言霊信仰とは、声に出した言葉は現実に実現してしまうと信じられていることをいう。
言葉の呪術性の現れであり、それが信仰までに高められている。
例えば、明日、山岳会で登山が計画されているとしよう。
みんなが晴れるといいねと話していたところ、ある人が「明日は雨が降るかもしれないよ」と言った。
そうすると、みんなが「止めてくれ、縁起でもない」という。
なぜなら、不吉なことを言うとそれが実現してしまうからである。
言霊信仰が信じられている日本の社会では、うかつなことは言えない。
つまり、いまこの場で適切な言葉はどういったものなのかを判断し発言することが求められる。
このことが、いわゆる「空気を読む」ということである。
さっきの例で言えば、「雨が降るかもしれない」と言った人が気象予報士の資格をもっていて、それが科学的根拠に基づいた発言だったとしたとしよう。
そうであるなら、雨が降る可能性は否定できない。だから、雨のときどうすべきか検討し、その時の行動を決めておくべきである。
そのプロセスが、いわゆるリスク管理である。
それにもかかわらず、縁起でもないと言われ、発言が否定されれば、おおよそリスク管理はできないことになる。
なぜなら、リスク管理は、ありとあらゆる縁起でもないことを想像し検討することに他ならないからである。
安定し変化が少ない社会では言霊信仰が信じられる傾向がある。このような社会ではその共同体の安定が重要だからである。
しかし、変化の激しい社会では、リスク管理が必要で、そのためには想定外の出来事も検討しなければならない。
最近、壇蜜をいうグラビアアイドルが人気のようだ。ネットでちらほら出てくるので、まぁ、顔と名前くらいは知っていた。確かに、綺麗で色気のある女性であるが、あれくらいなら結構いるだろう、くらいに思っていた。
たまたま昨日、you tubeで壇蜜がいいともに出演している動画を見た。それをみて、「これはいい女だわ」と思ってしまった。人気が出るのもよく分かる。
では、何が良かったのか私なりに分析してみよう。 大きく三点ある。
まず、男にストレートに意識を向けているところだ。
この感じは、意外と新鮮である。というのも、女性は男に対しストレートに性的魅力をアピールしない。なぜなら、同性の目を気にするからである。あまり男ウケすることばかりしていると同性にいじめられるからである。
この点、壇蜜という女性は、同性にどう思われようが関係なく、ストレートに男に対し性的魅力をアピールしている。これは度胸がなけれができない。その辺の純粋なストレートさに単純な男は参ってしまうのである。ただ、同性には嫌われるのではないかと思う。
次に、きちんと話ができることである。そしてその話し方や内容に知性とやさしさを感じる。実際、頭がいいのだろう。また、おじさんであっても、別け隔てなく公平に話をしてくれそうだ。
流行りの若者言葉や汚い言葉を使うのではなく、きちんとした言葉遣いで、大人の話ができる女性。このようなきちんとした女性に、男はコロッといってしまうのである。
そして、「色白黒髪むちむち」という容姿も結構重要である。
正直言って茶髪にはウンザリしている。なんでわざわざ醜くするんだろうと思う。
世の男たちにとって、このような壇蜜のような女性であふれたら、さぞかし楽しい人生が送れるだろう。
だから、この壇蜜という女性の出現は、男にとっていい兆候である。
こういう女を求めていたんだよと言いたい。
名前には呪術性があるといわれる。
昔、人は知らない人間に自分の名前を教えなかったという。
なぜなら、相手に自分の名前を知られると、呪術師に呪いをかけられてしまうからだ。
それが本当かどうかは私はよくわからない。しかし、名前には呪術性があることは確かだ。
例えば、Aという名前の人がいたとしよう。
後ろからAさんに「Aさん」と呼びかけると、Aさんはこっちを振り返った。当たり前の事である。しかし、よく考えてみよう。
私が呼びかけた「Aさん」というのは、単なる音である。私がその音を出すことによって、Aさんは振り向くという行為を反射的にさせられているのである。
つまり、単なる音がAさんを操っているということになる。それが、言葉という術である。
私たち人間は、言葉にとらわれるという性質を持っている。
頭の薄い人は「ハゲ」という言葉に敏感に反応する。その「ハゲ」という言葉の呪術にかかっているわけだ。
また、洗脳は言葉による呪術である。
あるワンフレーズをしつこく脳みそに刷り込むことによって、私たちはそれが嘘であったとしても、信用してしまう。
現代における呪術師は、広く言葉伝える職業についている者である。
例えば、ニュースキャスター、コメンテーター、お笑い芸人、政治家、弁護士など、その言葉に影響力を有している人たちである。
社会的地位が高く、信用できるとおもわれる人間ほど、呪術力が強い。私たちは、その言葉を簡単に信用し、思考を操られる。
まったく樹木のことを知らないAさん、ちょっとは知っている私、樹木を研究している学者Bの三人が、山登りに行ったとしよう。
Aさんはどの種類の木を見ても単なる木にしか見えない。
私は、杉とヒノキ、ミズナラとブナくらいの区別はできる。
学者Bは、樹木の細かい生態を知っているので、葉や実のつき方を興味深く観察している。
この三人は、同じ森に入っているにもかかわらず、まったく違う世界を見ている。
Aさんと私と学者Bでは知っている知識=概念=言葉が違うからである。
また、例えば、アメリカ人は肩こりを知らないという。それは肩こりという言葉がないからである。
逆にいうと、肩こりという言葉を覚えたら、肩こりが起こるということになる。
言葉の有無で体調に変化が生じるのである。
このように言葉は私たちの世界を形作ると同時に、私たちの行動を決め、縛りつける働きがある。
この私たちの行動を縛りつける働きを、言葉の呪術性という。
スピノザは「あらゆる限定は否定である」といった。
ちょっと分かりづらい。どういう意味だろう。
限定とは範囲を決めることである。
つまり、あっち側とこっち側の境界線を決め、こっち側の限界を決めることである。
また、決めることであるから、そこには選択が含まれている。
例えば(いい例かわからないが)、一夫一婦制であるという前提で話を進めよう。
そこで、私がこの女性を妻にすると決めたとしよう。そうすると、私はほかの女性を妻にできなくなる。
私は、世界中の女性の誰とでも結婚できる可能性があったのに(実際は無理だけど)、この女性だと決めた時点で、私は他の女性との結婚を否定したわけである。
だから、「限定は否定」になる。
言葉は、限定の最たるものである。
これは「犬」だと言った時点で、この生物は猫と区別され、猫であることが否定される。
故に、この命題から「あらゆる言葉は否定である」と導き出せる。
出発 8:00
禿岩 8:50
飛竜権現神社 8:55
前飛竜 9:35
熊倉山 10:40
サオラ峠 11:20
丹波天平 12:00
親川 13:30
お祭バス停 13:50
デジカメの電池が無くなって写真があまり撮れなくなった。長期の縦走の場合、替えの電池が必要だ。
禿岩からの景色は最高だったが、カメラが動かなかった。残念。
丹波天平。広葉樹林帯。ミズナラやブナが多い。多分、夏になると熊がどんぐりを食べに来るだろう。この辺には必ず熊がいる
お祭りバス停。
何日も風呂に入っていないので、頭を洗ってヒゲを剃った。
去年の縦走登山に比べ、今年の縦走は比較的楽だったと思う。去年よりアップダウンの少ないコースだったことが大きい。
また、今年は下半身中心に相当鍛えていたので体力的にも余裕があった。それ故、十分な装備を持っていくことができた。
登山は、基本的には体力のある者が強い。
道迷いや滑落・転倒の原因は、おおよそのところ疲労にあるといってもいい。だから、疲れにくい体作りをしていれば、トラブルはかなりの確率で回避できる。
疲れてくると、物事がどうでも良くなってくる。あきらめが早くなる。
例えば、道中のどこかで落し物をしたとする。疲れていると「もういいや」となりやすい。しかし、体力があると戻ってそれを拾いに行く。実際、サングラスと手袋を落としたが、拾いに行った。それも体力があってこその行動である。
また、道に迷ったとき(特に下り)、引き返す勇気があるかどうかも体力の有無にかかっている。体力がなければ、間違った道をそのまま進みやすい。
そして、極限的な疲れは、自分の命すらどうでも良く思ってしてしまう。このまま死んでもいいやと考えやすい。
ただ、登山では装備が整い体力があってもどうにもならない事態がある。特に森林限界以上の場所で起こる自然の猛威である。例えば、稜線上での吹雪や雪崩、雪庇の踏み抜き等である。
奥秩父の森林限界はおおよそ2400~2500mで、だいたい国師岳付近や金峰山付近にしかない。森林限界は樹木が育ちにくい過酷な環境である。当然、積雪も多い。
今回は森林限界は越えなかった。それ故、楽な登山だったともいえる。寒くはあったが、自分でコントロールができないほどの出来事は起こらなかった。
もし、冬の(特に厳冬期の)北アルピスにいくのなら、命を失う可能性がかなり高いことを意識しなくてはならない。
そのような過酷な状況下では、人間はちょっとした天候の変化にすら対応できない。
今回、一番寒い日の午前4時くらいの気温でだいたいマイナス15度~20度くらいだった。
その日の朝、どうしても小便に行きたくてテントの外に出た。1分くらい外にいただけで、体の芯から冷えた。もしそこに30分立っていろと言われても、できなかったと思う。それくらい寒かった。あるものすべて身に着けているにも関わらずである。
北アルプスの稜線上の吹雪は、同じくらいの気温でも風がある分だけもっと寒い。その状態で何時間もじっとしていたら、体温が奪われて、凍傷にかかり、いずれ死ぬだろう。奪われる熱以上の熱を作り出すことは不可能だ。
だから、この状況に自分を置いた時点で負けなのである。
それ故、厳冬期での森林限界を超えた場所での登山は、いかにこの状況を避けながら、ピークを目指すかが勝負になる。
死ぬような状況下に身をおいて、死なないで帰ってくるのが、登山=冒険である。
死ぬような状況に身を置いている意識のない人は、登山にいかないほうがいいだろう。
問題は、なぜそのような命の危険の存在する状況に身を置きたいのかである。
その答えは簡単ではないが、1つの答えとして、死に近づけば近づくほど生を感じることができるからだと思う。危ないところに身をおき生命が脅かされればされるほど、生きている実感が湧いてくる。これは事実である。
また、危険な冬山の美しさは、想像を絶するものがある。これにはまってしまったら、何回も見たくなる。
その凄さは実際に見てみなくてはわからない。
ということで今年の縦走登山は無事に終わった。
最近、無神論が増えてきているらしい。
それはそうだろうと思う。キリスト教もイスラム教も、おかしなところがある。
また、怪しい新興宗教も怖くて信じられない。
そうであるなら、科学的根拠のあるものだけ信じることが合理的である。つまり、科学的に根拠の示せない「神」など信じず、無神論が正解ということになる。
ただ、科学でわかっているところはいいとして、科学では解明されていない部分についてどう考えるのかという問題は残る。
例えば、宇宙の果てはどうなっているのかといったことである。
私は無神論者である。正確に言うと、スピノザ的無神論=汎神論を支持する。
スピノザは、物理的な無限性を有する宇宙全体=自然を「神」と言った。
そして、「神」は始まりも終わりもない「自己原因」だという。
自己原因とは、存在するのに他の原因をもたないことをいう。だから、宇宙は存在するのに他の原因をもたない。
つまり、最初から存在しているということである。
宇宙が神だとすれば、宇宙の物質である私達も神の一部ということになる。
考えれば考えるほどスピノザの思想は優れていると思う。あえて正しいとは言わない。正しいかどうかを問わず信じるという点で、宗教的とも言えるだろう。
スピノザの思想における神の問題は、それ自体を問うことに目的があるわけではない。ポイントは、人間の自由意志の否定にある。
えっと思うかもしれないが、その自由意志の否定が、私達を楽にし強くする。
それについては、また機会があれば書こうと思っている。
私達の生き方を肯定できない思想は、それが正しいとしても、いかなる意味においても価値がない。
出発 7;50
倉掛山 9:40
白沢峠 11:10
ヤブ沢峠 15:00
笠取小屋 15:30 テント設営
あの尖った山は鶏冠山だと思う。
熊の足跡だろうか。結構大きかった。
倉掛山山頂。寒い。
白沢峠。
笠取小屋。今日の幕営地。
この日のコースは、もう一度来るかと聞かれたらNoと答えるだろう。正直言ってつまらないコースだった。
標高1700mから1500mくらいのなだらかな歩きやすい尾根であるが、これといった特徴もなく単調である。
尾根の西側には広瀬湖があり、そこから笛吹川が流れ、山梨市へと続いている。その谷沿いの集落には、それなりに人が住んでいる。
尾根の東側は、廃村になったような村しかないが、奥多摩から続く青梅街道(大菩薩ライン)が通っていて、人の通りも多い。
それ故、尾根沿いの林道はきちんと整備され広く歩きやすくなっている。白沢峠を超えてから少し歩くと、車が通れるくらい広くなる。実際、その林道を通って笠取小屋まで行けるようだ。
ただ、整備されているから面白くもなんともない。そして、長くて疲れる。
食事に関して。
私は好き嫌いもなく、食べ物に関してはまったくわがままを言わない。しかし、さすがに毎日同じ物を食べているとだんだん飽きてくる。米と肉そぼろ。
無性に麺類が食べたくなる。カップラーメンを持っていけばよかった。
携帯の電波について
最近はどの山でも、かなりの確率で電波が通じるようになった。特に谷沿いに大きな町がある場合には、電波が入りやすい。
例えば、今回の尾根では前述のように西側に山梨市がある。だから電波の入りはすこぶるよかった。
ただ、基本的に山の中は電波の入りが悪い。その場合、自分の現在地と大きな町の位置を把握しておくこと。電波が悪くても、そこまで動くことによって入るようになる。
電波の良し悪しよりも大きな問題は、電池切れである。特にスマホの場合はその問題が顕著だ。電池がなければ、即アウトになる。
遭難した場合、携帯電話が通じるか通じないかが生死をわける。だから、予備の電池、もしくは充電用の機器は必ず持っていくようにしたほうがいい。
ちなみに私は携帯電話の電池を3つもっている。山に行くときはそれをすべて充電して持っていく。そうしておくと、電池がなくなった場合、取り出して替えるだけですぐ使えるようになる。
登山中に必要のないときは、電源を切っておくことも大事だ。
出発 8:00
大菩薩嶺 8:30
丸川峠 9:40
寺尾峠 10:20
柳沢峠 13:30
柳沢の頭 14:35
ハンゼノ頭 15:00
倉掛山手前 16:30
大菩薩嶺
丸川峠。こじんまりした丸川荘があった。
大菩薩嶺までの登りは、太陽を背に南側から歩くことになる。だから、雪はあまりなかった。ただ、ところどころ凍っていたり溶けてぐちゃぐちゃしていて注意は必要だ。しかし、きついということはない。
これに対し、大菩薩嶺から下っていく道は北側で日が当たらず、雪が多い。それゆえ、軽いラッセル状態になる。だから、きついしなかなか進まない。
寺尾峠。
六本木峠。
柳沢峠。標高は1480mあるが、大菩薩ラインが通っていて、車が乗り入れられる。
山の中にいた私にとっては、ずいぶん都会に感じられる(笑)。
柳沢ノ頭。
展望台からの大菩薩嶺。
その尾根沿いを歩いてここまでやってきた。
風景としては大したことはないが、その道を通ってきた者にとっては感動的な風景だ。
山と比べると人間はちっぽけである。しかし、一歩一歩進めば、遠くまで進めるということが、リアルに実感できる。
NTTの電波塔。笠取山や唐松尾山付近からも見えた。
この辺で少し迷ってしまった。
藤谷の頭から倉掛山までの尾根は、北に向かって歩いて行くのだが、東側は国有地、西側は私有地になっている。
それが、すこし混乱のもとになった。どうやら私は私有地の林道に入り込んでしまって、その辺をぐるぐる回っていたようだ。
私はそれに素早く気づいた。
そこで、地図で大まかな現在地を予想し、コンパスで方向だけ確かめながら進んだ。そして、携帯の通じるところで、google mapで自分の現在地を確認した。
そうしたら、バッチリ自分の位置が分かった。
特に問題のない迷い方だったようだ。
地図とコンパスなんて必要ないという人がいるが、それは間違いだ。私は何回もそれに助けられた。
特に、初めて来るような土地でかつ道標のない道などは、地図とコンパスは必須である。
それが自分の命を守ることになる。
この日のテン場。