日本の太陽神は、天照大神で女である。弟が月読命で、末っ子がヤマタノオロチと戦ったあの有名な須佐之男命である。
ギリシャ神話は、太陽神は男で、月神は女である。世界の神話を読み解くと、太陽神は男で月神は女が大多数である。
大陽はエネルギーの源であり、世界の中心をなすものと解釈すれば、男が太陽神であれば、その民族は父性原理で動いていると推測できる。日本は女が太陽神であるから母性原理で動いている。これは民族的無意識が女性中心であることを意味している。
ただ日本は、表面上は、儒教の影響で男尊女卑・家長父制などが今でも残っているため女性の地位が低く見える。
このねじれ状態が、いろんな問題を生んでいる。
家族がいるなら、まずは奥さんを大事にすることだ。そこからすべてが始まる。日本人の無意識的心性からすれば、女性は大陽である。お金があろうがなかろうが、エネルギーを与えてくれる太陽を大切にすれば必ず幸福が舞い込んでくる。そこに強固な関係性をつくってしまえば、社会から疎外されることはない。
森鴎外の作品に「安井夫人」という短編小説がある。
飾りっ気のないシンプルな小説であるが、いろいろな読み方ができる。リンク先にアクセスすれば、小説が読める時間があったら読んでみて欲しい。短いのですぐ読み終わる。
読む気のない人のためにあらすじを簡単に説明すると、安井仲平という30歳の醜男のところに、16歳の佐代という美しい女性が嫁にいって生涯を終えるという話である。特に事件らしいことも起こらない。事件といえば、佐代が仲平のところに嫁に行きたいと自分から言ったところくらいだろうか。
この淡々とした小説を読むと、人とって幸せとは一体何なのか考えさせられて今う。佐代も自分の人生の意味を分からなかったに違いない。
金持ちとはお金のことを心配しなくてもいい人のことだ定義すれば、幸せな人とは、幸せについて考えなくてもいい人といえるのではないか。この小説を読み終わったあとのすがすがしい読了感はそういうことなのかもしれない。
人は思っているより自由に選択できる事柄は限られている。私自身、親も、性も、生まれた場所も、容姿も何一つ決定していない。私たちは好きと嫌いとに関わらず与えられた条件の中で一生懸命生き抜くしかない。与えられた条件に文句を言っても仕方がない。自分に与えられた条件、そしてこれから人生に起こることすべてを受け入れる心が、人生肯定への道である。
そうすれば、少なくとも幸せとは何かを考えなくても生きていける。
レヴィ・ストロースは「神話は無意識のおこなう思考である」という。レヴィ・ストロースの神話の解釈は分かりづらく、必ずしも納得のいくものではない。しかし、神話が無意識と関係していることは否定できないだろう。
今日、神話について話をしていたら、神話は非科学的な昔の人の作り話だみたいなことをいわれたが、たしかに、普通に考えたらそうだろうなぁと思う。神話は話のつながりがなく荒唐無稽な展開が多いからである。意味がさっぱり分からない場合もある。合理的で科学的な思考に慣れている人間ほど、そのような不合理な物語を馬鹿にしがちである。しかし、合理的で科学的な思考が優れていると思っている現代人ほど、自分に大きな死角があることに気づいていない。
フロイトが分裂症の患者の観察を通して無意識を発見した。それゆえ、今となっては、人間の心というものが、意識の支配する論理的な原理で動くと思っている人はほとんどいないのではないかと思う。無意識は、夢や言い間違いといった形で意識に働きかける。すこし注意深く観察すれば、抑圧された無意識がいろんなところで現れている。本人はそれに気づいていないが。
神話は、社会によって抑圧される以前の、生の無意識状態を表している。そこから学ぶべき点は多い。人間が幸福を感じる心的状態はどのようなものかを神話から取り出すことができる。
世界には様々な国があり、犯罪が少ない国もありまた多い国もある。
ワールドカップの主催国・南アフリカの治安の悪さが連日のように報道されている。貧しい国は犯罪率が多いと考えられているが、必ずしもそうとは限らない。昔の日本は貧しかったが犯罪率が低かった。国民が犯罪が起こさないようにするためにはどのようにすればいいのか。
単に警察を増やせば解決するのだろうか。
結論から言うと、国民の心の内部に監視者を埋め込むことである。
イギリスの功利主義哲学者ベンサムはパノプティコンという監獄を発明した。
パノプティコンは円形に配置した建物に中心に監視塔を建て、この監視塔からすべての部屋が監視できるようにした監獄である。
収容者たちはお互いの姿を見ることができず、また看守すら見ることができない。このため監視塔に看守がいなくても、監視可能性は消えることはない。
この監獄の画期的な点は、現実に看守がいなくても、収容者は常に見られていると感じ、心の内部に監視者を埋め込むことができるということである。
為政者は、国民に「心の内部の監視者」を埋め込むことで、国の安定を図ろうとする。
日本人は、世間という監視者が、私たちを監視している。だから、犯罪は少ない。逆にいうと、見ていないところでの犯罪行為が目立つ。
キリスト教は、常に神が見ていると考えるから、巧妙に監視者が心に組み込まれているといえる。
今日、朝のニュースを見ていたら、AKB48の総選挙があったとのことだ。うわさには聞いていたが、すごい盛り上がりだ。
女の子がたくさん集まると独特な空気が生まれる。一人一人では男を強烈に惹きつけるだけの魅力がなくてもたくさん集まっていると勢いがある。
だから、女の子を集めてアイドルグループをつくるという戦略に大きなはずれがないのだろう。
女性と会話するとき注意深く気をつけていることがある。それは「女性の前で他の女性を誉めるな」ということだ。
人の陰口は言わないことは最低限のマナーだが、、他人を誉めるということも時として毒になりうる。
このAKB48の選挙は公開されたファンの好きだというメッセージである。アイドルの存在価値はいかにファンから愛されているかにある。彼女らにとって、自分でなく他人にたくさんの投票が集まるということは、我慢のできないことだろう。それは容易に想像できる。
しかし、テレビのブラウン管を通して、いろんな会話の中から他の子に嫉妬していればすぐ分かる。
他人に嫉妬すればするほどファンは逃げていく。アイドルは他人に嫉妬しない強靭な精神の持ち主だけが輝きを放ち、そして生き延びていける。
順位など気にせず自分の持つ魅力を最大限に発揮することが、に集中することだ。そうすれば、不思議と順位が上がってくるだろう。
美という相対的評価に常にさらされている女性が、真の強者になるためには、このシステムはなかなか優れているのではないかと思っている。
嫉妬は負けた人間が勝者に抱く感情である。嫉妬しない限り、他人がどのように評価しようと、少なくとも主観的には負けていない。負けていないから、素直な表情、素直な言葉、そのままの自分を表現できる。
女性にとって美は、男を操ることのできる強力な権力である。
人間としての魅力は美だけではない。揺るぎない自己表現も十分に人を惹きつける。
水木しげる氏は、漫画家であると同時に妖怪研究家である。
妖怪はスピリッツ(精霊)の一種である。不思議なことにというべきか当然というべきか分からないが、精霊は世界中どこでも存在する。そして精霊は現実世界と異界の狭間で現れることも、世界共通である。
特に日本のような科学の高度に発達した先進国では、そのような精霊はないものとして生活している。実際私も見たことがない。
ただ、子供の頃、お盆で、先祖の霊を受け入れるための準備をして夜を待っていると、見えないものの霊の存在をたしかに感じられた。これは、理屈では説明がつかないが、皆感じていることではないかと思う。
人間の心もしくは脳は、構造的に霊を感じるようにできている。本当にいるかは別として。
人間は、死者(超越者)との会話を求めるように働く。
水木氏は戦争に行って多くの仲間を失っている。また、自身は戦地ニューギニアでマラリアにかかって現地の人たちに助けられている。彼はマンガが全く売れず貧乏になっても気にしないで、描き続けている。まるで描くという行為によって誰かにメッセージを送っているかのようにだ。
人は、生死を共にすると強烈な連帯感が生まれる。
生き残ってしまった者から、死んでしまった者のへのメッセージ。
精霊は、人が異界の入り口に立ったとき現れる。そのような入り口に立つために彼は、マンガを描いているのかもしれない。
ここにいない他者とコミュニケーションをとる能力は人間だけでなく、動物にもある。
例えば、マーキングである。犬などはある場所についた匂いによって様々な情報を得る。
人間はその能力をより高度に発達させることにより、いろんなものを生み出してきた。
言葉はその中でも最も重要なものである。
言葉=文字によって空間や時間を越え、会ったこともない人の考えを簡単に受け取ることができる。
そして、それをもっと進めて、人間は今はもう存在していない他者、つまり「死者」とすらコミュニケーションをとってしまう。例えば、遺言などもそうだ。
死んだ人間を思い出して、泣いてしまうこともある。
これもある種のコミュニケーションである。
人間は死んだら土に還るだけだ。
しかし、死者ともコミュニケーションをとってしまうのが、人間の大きな特徴である。
習慣的に運動をしているが、ジョギングとウォーキングでは使う筋肉が違う。だから、別のメニューとしてウォーキングをやることもある。
長距離歩くと意外と疲れる。ウォーキングも簡単ではない。人によってそのフォームもさまざまである。
どのような歩き方が疲れない歩き方なのだろうか。
腕を振らず、また体をひねらない日本古来の歩き方「なんば歩き」ならかなり長時間疲れず歩けるらしい。
甲野さんは古武術の使い手だが、なんば歩きについての解説をしている。
ナンバ歩き-甲野善紀-
ゲゲゲの女房が面白いとのうわさを聞いたので、見始めたら結構ハマっている。
今までほとんどNHKの朝ドラを見たことはないからよくわからないが、このようなシンプルなお涙頂戴的な物語はおもったより面白い。
このドラマを観てたまに目頭が熱くなることがある。センチメンタルなストーリーを低俗だといってバカにする人がいるが、私はそうは思わない。泣き笑いこそが人生だと思う。
水木しげるは卓越した芸術家だと思うが、ドラマを見る限り彼一人ではあのマンガを描けなかっただろう。奥さんの支えは見えない形で芸術作品の一部となっている。だんなの功績は女房の功績でもあるんだなぁと感じた。