し。ただそこに立って待っていた。唇に笑みはなく、目には少しの愛想もなかった。威勢のいい大男パウリーノ・ベラでさえ、内心寒気を感じた。若者には何か近寄りがたい、恐ろしい、不可解なところがあった。黒い目には毒々しい、蛇を思わせるものがあった。目は冷たい炎のように燃え、とてつもない、凝縮された憎悪をたたえているように見えた。


 革命組織は、もう一歩のところで、武器購入の資金が尽きてしまう。武器が購入できなければ、革命を達成できない。
 そこで、リベラは武器購入の資金を調達するため、明らかに格上のボクサーと、命をかけて戦うことを決意する。

 彼の原動力は、圧倒的な怒りである。それは愛するものを理不尽に奪われたことによる怒りである。
 革命は、明らかに力の弱いものが力の強い支配者に対して、挑んでいくものである。まともな神経では達成できない。狂っていなければならない。
 有り余るエネルギーを爆発させ、自分の命でさえゴミのように捨てることのできる狂った若者だけが、革命を達成できる。
 そのクレイジーな熱さに、心が揺さぶられる。私の中にある戦闘本能を呼び起こす。
 この小説を読むと、私も狂ったように生を全うしたいなぁと思ってしまう。 

  

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zoo  乙一

2012年05月29日 07時49分58秒 | 読書・書籍

 「ZOO」を読了。


 乙一という作家のことはよく知らない。今まで日本の作家はあまり読まなかった。最近、いろんな作家の作品を読んでいる。当たり前だが、いろんな人がいて、よく選ばないと時間がいくらあっても足りない。


 ちょっと今まで読んだことのないタイプの短編小説。
 構成が技巧的で唸ってしまう。しかし、ちゃんと感情の起伏が生まれる。只者ではないうまさ。
 
 10編の短編小説が収録されている。当然、好きなもの、それほどでもないものがある。
 個人的には、「カザリとヨーコ」 「陽だまりの詩」が好きである。


 どれか1つあげるとすれば、「カザリとヨーコ」、児童虐待の話である。
 もし、親が子供を虐待しているとすれば、その子の世界は想像を絶するほど厳しいものになるだろう。小さい時は親との関係がほとんどだからである。
 しかし、その中で誰でもいいからその子供に温かさを示す人がいれば、その子の人生は大きく変る。人間は、ひどさも覚えているが(いつか弱まる)、温かさはもっと強烈に記憶するからである。人から受けた温かさの記憶があれば、人間はそれだけで力強く生きていける。経験的に。
 そういうことがうまく表現されている短編である。


 短いしどれもそれぞれに変わっているので飽きないと思う。それにしても才能のある小説家だ。
 

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貧乏な貴族、金持ちの奴隷

2012年05月28日 08時35分24秒 | 社会・政治・思想哲学

 芸人の河本準一の母親の生活保護受給に関することが話題になっている。
 たくさん稼いでいるのに、親の扶養をしないというズルさが、国民の感情を逆なでする。
 日本の財政に与える影響はどの程度かは別として、ムカつく問題であることにはかわりはない。

 この生保の問題はちょっと複雑で、生活保護を受けたほうがいい人が受けていないケースと、受ける必要がないのに受けているケースを分けて考えなければならない。
 しかし、河本氏が叩かれるのを見て、本当は受けたほうがいい人が受給をやめるかもしれない。逆に、あんな裕福な状態で受けているのだから、私もと考える人もいるかもしれない。
 だから、生保受給の審査という点では、両者は分けて考えられない問題なのである。 
 行政側からすれば、審査を厳しくすればかわいそうだと叩かれ、審査を緩めれば不正受給の問題で叩かれることになる。厄介な問題である。
 私は、すぐには無理かもしれないが、いずれ年金、失業保険、生活保護などすべて一元化して、ベーシックインカムを導入したらどうかと思っている。 
 これから製造業のみならずサービス業の分野でも、どんどん機械化が進んでいく。そうすれば人手が要らなくなり、雇用が減ることは目に見えている。
 それを悪いことと考える向きがあるが、よく考えればいいことなのである。
 なぜなら、働かなくても機械がなんでもやってくれるわけだから。
 
 しかし、そうすると働かない人は収入を得る方法がなくなってくる。
 今、生活保護が増えていることも、不景気なのか科学の発達ゆえの現象なのかよく見極めなければならない。
 もし、機械化の影響なら、仕事が無く収入の道が絶たれたのは、その人たちの能力のせいではない。 
 そうであれば何らかの手当をすること自体、別に問題ないだろう。
 そこに審査という手続きがあるから、変な問題になるのだ。すべての国民に一律いくらかの金額を払い、最低限の生活を保障しようというのが、ベーシックインカムの発想である。
 
 働きたい人はどんどん稼いでもらって金持ちになればいい。働きたく人は、死なない程度の保障をして、貧乏に生活すればいい。
 「貧乏な貴族、金持ちの奴隷」とは、このことである。

 技術の進歩が進めば進むほど、雇用の問題が顕在化してくる。
 資本はやすい労働力を求めて世界中を駆け巡る。しかし、それが機械より安い場合である。機械でやるコストが安くなれば、必ず機械化される。そうすれば人間の労働力は不要となるのである。
 そうなってから、世界中がベーシックインカムに注目ことになるだろう。 

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灰色の北壁 真保裕一

2012年05月28日 07時27分12秒 | 読書・書籍

 真保裕一氏の山岳短編小説である。この小説を読むのは二回目。
 3話ある。「黒部の羆」 「灰色の北壁」 「雪の慰霊碑」 である。
 それぞれに味わいのある内容で、レベルが高い。
 個人的には「黒部の羆」が好きである。

 「黒部の羆」はプロットが巧妙に作られていて、えっ、と思わず声を出してしまうような構成がなされている。そのようなあっと驚く内容が好きな人は、特に面白く感じるだろう。
 ただ、私が好きなのはその部分ではない。私が好きなのは、男っぽく熱い部分だ。
 まったく内容は違うが、この小説は真保氏のホワイトアウトに通じるものがある。人間の強さと弱さの陰影がうまく表現されている。
 弱さとは自己愛を満たそうとする人間のずるい部分であり、強さとは自分の命すら顧みない勇気と自己犠牲の精神である。
 私たちの遺伝子には、その両方がインプットされている。人間の弱さを描くことで物語のリアリティを、強さを描くことで人間の素晴らしさを表現する。
 「黒部の羆」を読むと、いつも胸が熱くなってほろっとしてしまう。

 「灰色の北壁」は、ヒマラヤ山脈のスール・ベーラの北壁に挑む登山家を描いている。
 命をかけて危険に挑む人間の勇気とそれに伴う名声、そしてその名声に対するあこがれと嫉妬。そのような自然と人間、また人間同士の葛藤がうまく描かれている。
 しかし、最後は、熱い友情に満たされる。

 「雪の慰霊碑」は、雪山で息子をなくした父の追悼の物語である。
 息子を山でなくし、妻も病気で先立たれ、孤独な男が息子が遭難した山に登る。
 生きること、愛する人を失った喪失感について、考えさせられてしまう。

 真保氏は、人間の強さ弱さをよく知っている。そして、その上で人間を肯定する熱い小説家である。いずれ他の小説も読んでみたい。

 
 

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笠取山

2012年05月26日 21時39分39秒 | 登山

 ゴールデンウィークの奥秩父縦走のときに、笠取山を通ったが、満足に景色が見れなかったので、笠取山だけ登りに行った。


 

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奥多摩方面から国道411号を通って、作場平まで向かう。途中、トイレに立ち寄った留浦(とずら)からの、奥多摩湖の写真。


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 国道411号、落合橋を右に、林道に入る。一箇所、二股に別れるところがある。右に折れ、後はまっすぐ。ちょっと心配になるが、特に迷うところはない。
 写真は、作場平の駐車場。広い。しかし、ここがいっぱいになるくらい車がくる。
 人気の山だ。

 

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 作場平登山口。
 正直言って、ちょろい山。初心者向け。だが、油断しないで注意して登る。


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 登り始めて二時間くらいで、笠取小屋に到着。
 
 想像以上に、綺麗な山小屋。トイレはバイオトイレで臭くない。
 いつか泊まりたくなる小屋。
 主人も気さくな人だった。

 

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 笠取小屋からちょっと登ると、分水嶺がある。

 
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 この場所を境に、水の流れが決まるらしい。


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 山桜。今咲いている。

 

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 焼畑を原因とした山火事で、この辺の樹々が無くなって禿山になってしまったらしい。
 その後、唐松を植林した。
 
 それでも樹はすくなく見晴らしが良い。

 

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 これから登る笠取山。
 このように登る過程が見渡せる山は珍しい。だいたいここから20分くらいで登れる。

 


私が撮影した頂上からの動画。

 

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 頂上に咲いていたシャクナゲ。まだ、つぼみ。
 今回は、十文字峠のシャクナゲを見に行こうか迷っていたが、行かなくてよかった。まだシャクナゲは早い。

 

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 東側山頂。展望はない。こっちから回りこんで、今回のもう一つの目的地である水干に向かう。
 
 水干は、多摩川の源頭である。つまり、川のはじまりの地点である。その一滴から多摩川が始まる。

 

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 この動画で撮った一滴が始まりとなって、大きな川の流れをつくる。
 
 なんでも最初は小さいがコツコツやれば、大きな流れを作り出すことができる。
 
 という、いい話でブログを〆ようかな。

 

 

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春を背負って 笹本稜平

2012年05月25日 20時51分42秒 | 読書・書籍

 「春を背負って」を読了。


 山岳小説である。
 日本の山岳小説というと、北アルプスものが多いのだけど、珍しく奥秩父を舞台にしている。
 甲武信岳と国師岳の中間くらいにある実際にはない架空の山小屋での物語である。
 話はすべてつながっているのだが、一応、短編小説の形式になっている。時間がなくても、区切りがつけやすく読みやすい。
 正直言って、それほど期待していなかったが、ハートウォーミングな話が多く、気持よく読書できた。
 
 小説による自然の描写は、表現方法として、写真や映像にはかなわない。だから、山岳小説は、人間が自然とどのように対峙するのかを通して自然を描写することになる。
 つまり、命が奪われるようなギリギリの厳しさを、人間の側から描写することで、自然を表現するわけである。
 そうなると、できるだけ厳しい山が小説の舞台としてふさわしいことになるのだろう。日本では北アルプス、海外ではヒマラヤなどが、その典型だ。
 このように、山岳小説は過酷な山々を征服するということが大きなテーマとなる。そこでは、人間の勇気や体力的限界が試され、経験できないような緊迫した状況を小説の中で楽しめる。
 しかし、おきまりなワンパターンな感じは否めない。

 
 この小説は、そのような典型的な山岳小説とは一線を画している。
 地味な奥秩父を舞台とし、人間と対峙する自然の厳しさを表現するというより、人間と人間のふれあいを中心に小説が構成されている。
 人間(擬似的なものも含む)なくして、小説はない。人間の使う「言葉」を媒介に表現するのが小説だからだ。自然だけを映しだして美しいのは映像の世界である。
 小説は、人間の心の内部との関わりの中で、表現されなければならない。自然描写もこころとの関わりで表現される。とするなら、別にヒマラヤでなくても、十分に面白い小説は書けるはずである。
 そういう意味でも、いい勉強になった。
 
 私は奥多摩や奥秩父をホームグランドにして、登山しているので、特に楽しく本が読めた。その辺の登山が好きな人には、お勧め。
 また、温かい小説を読みたい人にもお薦めする。
 

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夜の葛西臨海公園ウォーキング 筋肉とエロさ

2012年05月25日 08時40分44秒 | 身体・健康・筋トレ

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 夜のウォーキング。涼しくて気持ちがいい。

 葛西水族館から逃げたペンギンが捕獲された。もう水族館に帰ってきたのだろうか。

 ウォーキングは気持ちいいし健康的である。
 ただ、スタイルと良くしようとするなら、それだけでは足りない。スタイルの良さの秘密は、痩せていることではなく、筋肉のついた体つきである。
 程よい筋肉が均整のとれた姿勢と美しいラインをつくる。
 「筋肉が重要だ」と、女性にいうと、だいたい「ヤダ」という。多分、ムキムキマッチョなボディービルダーを想像してしまうのだろう。
 だが、女性は、つけたくてもそんなに筋肉はつかない。だから、心配は要らない。
 程よい筋肉は女性の体を、エロくていやらしい魅力のある体にする。というか、男は筋肉があって免疫力の高い個体に子供を産ませたい思うのだ。
 エロさの本質は、男の本能を刺激することである。
 
 しかし、ウォーキングだけでは、まったくとは言わないが、十分なだけの筋肉はつかない。
 たしかに、ウォーキングは、心肺機能(酸素を送るシステム。だから血管や血液の状態も含む)を良くする。心肺機能が改善されれば、疲れにくい体になり、また有酸素運動になるが故、痩せやすい体になる。
 だが、それだけである。
 美しい体のラインを作りたいと思ったら、スクワットをやるべきである。
 正しいスクワットの動画があった。アップする。


 

 


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半島を出よ 村上龍

2012年05月24日 08時42分53秒 | 読書・書籍

 村上龍の「半島を出よ」を読了。


 北朝鮮の特殊部隊の9人の兵士が、福岡を制圧する物語である。荒唐無稽の感じがするが、読み進めると現実に起こりそうなくらいリアリティがある。
 この本は、2005年に刊行されている。しかし、村上氏は去年の原発事故の政府の対応をまるで予見するかのようである。その対応が、余りにもそっくりでびっくりしてしまう。私たち日本人は危機に向き合い、判断し、決定することができない民族なのかもしれない。

 現在の日本人は、今までの人類が経験したことのないような無暴力の世界に生きている。
 それ自体、素晴らしいことで何の問題もない。出来れば世界中、日本のように安全で平和な国になってもらいたい。
 しかし、現実はそうなってはいない。いまだに暴力の力で世界は均衡を保っている。もちろん、日本も見えないだけで、その均衡のなかにいる。
 平和ボケした私たちの目の前に、その暴力が現れたとき、ただ何もできず呆然としてしまう。
 物語の中で、兵士に息子が手拳で目を突き刺される場面が出てくる。その父親は声も出さずにその場で固まり、何もできないまま殺されてしまう。
 圧倒的な暴力に対して戦うという選択肢すら、思い浮かばないのである。
 その父親は、現在の日本である。子供を命をかけて守るという身体の反応ができていない。むしろ母親のほうが、そうするだろう。

 この物語は、誤解を恐れずに言えば、ヒーローものである。ただ、このヒーローたちにあまり感情移入できにくい構造になっている。
 それは、福岡を助けるヒーローが、多数派から疎んじられてきたアウトロー、マイノリティーのガキどもだからだ。
 このガキどもは、子供の頃から圧倒的な暴力の下で生活させられてきた。それ故、暴力というものを本能的に知っている。
 この社会非適応者たちが、社会を救うという皮肉な結果になっている。したがって、ハリウッド映画のようなカタルシスはない。しかし、リアルである。


 私にとってあまり興味のないどうでもいい箇所も手を抜かず詳細に書かれているから、多少、冗長に感じるところもある。
 しかし、多数派に流されず自分自身の頭で考えること、暴力の対峙したとき私たちはどうすればいいのかを、擬似的に体験できる。
 名作である。しかし、この本はすべての人におすすめしない。
 

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駄馬を見分けるスキル 名伯楽の秘密

2012年05月23日 08時37分57秒 | 社会・政治・思想哲学

 昨日、紹介した「僕は君たちに武器を配りたい」のなかに、面白い話があったので、紹介しよう。


 紀元前1500年ごろの中国に、馬を見分ける名人「伯楽」という人がいた。


 今でも人を見る目を持った人のことを「名伯楽」と呼ぶ。


 彼は一日に百里を走る馬をたちどころに見分けられたという。


 その評判を聞いた人々が、自分も馬の見分け方を知りたいとやってきて、伯楽に教えを乞うことがよくあった。


 その時に伯楽は、自分の嫌いな客と好きな客で、教えることを分けていた。


 嫌いな客には名馬の見分け方を教え、好きな客には駄馬を見分ける方法を教えていたという。


 私はここのところを読んで、少し止まってしまった。


 「なんで?」と


 理由はこうである。
 
 世の中にめったに名馬はいない。それより駄馬のほうが多い。だから、めったに存在しない名馬の見分け方より、駄馬の見分け方のほうが役に立つのである。


 本当の駄馬だけをふるい落とし、そこそこの馬をうまく使いこなしたほうが、実際的なのである。

 これは会社経営をしようとしている人間にも、当てはまる。本当に優秀な人は少ない。そして、本当に優秀なら自分で起業してしまうだろう。
 だから、本当にダメな人間をふるい落とし、そこそこの人間をうまく使いこなしたほうがうまくいく。
 
 この話を読みながら、野村監督のことを思い出してしまった。要するに、人の使い方なのである。

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桜新町の波平さん

2012年05月23日 08時00分00秒 | 日々の出来事・雑記

 桜新町にある波平さん銅像の髪の毛が切られたとのニュースがあった。
 今年、世田谷の砧公園に桜を見に行ったとき、最寄りの桜新町の駅を使った。けっこう活気のある通りで、そこにサザエさん一家の銅像があった。
 その中でも、一番興味深かったのは、やはり波平さんの髪の毛である。どういう作りをしているのかわからないが、少し柔らかくて、髪の毛っぽく作ってあった。しかし、簡単に切れるほど、弱い作りではない。だから、意図的にペンチか何かで切ったのだろうか(ニュースによると、抜いたらしい)。
 日本の幸福の象徴のようなものを壊してしまうのだから、よっぽどひねくれた不幸な奴なのだろう。器物損壊罪で捕まえてしまえばいい。

 ただ、この事件によって、サザエさん一家の銅像が桜新町にあることが日本中に広まった。そこの商店街にとっては、その事件が不幸中の幸いになったのかもしれない。

  

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