天祖山は、ミズナラの原生林があり紅葉がきれいなのかなぁと思って行ったのだが、ほとんど散っていてもう冬のようだった。たまにあるモミジも黒い点々がところどころにあり、あまり綺麗ではなかった。今年の紅葉は理由はよくわからないがイマイチ。去年がすごく綺麗だっただけに残念。
雲取山から下ったところにある唐松。日本にある唯一の落葉針葉樹。唐松が枯れていく姿はなかなかいい。何より唐松のとんがった葉が落ちて、道に敷き詰められていると歩きやすい。
雲海。空気の状態が安定していると雲海ができる。
山はだんだん寒くなってきている。厳しい冬がもうそこまでやってきている。夜、テントを張って寝ていると、近くまでいろんな動物がやってくる。鹿のオスは縄張りがあるので、変なものがあると見に来るのだろう。本当にすぐ近くまでやって来る。鹿の息遣いが聞こえる。ライトをつけるとびっくりしてピーピー鳴く。ピーピー鳴くのは危険を仲間に知らせる合図だ。
それから、たまーに遠くから人の叫び声に似た鳴き声が聞こえることがある。なんの動物かよく分からなかったが、you tube で熊の鳴き声で検索して聞いてみたところ、そっくりだったのであれは熊だと確信した。まだ熊を見たことはないが、近くにいるのは分かった。
皆、熊を異常に怖がるが、私はそれほど怖くない。もちろん至近距離でばったり遭遇してしまえばかなり危険だとは思うが、そういうことはめったにない。遠くで眺めていれば向こうの方が逃げていく。熊は臆病なのだ。
それよりサルの方が危険だと思っている。もし彼らが人間の食べ物を食べたことがあり、美味い食べ物を持っているのを知っていたら、必ず襲ってくる。今回も天祖山で猿の集団に遭遇した。ちょうど登山道を横切るところで、私の周りを囲むような感じになってしまったから、スティックで威嚇しなければならない状態だった。スティックを振り回したら、蜘蛛の子を散らすように逃げた。猿も人間がビビっているのかやる気満々なのか分かるのだろう。近くに来たら殺すぞというオーラが出ていたに違いない(戦闘状態の私は非常に怖い)。
山は食べ物が少ないし寒い。人間があの中で生活するのはかなり困難である。多分、私のような都会人が一ヶ月もいたら死んでしまう。ただ、冬は動物にとっても厳しい。命がけの季節だ。だから皆うろうろと食べ物を探しているのだろう。
天祖山経由で雲取山に向かっている。今日は水松山付近でテントを張って一泊する。当然、まわりには誰もいない。鹿がピーピー鳴いている。山はもう真っ暗で真夜中のようだ。
まだ寝れないので、持ってきた村上春樹の短篇集を読む。すでに何回も読んでいるのだが、読み返すと、違った感じに読める。人間の中身が変わっているので、当たり前といえば当たり前であるが。
特に印象が変わっていたのが、「眠り」だったので、これについて感想を述べたいと思う。
簡単にいうと、主婦が眠れなくなる話であるが、かなり不気味な話である。もし客観的に主婦に起こったことが本当ならホラー小説としても読める。主婦の主観的世界を描いたのなら、何不自由のない生活を送っている主婦が、精神的におかしくなっていく話になる。
山にいると抽象的な不安を感じている暇はなく、現実的・具体的な問題の処理に忙しい。たとえば、寒いとか腹が減ったとか。ただ、問題の処理に失敗すると、リアルに死に直結する。
都会のぬるい日常で生活していると、漠然とした不安に襲われることがある。この問題は解決不能である。どんなに解決しようと努力しても問題は問題として残る。そもそも理由がよくわからないから。
具体的に危機的な状況にある時、必死でそこから逃れようとする。その時には深いことは考えない。一生懸命問題を処理するだけだ。
しかし、問題がないときに浮かび上がってくる問題が一番の難問である。問題がないにもかかわらず、人はそれで死ぬこともある。これをクールに乗り越えるためには、それなりの宗教的技術が必要である。私は仏教の技術でどうにかこうにか乗り切っている。
これだけは愛する人も助けてくれない。私も愛する人を命懸けで守りたいと思うが、抽象的不安を取りのぞいてあげることはできない。どんなに頑張ってもできない。申し訳ないが。
内田樹氏の著作、死と身体の冒頭で、「あべこべことば」という項目がある。そこで「適当」という言葉について、面白い考察がなされている。
「適当な言葉を選べ」という場合の「適当」は、的確にとか正しくとかいう意味であるが、「適当にやってね」という場合の「適当」は、いい加減にという意味で、同じ言葉でも全く逆の意味になる。この変な使い方を、スイスのエリザベス君に質問されたそうだ。
なぜこういう面倒なことが起こるのか。
すごーく熱々で結婚した人たちを知っている。彼らは確かに愛し合っている。しかし、よく喧嘩もする。彼らは愛し合っていると同時に憎しみあってもいる。この二人の関係をどう考えるべきなのだろうか。
私たちは時間の流れの中で生きている。言葉もその流れの中で意味を持つし、感情も移ろい流れている。意味や感情を、ある一点に固定してそこだけ取り出して捉えることは難しい。そのように固定すれば、意味がねじ曲げられてしまう可能性がある。
流れていく状況を捉えていくには、その流れに逆らわず、流れのままに感じなければならない。「考えるな、感じろ」と誰か言ってたけれど。
考えるのは脳の機能かもしれないが、感じるのは脳より広い身体の機能である。感じるためには身体を十分に使わなくてはならないし、人の身体の微妙な動きにも敏感にならなくてはならない。
現代では、その能力は一種の超能力のようなものになってしまったのかもしれないが、それをいまだに持っている人がいる。そのような人を達人と呼ぶのかもしれない。
物語の構造は、原則的に、何かを喪失し、試練を乗り越え、取り戻す、というものらしい。確かにそういうものが多い。ハリウッドなんかだとこの流れでストーリーが作られている。日本で熱狂的ファンの多いドラゴンボールも、ドラゴンボール喪失(正確に言うと違うが)、試練の乗り越え、ドラゴンボール回復、願いを叶える、という流れになっている。
この流れの起源は、狩猟である。腹が減った(喪失)、困難を乗り越え、獲物を獲得し、お腹がいっぱいになる、という感じだ。
ただ、これは男側からの物語である。女性はこの流れでカタルシスを感じる人は少ないだろう。
女性の物語の基本はシンデレラである。この物語の骨子は、醜から美に変わり、王子様が現れ、結婚するという話である。女性と男性の物語の大きな違いは、男性の場合、試練があって困難を乗り越えるところに重点があるのに対し、女性の場合には困難は王子様が解決してくれる。しかし、美しく変化しなくてはならない。
ただ、疑問なのは今の女性にとって、このシンデレラ物語が本当に女性の模範的物語になりうるのかはどうかである。例えば、1Q84では、女の主人公である青豆がざまざまな困難を乗り越える物語になっている。受身ではなく能動的な女性である。
マンガ研究家の藤本由香里さんはこう言う。
男に愛されること、選ばれて結婚すること、そんなことでは彼女の抱えている存在の不安は解消されない。長い戦いの中でそれを女は知ってしまったのだ。それは彼女が自分自身で解決するしかない問題だ、と。
男だけではなく女にだって、存在的不安は当然ある。その不安からは逃げられない。
このように、これからの時代は、ただ好きな男にくっついていれば幸せがやってくるというシンデレラ的幸福観は崩れ去っていくだろう。女性もきれいになっていい男をつかまえるだけの恋愛至上主義からもう一歩踏み込んで、人生を深く考えなくてはならない。もちろん、深く考えている人もたくさんいると思うが。
最近の若者は尾崎豊の歌に全く共感しないという記事を読んだ。例えば、15の夜に「盗んだバイクで走りだす」という歌詞があるが、それは悪いだろという反応をするらしい。それは確かにその通りだと思う。
それと、またちょっと違うと思うが、日本でデモが起こらない理由について、宮台真司が面白い事を言っていた。大学生についてであるが、どういう人間が社会的な問題について関心が高いかを調査したところ、社会的な問題について関心が高い人は、等身大の友人関係や性愛関係がうまくいっている人だそうだ。逆に言えば、等身大の人間関係、対人関係に苦労している人間は、社会的批判力が乏しくなるということである。つまり、日本の若者は等身大の問題について不幸すぎるから、自分の問題にすべての関心が占められてしまい、社会的問題について考えるだけの余裕が無いといえる。自分の問題に精一杯だということである。なるほど。
15の夜をわたしを含めて当時の若者が熱狂したことについて考えてみる。バイクを盗んだことは(もちろん悪いことではあるが)特に深く考えないし真似もしない。むしろポイントは、行く先も分からぬまま走りだしてしまう訳のわからない衝動の方にある。つまり、意味もなくエネルギーが有り余っているのである。その激しい衝動に共感するのである。そのエネルギーは、社会と衝突する。今の若者はどちらかというと、社会の内側にいて、ルール違反の方に反応するのだと思う。
また、尾崎豊のラブソングを思い出しながら、分析してみたが、尾崎豊のラブソングは二人の恋を少し離れた場所から客観的に描写している感じの詞である。それに対して、最近のラブソングは、自分の思いをありったけ叫んだり、寂しい心情を淡々と語ったりする主観的な歌詞が多い。
尾崎のラブソングは、彼女との関係が社会的弱者ゆえ破綻しそうになったり将来が不安だったりして、これから起こる別れを先取りしているような少し哀しい感じの詞である。
対人関係、対社会関係に分けて言えば、尾崎豊の詞は対社会関係に関するものが多いような気がする。そういえば、わたしなんかが若い時は、友人や恋人に関して、多少のゴタゴタはあったけれど、最悪な問題ではなかった。もっぱら問題だったのは、大人による締め付けだったような気がする。
分析するに値する問題なので、また後で詳しく考えてみる。
あぁ、10分しかない。何書こうか。
過去に生きないこと。
ジョギングや山登りのいいところは、やることが決まっていることである。具体的に言えば、足を一歩一歩前に出すこと。
いろいろなことに悩んでいる人を観察すると、だいたい過去に生きている。昔のことをあれこれ妄想して、その過去の時点にとらわれ縛られている。
その縛りを取るには、今この瞬間にやらなくてはいけないことに集中すべきである。それは、具体的な行為で、出来れば困難なものの方がいい。必死でやらなくてはならないからだ。
必死で体を動かすと気持ちがいい。本当に。そうすると、知らない間に過去からの縛りがとれている。
「強くなりたい」は平井堅の隠れた名曲。絢香がカバーしている。
絢香がバセドー病を克服して復活するらしい。この歌唱力がそのまま埋もれてしまうのはもったいない。頑張ってもらいたいということでアップした。
今、あんまり強くなりたいなんて思わなくなった。強くなったからかもしれないし、そうでないのかもしれない。理由は分からない。しかし、中学生くらいの時、好きな子がいて、本当にそう思っていた。これを聴くとその時思っていたことが蘇ってくる。
「恋は燃える火と同じで、絶えずかきたてられていないと持続できない。だから希望を持ったり不安になったりすることがなくなると、たちまち恋は息絶えるのである」とラ・ロシュフコーはいう。
平井堅は数々の名曲といわれるラブソングを歌い上げているが、その本質は、「遮断」なのではないかと思っている。どんなに深く愛しあっていても、両者は融合せず遮断され孤立している。その孤立した場所から、力の限り愛を歌い上げるのだ。そのピュアで真っさらな気持ちが、人の心にまっすぐ届く。
ただ逆にいえば、安定し安心した心の状態からは、平井堅の産み出すような心を揺さぶるラブソングは生まれない。
だが、本当に強い人は愛する人を安心させる人である。そうすると、ラ・ロシュフコーのいうように、たちまち恋は消えさってしまう。何たる人生の矛盾。
しかし、恋は消えても愛は残るのかもしれない。そう想いたいけどね。
内田樹氏の「死と身体」を読んでいたら、コニュニケーションについて面白いことが書いてあった。その文自体、鷲田清一氏の「聴くことの力」という本からの引用なのだが、興味深いので問いの部分だけ引用してみる。
末期がんの患者がひじょうに具合が悪くなってきて、「私はもうだめなのでしょうか?」という患者のことばに対して、あなたはどう答えますか。
1 「そんなことを言わないで、もっと頑張りなさいよ」
2 「そんなこと心配しなくていいんですよ」
3 「どうしてそんな気持ちになるの」
4 「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」
5 「もうだめなんだ・・・・・・ とそんな気がするんですね」
このアンケートを医療機関におこなったところ、医学部の学生は1、ナースのほとんどが3、精神科医は5、と答えたとのことだ。
答えについてちょっと私なりに分析してみる。
1は励ましである。医者は病気を直すことが目的なので、どうしたら患者の状態がよくなるかを考えている。だから、励まして頑張ってもらおうと試みている。
2は鎮静である。患者の不安な気持ちを鎮静化させようと試みている。
3は理由を聞くことで、問いを問いで返している。相互でコミュニケーションを成り立たせようとしているようだ。ただ、相手の問には答えていない。
4は共感である。痛みに対して同情を示している。
5は繰り返しである。患者の言葉を繰り返しているに過ぎない。
正解は5である。つまり、言葉の意味性は関係ないということである。相手の言葉が自分に届きましたよということを相手に示す一番効果的な方法は、同じ事を繰り返すことである。この方法は、言葉の意味とは関係なく、「あなたのメッセージがわたしに伝わりました。コンタクトが成立しました。パスが通りましたよ」ということを示す一番の方法である。
そのように考えると、コニュニケーションの基本は、意味の交換ではなく、相手を「承認」しパスを通すということなのだ。
確かに、何か話をしているとき、「いや、」とか「それ違う」とか否定から入る人と話をしていると、パワーが奪われる感じがする。私はそういう人にできるだけ近づかないようにしている。パワーが落ちるから。
それに対して、「うん、そうだね。だけど・・・」とか「確かにそうだ。しかし・・・・」というように、一度相手の言葉を肯定してパスを通してから、自分の意見をいうタイプとは会話が弾む。
相手のパスをきちんと受け取ることが、コニュニケーションにとって決定的に重要になる。
ギリシャでものすごいストが起きている。気持ちはよくわかるが、まるで子供が駄々をこねているようなストである。普通に考えれば、他の国の援助で自分たちの生活を維持していける訳がない。ドイツだって自国民の生活を保障していかなくてはならないのだ。
ギリシャとは少し事情が違うと思うが、ニューヨークなど各国で貧乏人が金持ちに対してデモを起こしている。しかし、そのデモが効果を上げることはないだろう。そもそも先進国の労働者の賃金が低下しているのは、後進国の追い上げにより、世界がフラット化しているからで、共産主義がいうように、資本家が搾取しているからではない。
国債を発行して国民の生活を維持していくというやり方は、いずれ破綻する。ギリシャはその意味で先進的だともいえる。このままいけば、他のヨーロッパの国やアメリカや日本も財政破綻を経験することになるだろう。インフレが起これば別であるが。
現在の世界の実質的な通貨の価値を担保しているのは石油・天然ガスなどのエネルギーである。エネルギーがなければ、今のレベルで物が生産・運搬できないから、国自体が成り立たない。
現在、世界の人口はおおよそ70億人であるが、それだけの人間を先進国並みの生活レベルで維持していくのは不可能である。だから、椅子取りゲームのように、椅子からこぼれ落ちる人たちが出てくる。だから、くだらないストやデモをするのではなく、人口を抑制することや石油に変わるエネルギーなど、大きな視点で物事を考えていかなくてはならない。そうしなければ物事の本質を外してしまう。財政破綻やデフレ、リストラは、経済世界のパワーバランスが変化してきていることやエネルギー問題が深く関係しているのである。
How many times must I say I love you
'Fore you finally understand
Won't you be my forever woman
I'll try to be your forever man
Try to be your forever man
こういうことをサラっと言えるとカッコいいんだけどね。クラプトンの女性に対する歌って、激しくて好きだ。