フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組-体は自覚なき肯定主義の時代に突入した 須原一秀

2012年04月30日 21時47分47秒 | 読書・書籍

 現代の全体をとらえる一番大きくて簡単な枠組み」を読了


 登山に持っていった。非常に読みやすく、すぐに読み終わったので、二回読んだ。
 ちょっとスゴイ本である。隠れた名著なのではないかと思っている。
 まず、面白いのは「哲学の不成立」、つまり、哲学不要論である。バッサリと哲学を切ってしまう。ニーチェも切る。哲学なんてものは要らないと。
 


 ただ、哲学は死んでいるが、思想は生きているという。
 
 哲学とは、「ものの見方・感じ方・考え方プラス生き方」の学問的体系をいう。
 
 思想とは、「ものの見方・感じ方・考え方プラス生き方」それ自体のことである。
 
 学問を真理の追求とすれば、ものの見方や感じ方に真理はない、ということである。
 もちろん、それぞれの人の物の見方、それ自体はある。
 
 真理がないとすれば、人の数だけものの見方があるということになるのだが、そのような相対主義はとらないのが、この本の特徴である。
 たとえば、人殺しが悪いというのは共通認識だ、とするのである。


  著者の主張のポイントは、肯定主義と民主主義である。


 客観的真理が信じられている世界には、民主主義はない。
 たとえば、イスラム社会や共産主義社会を考えてもらえばよい。教義に正しい真理があるのだからそれに従えばよくて、多数決をとる必要もないし、それが害ですらある。
 客観的真理がない、もしくは分からないからこそ、多数決原理としての民主主義が必要となる。たとえそれが完全でなくても。

 また、肯定主義とは、人間には不純な部分も、理屈に合わない部分も、優しい部分も残忍な部分もあって、そしてそれもいろいろな種類があって、どれも否定しない立場をいう。清濁併せ呑むということである。
 一定の悪さを認めるからこそ、民主主義が成り立つ。何がいいか悪いかはっきりしていれば、別に多数決をとる必要がないからである。


 読んで損はない。とにかく面白い。哲学が不要というところは、同意する。いろいろ哲学の本を読んだが、決定的なモノはなかった。個人的に役に立ったのは、ニーチェ、スピノザ、それから仏教くらいだろうか。
 自分自身がどう感じ、どう行動し、どう生きるかは大事である。しかし、学問として、それを追求することは不要だ。本当にそう思う。


 著者が既に死んでしまったことは、前のブログで述べた。 生きていてもう少しこの考え方を深めて欲しかったと思う。

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2012 ゴールデンウィーク前半・奥多摩縦走 丹波山~飛龍山~雲取山~長沢背稜~天目山~東日原

2012年04月30日 20時28分35秒 | 登山

4月28日 鴨沢西~丹波天平~サオラ峠~前飛龍

4月29日 飛龍山~三条ダルミ~雲取山~芋の木ドッケ

4月30日 長沢山~酉谷山~天目山~東日原

 

 

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 丹波山の風景

 

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 でんでいろの広葉樹林帯

 

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でんでいろ尾根


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 ちなみに今年の冬のでんでいろ尾根はこんな感じ。

 

 

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 サオラ峠

 

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 飛龍権現神社をちょっといったところの禿げ岩

 

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 禿岩からの景色

 飛龍山から北天のタルまではまだ雪があった。アイゼンは必要ないと思うが、滑らないように注意が必要。落ちたら、谷に真っ逆さまになる。

 

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 北天のタル

 

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 狼平 ここでテントが張れる。

 

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 雲取山山頂。

 雲取山から雲取山荘までの道は、思ったより長いが、まだ雪が少し残っていて、それが溶けてグチャグチャになって汚かった。買ったばかりの新しい靴は履かないほうが賢明だ。

 

 

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 大ダワ

 

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 芋の木ドッケ。このちょっと先にテント泊。本当は悪いんだけどね。

 

 

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 長沢山。

これから先の写真はない。疲れていたことと、馴染みの場所だから今更写真なんて、という感じ。

 久しぶりの縦走で、かなり疲れた。左の足首がちょっと痛む。途中でテーピングで固めた。痛いのを我慢して歩いていると、疲労骨折をするおそれがあるからだ。
 
 長沢背稜はいつ行っても気持ちがいい。酉谷避難小屋は、相変わらずの人気で、29日の晩は10人くらい泊まったらしい。私がいろんな人と話をした情報によれば、今日も5人以上泊まる予定。
 ゴールデンウィーク後半、酉谷小屋に泊まる予定の人は、テントを持っていったほうが無難かも。

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春山の花や新芽たち

2012年04月30日 18時50分52秒 | 日々の出来事・雑記

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山の中での地震

2012年04月29日 20時03分28秒 | 日々の出来事・雑記

 奥多摩の芋の木ドッケ付近でビバーグ中。

 地面がぐらぐらするので、ビビった。ラジオをつけると、千葉で地震とのこと。


 NHKラジオは頼もしい。どんな山奥でも電波が入らないところは、ほとんどない。


 連休前半は、奥多摩縦走。天気が良くて最高。

 朝、起きるのに目覚ましはいらない。小鳥がピーチクパーチクうるさい。

 生を寄せ付けない冬の美しさから、うって変わって、新芽と虫・小鳥の雑多な世界。お世辞にもきれいとは言えない。だが、命が芽吹く勢いのあるこの時期は、とにかく元気が出る。

 冬とか夏にはちょっと考えられないのだが、テントの中であんまりムラムラしてきたものだから、おもわずセンズリしそうになった(笑)。明日もハードだから、もちろんやめたけれど。体調がいい証拠だ。パワーがみなぎっている。

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アイディアのつくり方 ジェームス・w・ヤング

2012年04月27日 00時18分36秒 | 読書・書籍

 100ページ程度の薄い本。30分くらいで読み終わる。書いてあることもそれほど難しくはない。
 
 しかし、超ロングセラー。シンプルであるがゆえに、力強い。
 
 イタリアの社会学者・パレートによると、人は、大きく2タイプに分けられる。
 
 投機的な人とカモになる人。
 
 カモになる人は、型にはまった、着実にものごとをやる、想像力に乏しい、保守的な人間で、投機的な人々によって操られる人たちである。

 投機的な人とは、新しい組み合わせの可能性について常に夢中になっている人である。

 ヤングによれば、アイディアとは、既存の要素を組み合わせることであるから、投機的な人とは、アイディアを生みだす人といえる。
 
 既存の要素を新しい1つの組み合わせに導くためには、事物と事物の関連性を見つけ出さなくてはならない。

 
 ある知識を個別に深く有していても、それだけではアイディアは生まれない。

 それが、類似した別の事実と結びつく事によって、新しいアイディア、概念が生まれてくる。 

 

 アイディアを生みだす5つの段階

  1. 資料の収集、とにかく集める。
  2. 集めた資料を心の中で何回も咀嚼(そしゃく)すること。
  3. 無意識が仕事をするのに任せる、つまり、何もしない。
  4. アイディアの誕生 ニュートンがりんごをみて引力を発見したようなこと。
  5. 現実の有用性にあわせて、アイディアを具体的に展開させること 。

 簡単のようだが、行うのは難しい。

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瞑想と脳の働きについて

2012年04月25日 08時19分06秒 | 身体・健康・筋トレ

 止観とは、仏教の瞑想のことであるが、大きく二つに分けられる。
 1つは、「止」、思考を止める瞑想、サマタ瞑想。
 もう1つは、「観」、観察する瞑想、ヴィッパサナー瞑想、である。
 
 最近は、脳の血流を観察する方法や神経細胞の電気活動を可視化する方法で、瞑想による脳の働きが解明されてきている。
 
 サマタ瞑想は、脳の言語活動を司るところを止め、脳の活動を自律神経に関わる原始的な部分に集中させる。感情や記憶、時間や空間を把握する部分を停止し、今この瞬間だけを認識するから、世界と自分が一体化してくる。これにより神秘的体験が可能になる。
 禅の瞑想も基本的には、サマタ瞑想である。

 ヴィッパサナー瞑想は、自分の身体や感情の状態を、観察し続ける。これは、お釈迦様の瞑想である。
 この瞑想の目的は、メタレベルの自分をつくることである。メタレベルの自分とは、自分の状態を冷静に客観的に見つめる自分である。
 例えば、ある出来事があってパニックになったとする。その時、冷静に、客観的に、パニックになっている自分を観察する。それにより、自分の感情の流れがわかるようになる。
 パニックになっている自分も冷静にそれを見ている自分も、両方、自分である。二人いるわけではない。だから、メタレベルの自分が強ければ、その冷静さに引きずられて、だんだん冷静になっていく。
 ヴィッパサナー瞑想の目的は、メタレベルの自分を強化し、感情に流されず、冷静さを保つところにある。

 アメリカの女性の脳科学者が、脳卒中になった。言語活動を司る左脳に血の塊ができて脳を圧迫したらしい。その際、自分がどのように変化をしていくのか、脳科学者らしく客観的に分析している。非常に興味深い。
 それは、サマタ瞑想の神秘体験に近い。神秘体験は、霊的なものではなく、脳の働きであることがよく分かる。
 




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ケインとアベル ジェフリー・アーチャー

2012年04月21日 20時22分43秒 | 読書・書籍

 ジェフリー・アーチャーの「ケインとアベル」を読了
 
 圧巻の面白さ。最初からストーリーに引き込まれ最後まで一気に読み終わる。面白い小説を探している人は、この本を読むべき。損はしない。
 
 一人の人間の一生を描き切る小説は英米に多い。また、イギリスの文学は人間のセンチメントな部分を刺激する。
 
 「感情」を刺激すること。
 
 これは脳科学的に言えば、大脳辺縁系の扁桃体を刺激することである。どうすれば、文字でこの人間の感情を動かすことができるのか、最近、ずーっと考えていた。
 
 この「ケインとアベル」を読んで、そのことが少しだけ分かったような気がしている。
 
 それは、私たちの感情の源泉は「愛すること」にある、ということだ。
 
 激しく愛しているがゆえに、その者が傷つけられれば、強い憎しみが生まれる。愛憎入り交じる激しさが、私たちの心を動かす。そして、激しく人を愛するには、過剰なエネルギーが必要なのである。
 
 ケインとアベルは、同じ日にまったく違った境遇で生まれる。その二人が、ちょっとしたすれ違いで、対立しあうことになる。
 
 戦うことと愛することは表裏一体である。愛が深ければ深いほど、激しく戦うことになる。 
 
 激しく人を愛せる者は幸いである。たとえそのせいで不遇の人生を送ることになったとしても、「生きている」という充実感は味わえるからである。
 
 ああ、私は人を本当に愛しているのだろうか、と問いただしてみる。結局のところ、自分のことがかわいいだけなのではないだろうか、と。
 
 このメロドラマ的小説の中核は、家族愛である。それに心を揺さぶられるのなら、まだ自分は大丈夫なのかなぁと思いつつ、小説を読み終わった。
 こういう小説は大好きである。人間の中にある愛情を刺激する。
 
 ジェフリー・アーチャーの小説をもう少し読んでみようと思う。 

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男女間の食欲と性欲

2012年04月17日 08時31分04秒 | 身体・健康・筋トレ

 まず、食欲について。

 空腹になるイライラし、満腹になると満足する。それは、脳幹の付近にある視床下部の働きである。

 視床下部には、食べろと指示を出す摂食中枢と、食べるのを止めろと指示を出す満腹中枢がある。 
 
 どちらの中枢を刺激し指示を出すのは、ブドウ糖である。

 ブドウ糖の量が減れば摂食中枢を刺激しお腹がすいたと感じ、ブドウ糖の量が増えれば満腹中枢を刺激し満腹になったと感じる。
 
 このサインを無視して、過度なダイエットをし続けると、視床下部の機能がマヒして、拒食症や過食症などの摂食障害になる。

 
 食欲と性欲の関係について

 食欲中枢と性欲中枢は、1,5ミリくらいの近いところにある。それゆえ、お互いに影響を受ける。ただ、男女間で微妙に異なる。
 
 男は、性欲中枢と摂食中枢が並んでいる。
 つまり、男は、空腹になると性欲が高まることになる。
 これは、空腹になって生存が脅かされたときに、子孫を残そうとすることと関係している。
 だから、男は腹が減ったらムラっとするようにできている。
 
 これに対し、女は、性欲中枢と満腹中枢が並んでいる。
 つまり、女性は満腹になったら、性欲が高まる。
 これは、女性は満腹になって体の状態がいいときに、子孫を残そうとするからである。
 だから、女性を口説こうと思ったら、食事に誘うのが効果的で、これは科学的に根拠がある。
 
 逆に、夫や彼氏の性欲が衰えたと思ったら、少し食事を少なめにして飢えさせたほうがいい。 

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北朝鮮との関係について

2012年04月15日 10時31分45秒 | 社会・政治・思想哲学

 NHKをつけたら北朝鮮との外交問題について、議論をしていた。
 アメリカはオバマに変わってから、北朝鮮に対し強行手段に出ないと、司会者が言っていた。それは、別におかしなことではない。単純に考えれば、アメリカが北朝鮮をそれほど敵視していないからだ。
 アメリカは、アジア外交について考えが揺れている。日本と中国をどう扱うかについてである。
 
 アメリカにとって、一番脅威なのは、日本、中国、韓国、北朝鮮がアジア同盟を結ぶことだ。だから、各国がいがみ合っている方が都合がいい。

 鳩山総理が構想していたアジア同盟は、将来、中国が主導して行われる可能性が一番高い。その時は、必ずアメリカと中国は敵対関係になっている。両者に激しい覇権争いが起こる。
 
 日本人の無意識は、反米である。これは間違いない。中国・朝鮮の無意識が親日なのと同様である。
 日本人は、アメリカをいつかギャフンと言わせたいと思っている。そのためには、アジア同盟を組むのがいい。だが、今の中国、朝鮮とは絶対組めない。これも間違いない。
 その中で、日本はどうすればいいか考えていかなくてはならない。インドとの同盟が一つの方法かも知れない。

 さしあたって、北朝鮮との関係についての私の意見であるが、日本は北朝鮮と国交を断絶し経済制裁を行うより、国交を回復したほうがいいのではないか。
 拉致問題は、国交を回復して経済的に密接になったほうが、うまく行きそうである。また、韓国を牽制する意味でも、北朝鮮との関係を切らないほうがいい。
 竹島や従軍慰安婦などのことを考えれば、韓国が強国になるのは日本にとってあまりいいことではない。とにかくうるさい。あそこまでうるさいと心情的に北朝鮮に肩入れしてしまう。
 それはそうとして、両国が割れていたほうが日本にとって都合がいいとおもわれる。外交は悪魔とだって手を結ばなくてはならないこともある。

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アジア人は巨乳好き?

2012年04月13日 08時38分25秒 | 日々の出来事・雑記

 セクシーさを感じるところ(国際比較)

 セクシーさを感じる国際比較が面白い。ただ、男女別の集計になっていないところがおしい。
 選択肢に上げられたのは、胸、身体つき、お尻、脚、笑顔、まなざし、顔、ユーモア、知性、お金、髪の色、背の高さ、年齢、態度・姿勢の14項目である。
 
 アジアの大多数(中国、シンガポール、香港、ベトナム、日本、マレーシア、インド)は胸が一番だった。
 
 これに対して、英米、北欧はまなざし、ヨーロッパの多くの国がお尻だった。

 北欧が「まなざし」というのは分かる。寒い気候で厚着していてセクシーさを体で判断できないから、よくみえる目に集中する。
 
 お尻がスキというのはシンプルに理解できる。
 動物的本能かつ合理的判断。
 人間の身体の状態をよく表した部分がお尻だからである。体をよく動かす人、アスリート、若い人のお尻はきれいである。体が動かなくなってくると、お尻の形が悪くなる。
 逆にいえば、おしりの形は遺伝子的な要素が大きい胸に比べ、コントロールが容易である。きれいなお尻は、努力で何とかなる。

 問題は、胸である。特に、何故アジア人が胸好きなのかである。
 あくまで、仮説であるけれど、
 アジア人は、欧米に比べ、スレンダーであるがゆえ、胸が大きくない。
 良さとは希少性である。
 だから、 胸の大きな女性を好むのではないか。
 また、美的意識はすこしづつ変化する。そして、その変化は情報によって作られる部分がある。美意識を変化させ、それを欲しいとおもう欲望は意図的に作り出すことができる。
 「巨乳」という言葉がうまれてから、明らかに巨乳好きが増えた。AVも巨乳好きの流れを作っていった大きな要因だ。そして、日本のAVがアジアの巨乳好きという大きな流行をつくりだした。

 進化論によるなら、男が巨乳を好むようになると巨乳の女性が子供を多く残す可能性が高くなるから、巨乳が増えることになる。
 そうすると、みな巨乳になってしまい、優劣、差異がなくなり、希少性がなくなる。
 だから、将来、希少な貧乳の時代が来るかもしれない。分からないが。
 
 くだらないことを、まじめに考えた。

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