フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

だまされない技術(恐怖)

2012年03月28日 08時36分01秒 | 社会・政治・思想哲学

 今日の話は「恐怖」ついてである。
 心の働きは脳にあるから、恐怖と脳の関係について分析する。
 本能的行動と快・不快・喜怒哀楽のような情動は、主に大脳辺縁系が関与する。
 大脳辺縁系のうち、記憶は「海馬」で、情動は「扁桃体」で処理される。
 つまり、ある出来事を海馬で記憶し、それが快か不快かを扁桃体で判断することになる。 
 恐怖についての実験は簡単で、まず、動物に音・光のようなものを条件刺激として与える。それに続いてすぐに電気ショックを与える。数日後、条件刺激を与えるだけで、動物は電気ショックを恐れてすくみ上がるようになる。
 
音や光のような条件刺激とそれに関連した電気ショックの情報が海馬に送られ、長期的に記憶される。他方、それが扁桃体にも送られ、生存にとって有利であるかどうかの評価、価値判断がおこなわれる。
 恐怖を感じると、自律神経が反応して心臓の拍動が早くなり、胃腸の動きも変化する。また、すくみ上がるといった行動が引き起こされる。
 恐怖は、身体とも連動している。 

 このように恐怖は、私たちの生存にとって有利か不利かに深く関わる出来事について、感じるようにシステム化されている。だから、恐怖は人を素早く行動させる強力なきっかけになる。
 したがって、人をコントロールするためには、恐怖をうまく扱うことが重要になってくるのである。
 
 詐欺などで使われる典型的なものは、「霊的なものに取り憑かれているから、これをやりなさい」というものである。
人が霊的なものに恐怖することをたくみに利用する。
 ポイントは、漠然とした不安を煽ることである。その程度の恐怖がちょうどいい。
 というのも、あまりに恐怖が強すぎると、人は逃避行動をとってしまうからだ。脳と体が、この場から逃げろと命令を下す。だから、あまりに強すぎる恐怖は、詐欺のように、人を引きつけながらコントロールするといった状況にそぐわない。

 一番有効な「恐怖」の使い方は、「失う恐怖」である。
 人間は、安定を好み、保守的で、今の心地良い状態を維持したいというインセンティヴが強く働く。だから、その安定した状態を作り、それを失うように働きかけることで、コントロールしやすくなる。 
 例えば、綺麗な女性といい信頼関係ができたところで、「あなたのこういうところにすこしがっかりしちゃったなぁ」と言われたら、 そこを直そうとする。それは、その信頼関係を失いたくないからである。
 また、一定の利益を与えられていてそれを打ち切るなども、そうである。 
 だから、コントロールしようとする側は、まず、心地の良い依存関係をつくろうとする。そして、その依存を利用し、コントロールするのである。 

 恐怖は、重要な生体反応である。状況の違和感である。
 強い恐怖はすぐに分かる。即行動に移せる。戦うか逃げるか。
 しかし、恐怖が小さいと、すぐにそれだと分からない。不安だったり嫌な感じという違和感として現れる。だから、そこにつけこまれてしまう。
 
 私たちは自分の感覚を信じなければならない。自分の微妙な心の動きに敏感にならなければならない。それによって見えない危険を回避できる。


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超右翼性へのメモ

2012年03月27日 08時31分17秒 | 日々の出来事・雑記

 人に読ませるためではなく、個人的なメモなので、読み飛ばしてもらって構いません。

 

 

 価値意味=意味、価値、凄み、怪しさ、魅力、心、力、命

 

 本物の恋愛をしている人、有意義な仕事に付いている人、幼児を育てている人、本物の宗教家

 

 対極にある人=つまらない日常を送っている人

 

 価値意味は個体保存能力を超える。

 

 法則 「価値意味感受能力と自己保全能力は逆比例する」 つまり、一方の能力が強くなれば、他方は弱くなる。

 

 人間は個体保存本能を越える意識態勢を潜在的に常備している。= 変性意識、覚醒要求(スリルを求める欲求)、突発的危機意識(交通事故、地震、戦争)の場合、人間の悪魔的興奮、価値意味に絡む鮮烈な感情、生死を超越した果敢な行為をいとも簡単にやってしまうこと

 

 変性意識とは、自己保全能力が低下してしまう(命を投げだしてしまう)ような非日常的な意識状態

 

 超右翼性の3つの特徴 いわゆる右翼とはまったく違う、保守ですらない

 

 1 戦闘的小集団での共同体体験(仲間との共同生活)
 2 変性意識との親和性(変性意識に入りやすい体質)
 3 強現実主義(変性意識絡みの強烈な修羅場体験)

 

 1 見栄やハッタリが通用しない。修羅場の中での裸のまま承認される強固なアイデンティティー。それを確立する体験

 

 2 至高価値への高揚感を感じやすい体質

 

 3 日常生活では体験しないような生々しい現実。それをものともしない精神。頭より身体性
 スーパーの肉ではない。 鳴声をあげる鳥の首を締め、毛をむしり、のたうつ魚の頭に一撃を加え、腹を裂き、飢えを満たし、酒と女を仲間と楽しむ。強烈な情動体験。

 

 超右翼性とは、このような強現実主義的認識プログラムを、伝承している集団のことである。



 左翼=個体保存本能と種族本能を重視。利己的存在、人間の究極的な目標は幸福と考える。
 我の強い断固たる利己的合理主義者。徹底的に相手を食いつぶす。資本主義的怪物。

 右翼性と両立可能である。変性意識によって右翼に変わる。



 価値意味を見つけ強化するために

 

 鍛錬するフィールドは自分の所属する共同体(会社、組合など)と、その共同体を取り囲む資本主義的競争社会である。
 そして、「自分の死」を前提に自己保全意識を低下させ、変性意識の親和性を強化する。
 そして、右翼性と左翼性の相克(矛盾・葛藤)を耐えぬくための強靭な胆力をつける。 

 

 
 超右翼性への究極の目的は、強烈なオトコ性の復権

 女性は「愛」に関してだけ、右翼性を実現できる可能性があるが、基本的には、占い好きの運命論者であり、主体的に運命を切り開いていくという感覚に乏しい。簡単に言えば、人生は「男次第」

 徹底した左翼的合理性と右翼的非合理性を両方身につける。
 ポイントは、変性意識。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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吉野梅郷 日の出山 御岳山

2012年03月26日 08時02分31秒 | 登山

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駅に到着 7:40


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 梅の公園 9時前はタダ。



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 まだ、3月25日時点で、5分咲きくらいだった。今年は遅い。
 来週は、満開になるだろう。



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 日の出山に向かう。


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琴平神社


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 スギ林が伐採されていた。


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 日の出山の頂上。人で賑わっていた。御岳山までケーブルカーで登って、そこからここまで来るコースが人気なようだ。



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 東雲山荘。閉まっている。


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 御嶽神社。



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 天然記念物の樹。平安時代からある。



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 馬場邸。人が住んでいる。



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 もうすぐ、鳩ノ巣駅。今日の登山は終わり。

 それほど疲れず余裕だった。

 

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だまされない技術(知らないうちに要求をのまされる)

2012年03月24日 14時36分47秒 | 社会・政治・思想哲学

 まず、「接触」がある。そこから人と人の関係が生まれる。だから、その接触の仕方について分析するのが有効である。
 ある人物が私に接触をしてくる。そこには何かの目的がある。感じの良い人だから話をしてみたいなぁというのも、目的であるが、私たちから財産的価値(女性なら身体も含む)を奪おうとする場合もある。だから、人と接触する際に細心の注意が必要である。
 相手の要求を断れなくして、だんだんと追い詰めるやり方には、一定のパターンがある。
 今回は3つのパターンを紹介する。 

 1 小さな頼みごとから大きな頼みごとへ


例えば、募金詐欺の場合、まず「東北地震の被災者のために署名をしてもらえませんか」と頼む。
 それに承諾すると、今度は「いくらでもいいから被災者のために募金をしてもらえないでしょうか」と頼む。
 このように、いきなり募金を頼んでも断られるので、最初に小さな要求をしてそこから段階的に要求を釣り上げるのである。
 人は先に簡単な頼み事を承諾してしまうと、次の大きな頼み事を断れなくなる傾向にある。それは「自分の行動に矛盾がないようにしたい」という一貫性の法則があるからである。
 相手のやり方を分析すると、最初の要求は承諾してもらえるような簡単なものであること、最初の要求と目的の要求には関連性があること、深く考えさせないこと、である。
 このやり方に対処する方法は、まず相手の目的を先に予測することである。署名を要求された時点で、募金を要求される可能性を先に読むことである。そして、募金は断ると決めておく。
 次に、できるだけ礼儀正しく断るということである(しかし断固に付け入られる隙なく)。募金の例で言えば「申し訳ありません、今日は持ち合わせがなくて、今度機会がありましたら募金します」と。
 この段階的に要求する方法は、自分自身にも使える。
 例えば、ブログを書くのが億劫になってきたら、まず、机に座ってパソコンの電源を入れようと自分に要求する。それに承諾したら、一行だけでも書いてみようと要求する。次は、もう一行だけ書いてみようと。
 いいことも悪いことも使い方次第だ。

2 大きな頼み事から小さな頼み事へ

 今度は、さっきの逆である。
 例えば、勧誘に引っかかって店に連れていかれたとする。いろんな商品を親切・丁寧に説明してもらって、最終的に「この100万円の壺を購入していただけると、あなたの運気がアップします。どうですか」と言われた。その時は、お金が無いからと断った。「じゃあ、3万円の壺はどうですか。こちらでもかなりの効果があります」と提案されて、購入してしまった場合である。
 
他にも、例えば、彼氏に「ハワイに連れてってよ」といい断られ、「じゃあ、遊園地に連れてって」という場合である。


 このように大きな要求の後に小さな要求をされると断りづらくなる。心理的に人は断るという行為に罪悪感の感じる。なぜなら、私たちの社会では「人の頼み事はできるだけ聞かなければならない」という道徳があるからだ。だから、私たちは頼み事を断り続けることができない。
 そこに付け込んでくるのがこのやり方である。
 最初の例で言えば、「商品を親切・丁寧に説明してもらって」というところがポイントで、それゆえ、断ることに罪悪感が生じてしまうのである。

3 いい条件から不利な条件・悪い条件へ

 この方法の具体例をあげてみよう。
 かなり格安の中古車があって、それを購入する決断をした。その後に、実はタイヤがすり減っていたり、エンジンにトラブルがあったりする。それを直すためには追加のお金が必要で、結局、安くない買い物になってしまうようなことである。

 また、男女間の恋愛でも、学歴、職業、年収などが好条件な男性と付き合った。深い関係になって、別れられなくなったところで、その条件が嘘だったことを告げるようなやり方である。
 このように、何かを売る場合に、まずは魅力的な条件で惹きつけてから購入を決断させ、その後で相手側に不利となる条件を説明するような手法である。また購入を決断した後、さまざまなオプションを付けられ、結果として悪い条件になってしまうようなやり方もある。
 1の方法とよく似ているが、1の方法が頼み事を徐々に釣り上げていくやり方なのに対して、この方法は頼み事自体は変わらないのだが、条件が変わるため、結果的に不利な要求を飲まされていることになる。
 
 うまい話には罠があるということを、意識して取引しなければならない。
 フリーの携帯ゲームもこの手法である。タダだからいいやと思って、ゲームをやっていくと、だんだん熱がはいっていく。そこで、有料のオプション機能を購入させられることになる。
 入り口は、フリーという好条件であるが、熱くなったところで、いろんなものを買わされ、結果的に、悪条件になっている。

まだ、つづく。

 


 




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だまされない技術

2012年03月23日 09時03分40秒 | 社会・政治・思想哲学

 日本が、信頼社会に移行していることは既に述べた。信頼社会とは、別の言い方をすれば、誰を信じ誰を信じないかを自分で決める社会である。システムに依存するのではなく、自律が要求される社会でもある。
 しかし、そのような能力がなく社会に放り出されてしまえば、単なるカモになってしまう。だまそうとする人間は、心理テクニックを駆使して、私たちを逃げられないようにするからである。
 さいわい、日本人は正直な人間がおおい。私たちを騙そうとする人間は少数である。しかし、日本人はカモなので、だますことによってかなりの利益をあげることができる。だから、私たち一人一人が、相手が仕掛ける心理戦に負けないようにすることが必要である。
 それにはだまされない技術を身につけなくてはならない。
 そこで、これから、何回かに分けて騙しのテクニックを暴いていこうと思う。

 まず、簡単な人間の特性について考えてみたい。
 人は「理性より感情で動く」ということである。
 ヒットラーは、宣伝や説得について、「人を操作したかったら、できるだけやさしい言葉で訴えよ」「伝えたいものを何度も繰り返せ」「肝心の要点を絞り込んで伝えよ」と言った。
 その中で一番重視していたのは「大衆を操作したかったら、論理より感情に訴えて揺さぶりをかけよ」というものである。
 ヒットラーは、「ヨーロッパを支配すれば、年間これだけの利益があげられ、ドイツ国民は豊かになる」といった論理的な言葉で大衆を誘導しなかった。そうではなく、「敗戦した第一次世界大戦後に締結されたベルサイユ条約は、不当なものであった。この条約はドイツ国民を侮辱している。奪われた土地を取り返し復讐しなくてはならない」などとして、大衆の復讐心をあおったのである。ドイツ国民はこの言葉に熱狂した。

 ここで私たちが教訓にしなければならないのは、感情に流されないように、物事は判断しなければない、ということである。感情に揺さぶりをかけられたら負けである。
 
 次のブログでは、具体的な騙しのテクニックを検討する。

 

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だます者、だまされる者

2012年03月20日 15時50分01秒 | 社会・政治・思想哲学

 富士通と名古屋大学の共同で、振り込め詐欺を検知する電話機が開発された。
 同技術は、通話中の声の抑揚を分析し、だまされやすい心理状態を自動的に検出する。検知成功率は90%以上。また、振り込め詐欺で使われやすいキーワードを抽出する機能と組み合わせれば、さらにその精度は上がるという。
 
振り込め詐欺の被害額は、年間128億円(平成23年、警察庁調べ)である。
 
 このニュースを聞いたとき、日本の技術だったら、
これくらいできるだろうなと思った。それと同時に、すこしバカバカしさを感じた。
 振り込め詐欺は、身内のことなら無条件に信用してしまう日本人の特性をうまく利用した犯罪である。
 この「身内なら無条件で信用する。外部の者は信用しない」という反射的な判断は、閉鎖された農村共同体に由来することは、すでに述べた(日本的安心社会)。

 振り込め詐欺の手口で、詐欺集団が荒稼ぎするようになって、かれこれ10年くらい経つのではないだろうか。最初は、かなり同情したが、もうそういう気分にはなれない。そろそろ学習しなくてはならない。
 いつまで騙されているんだと。
 騙される人がいるから、いつまで経っても、詐欺集団はいなくならないし、新たな被害者が生まれる。


 話は変わるが、沖縄にカバマダラという蝶がいる。この蝶は、幼虫のときに、毒が含まれているガガイモ科の植物を食べる。ガガイモ科のガガイモやトウワタを、家畜が誤って食べてしまうと、吐いたり、心臓発作を起こし死んでしまうこともある。かなりの猛毒である。

 何故この幼虫は、毒のある植物を食べるのだろうか。
 一つ
には、他の生物が食べないから、豊富にあるということが、挙げられるだろう。
 もう一つは、この植物を食べることで、体内に毒をため、鳥に食べられないようにするという点が挙げられる。そして、この毒は成虫の蝶になってからも持続する。
 成虫の蝶は、「私には毒がありますよ。近寄らないでくださいね」ということを知らしめるために、派手な羽を進化させた。この自己主張によって、鳥は毒のあるカバマダラを食べなくなる。
 次に何が起こるか。
 カバマダラの模様を似せた蝶が現れる。この蝶は幼虫時に毒を食べていないので、毒がない。メスアカムラサキやマグロヒョウモンである。これらの蝶は、体内に毒をため込むという、自分自身にとっても不利なコストを払う必要がないので、どんどん栄えていく。
 そうすると次に何が起こるか。
 鳥が、鳥を騙す偽物の蝶を食べ始めることになる。最初は、栄えたメスアカムラサキやマグロヒョウモンが多くいるので、毒のあるカバマダラにあたる確率的が少ない。しかし、それでも、たまに毒のあるカバマダラに当たってしまう。そこで、鳥も賢くなっていく。なんとか毒のない蝶と毒のある蝶を見極めようとする。鳥が賢くなって見極められていくようになると、だんだんメスアカムラサキ等の毒のない蝶が食べられ、少なくなっていく。
 まるで軍拡のように、三者の進化が進んでいき、バランスのとれたところで落ち着く。

 この生物社会で起こっていることも、人間社会に当てはまる。正直者ばかりだと、騙す者が現れる。そして、騙された者は詐欺の手口を学習し、騙す者は衰退していく。
 しかし、まったく学習しなかったら、いつか食いつぶされてしまうだろう。
 人間も生物である。生物は弱肉強食の社会だ。状況の変化に対応し、進化していかない個体はいつか滅びる。

 

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ボロい自転車、人間万事塞翁が馬

2012年03月16日 09時02分33秒 | 日々の出来事・雑記

 サビだらけのすごーくボロい自転車に乗っている。

 
ボロいだけでなくて、ガチャガチャうるさい。というのも、半年くらい前に、後ろタイヤのチューブを自分で交換した際、なにかおかしなやり方をしたらしく、チェーンが緩んでしまったのだ。
 ガチャガチャするだけではなく、少しスピードを出そうとすると、ガクンとペダルが空回りしてしまう。
 だから、老人のようにゆっくりしか走れない。

 
私が自転車を乗っていると、歩行者は必ず振り返る。なんの音だって感じで。そして、私が目を合わせると、わるそーに目をそらす。

 
最初は、人並みに恥ずかしかったが、最近は慣れっこになってしまって、逆に、歩行者がこっちに振り返らないと、なんで?と思ってしまう。慣れというのは不思議なものだ。

 
昨日、風が強くて自転車がバタンと倒れていた。その拍子に、チェーンが外れてしまった。仕方なく家まで手で引いてきた。
 選択肢は二つ。捨てるか直すか。

 直すことにした。

 
そもそも最初からチェーンが緩んでいるので、それを付け直すこと自体はそれほど難しくない。どうせだから、この際、ガチャガチャうるさい音も直すことにした。
 原因は後ろタイヤが少しだけ前の方にずれて付けられていることにあった。
 だから、チェーンがピンと張るようにして後ろタイヤを付けた。

 
一応、どんな感じか確かめるために、コンビニまで買い物に行ってみた。
 半年間、悩まされたガチャガチャが嘘のように無くなった。そして、飛ばしてもペダルが空回りしなくなり、すごく快適になった。

 
すごく晴れ晴れしい気持ちになったと同時に、なんとなく寂しい気分だった。
 なぜなら、ガチャガチャと音がするのが体にしみついていたからである。自転車といえばガチャガチャという感じ。あの芥川の小説の「鼻」みたいなものだ。
 だけど、「鼻」の主人公のように、もう一度ガチャガチャに戻すのはゴメンだけどね。

 
この話の中から教訓めいたことを、取り出すとすれば(無理やり)、物事が悪い方向に向かったからといって、必ずしもそれは悪いことではない、ということだ。
 もし、自転車が倒れてチェーンが外れなかったら、直すこともなかった。
 物事が悪い方向に向かったときに、何かが動き出す。
 ある突発的な出来事によって現状維持が破られる。それにより物事が好転することが多い。
 「人間万事塞翁が馬」だ。

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情報の収集と個人のコントロール

2012年03月13日 19時26分25秒 | 日々の出来事・雑記

 ボーンコレクターを読んでいて思ったことを、ちょっと補足。
 
 この本が書かれたのが1997年だから、かれこれ15年くらい経つことになる。
 この本の書かれた時点ですら、科学捜査のレベルはかなりのものだから、今はもっとすごいことになっているのだろう。
 
 指紋、DNAなどの生体情報、衣服の繊維、足跡など、犯人を特定する技術は日々発展している。
 人の心の中を見ることはできない。
 だから、外部に現れた痕跡を集め分析することで、人の心や行動パターンを読み込むことになる。
 このような技術は犯罪防止や犯人の特定からは、非常に有効である。
 
 しかし、一方で個人を特定できる生体情報が、一箇所に集められ管理されれば、ほとんどプライバシーが無くなってしまう。
 特に、携帯電話のGPSと合わせれば、個人の行動がほぼ監視可能となる。
 また、グーグルは私企業であるが、便利な機能をフリーにして、検索という個人の情報を収集・管理している。
 検索ワードから、個人の心の中(趣味、性的趣向、欲望など)を読み取り、広告に利用している。
 これから先、お金がすべて電子マネーになったとすれば、その履歴から消費活動が読み込まれ利用される。いわゆるライフログというものだ。
 
 個人の生体情報(指紋・DNA)、ビルや街に設置された監視カメラ、携帯電話のGPS、電子マネー、パソコンや携帯に残された検索履歴などを、国が一括して管理・監視すれば、私たち個人のプライバシーなんかほとんどないと同然である。
 例えば、生活保護受給者が電子マネーでパチンコをすれば、一発でバレるだろうし、また、子供に対する性的虐待をした犯人をパソコンの検索から絞り込むことも可能だ。
 電子マネー、GPS、監視カメラの情報をつなぎあわせれば、何時何分に何をやっていたかすべて筒抜けである。
  
 このように個人の情報を収集し分析する思考は、非常に西洋的である。ちょっと日本人にはピンとこない。
 多分、キリスト教の懺悔・告解のシステムに由来しているのかもしれない。
 つまり、表向きは魂の救済を目的としながら、信徒に自分の犯した罪や自分の性的欲望を告白させ、その秘密の情報を収集する。そのことによって、信徒をコントロールするのである。
 秘密の情報が、権力側の統治にとって有効だということを、知っているのである。
 それに対し、日本人は、情報の有用性の認識が低い。だから、コントロールされる側に回ってしまう。

 ただ、こういう時代になったら、開き直ることも大事かもしれない。
 どういうことかといえば、結局、恥ずかしくて知られたくないのは、自分のエロの趣向だから、それをオープンにしていくのである。
 例えば、よく検索するワードが、巨乳とか、◯だしとか、フェ◯とかだったら(私もそういう言葉をよく検索する)、別に隠さないことである。
 そうすれば、コントロールされる可能性も低くなる。タブーをなくしていくということである。
 最後はしょうもない話になってしまった。すいません。
 
  
 

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ボーンコレクター ジェフリー・ディーヴァー

2012年03月13日 08時35分14秒 | 読書・書籍

 ボーンコレクター読了。
 いつか読もう読もうと思っていた本である。予想通り、面白かった。
 犯罪捜査の細部が詳しく書かれていて、その辺に興味のある人は、いいと思う。
 私はそこまで興味がないので(笑)、あまりに細かいところは読み飛ばした。
 
 この本も、先が気になって読み出したら止められない系の小説だ。
 作品の中に謎と緊迫感がにうまく取り込まれている。
 また、個性的なキャラクターがしっかり描かれていて、人間関係・信頼関係の変化も楽しめる。

 最後は、あっと驚く展開で、かつホッとするいわゆるハッピーエンド的結末である。
 ちょっと前に読んだクリムゾンの迷宮と対照的だなぁと思った。
 というのも、クリムゾンの迷宮は、ちょっとだけ胸がしめつけられるような切ない結末だからだ。
 
 この結末は、西洋と日本の昔話に由来するのかもしれない。
 西洋の昔話は、最後に王子様をお姫様がくっついて、めでたしめでたしのハッピーエンドの結末が多い。
 これに対して、日本の昔話は、雪女や鶴の恩返しみたいに、うまくいっていたのに、結局、別れてしまい、ちょっと切なく哀しい話が多い。
 このような昔話の結末の違いが、現代の小説の結末にも影響している。
 まぁ、どちらも悪くないが。

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悪童日記 アゴタ・クリストフ

2012年03月11日 14時43分42秒 | 読書・書籍

 東京は昨日から雨が降っていて山に行けないので、家に閉じこもって読書三昧。
 3・11だし、出かけるのもね。
 ということで、昨日、図書館から大量に本を借りてきてそれを読んでいる。

 「悪童日記」読了。
 第2次世界大戦下のヨーロッパでのお話。
 著者は意図的に場所を明示するのを避けている。ただ、著者がハンガリーとオーストリアの国境付近の村で生まれていることから、その辺ではないかと推測できる。

 主人公は双子の男の子である。一般的には、クソガキといっていいだろう。
 ただ、悪童かもしれないが、悪党ではない。むしろ、彼らは人の心を内側から温めるようなやさしさを持っている。そして、強い。
 日本でも、戦後の混乱期にこのような少年たちがたくさんいたのではないかと思う。
 
 少年たちは賢くクールである。学び、鍛錬し、労働する。
 学ぶことと戦うことがリンクしている。
 生き延び、戦うために、学んでいる。本来、学びとはこういうものである。

 第二次世界大戦下ヨーロッパは、どの国も暗く悲惨である。この本に出てくるエピソードも、悲惨で気分が悪くなくことが多い。
 しかし、この暗い感じとは裏腹に、読み終わった後、清々しい気持ちになる。人生を祝福し肯定したいと思ってしまう。
 
 何故なんだろうか。
 それは、彼ら自身が人生を肯定しているからである。
 何故、彼らは人生を肯定できるのか。
 それは、少年たちが、愛すること、愛されることを知っているからだと思う。

 ちょっと、本の中の一節を引用しよう。

 おばあちゃんは、ぼくらをこう呼ぶ。
 「牝犬の子」
 人々は、ぼくらをこう呼ぶ。
 「魔女の子、淫売の子」
 また、別の人々は、こんな言葉を叩きつけて来る。
 「バカモノ、与太者、鼻くそ小僧、アホ、豚っ子、道楽者、ヤクザ、ゴロツキ、クソったれ、極悪人、殺人鬼の卵」
 これらの言葉を聞くと、ぼくらは顔が赤くなり、耳鳴りがし、目がチクチクし、膝がガクガクと震える。
 (中略)
 しかし、以前に聞いて、記憶に残っている言葉もある。
 お母さんは、ぼくらにこう言ったものだ。
 「私の愛しい子、最愛の子、私の秘蔵っ子、私の大切なかわいい赤ちゃん」
 これらの言葉を思い出すと、ぼくらの目に涙があふれる。
 
 これらの言葉を、ぼくらは忘れなくてはならない。というのは、今では誰一人、ぼくらにこの類の言葉をかけてくれないし、それに、それらの言葉の思い出は切なすぎて、この先、とうてい胸に秘めていけないからだ。 

 

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