フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

シュール・クリエイター 谷口崇

2010年01月30日 14時01分41秒 | 日々の出来事・雑記

 アニメについて詳しいことはよく分からないが、自主制作アニメのクリエイターの谷口崇の作品には、独特な雰囲気がある。
 
 「シュール」の語源はフランス語の「シュールリアリズム」からきている。ダリの絵画はシュールリアリズムである。
 日本語では、非現実的な表現のことを「シュール」というが、正確な意味を捉えるのはなかなか難しい。
 私なりの理解で説明すれば、一つの作品の中に矛盾した価値観が相互に表現されていて、それが調和していたり、成り立っている状態をいうのだと解釈している。その矛盾した感じが、おかしな印象を与える。

 例えば、抽象的でありえない夢の世界を、具体的に細かく描いていくことで、現実として表現するのだが、もともとありえないことなので、変な世界が生まれているような絵だ。「超現実」とか言われる。
 
 谷口さんの面白さは、キャラクターの本人たちは、真剣で真面目に生きているのだが(顔は真面目そのもの)、やっていることは自体はバカバカしくて、真面目と不真面目の矛盾する価値観が相互に表現されているところにある。なんともいえない滑稽さがうまく描かれている。
 

 「森の安藤」

 

「悪いのを倒せ! サラリーマンマン」

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客観的事実と主観的な解釈

2010年01月25日 19時58分36秒 | 社会・政治・思想哲学

 今日、ラジオで阿川佐和子さんが、小沢一郎議員の一連のマスコミ報道について軽くキレていた。どういうことかというと、検察のリークによって新聞などの記事が書かれ、それについて情報操作されているとしたら、一体何を信じればいいのかということである。気持ちはよく分かるが、彼女の思っている「客観的事実が存在する」という前提が本当に正しいのか検討しなければならないだろう。
 ニーチェは「道徳的現象などというものは全く存在しない。むしろ、ただ道徳的解釈のみが存在する」といった。難しい言い回しだが、簡単にいうと、客観的事実など存在しない。ただ、さまざまな解釈だけが存在するということである。付け加えれば、ニーチェは、強い者の解釈と弱いものの解釈があり、結局、強い者の解釈が正しいとされるという。

 黒澤明の「羅生門」を見た人は分かると思うが、同じ出来事でもそれに関わる人に話を聞いてみると、全然違う内容になる。出来事について、人の数だけの解釈がある。

 物事は、視覚という光の信号が脳に作用し、脳の中で作られた出来事だと言う人もいる(観念論者)。突き詰めていくと厄介な哲学的な話になるからここでやめるが、客観的事実が本当にあるのかは、議論のあるところである。

 4億円をめぐる事実が一つだとして、小沢一郎側の解釈が正しいのか、検察側の解釈が正しいのか、それともマスコミの解釈が正しいのかは、誰が一番、綱を引っ張る力が強いかによる。

 美(芸術)はただ感じるもので、人に強制はできない。しかし、正しさ(道徳)は暴力(権力)と利害に密接に結びついている。そこを意識していないと、阿川さんのように混乱してしまうだろう。

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親を買う話 ーまんが日本昔ばなし

2010年01月23日 19時52分41秒 | 日々の出来事・雑記

親を買う話 ーまんが日本昔ばなし




 心の温まる話。
「今飢えている人々は、幸いである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である」という考え方には問題があると思う。
 貧より富のほうが確実にいい。ただこの聖書の言葉が、幸せにとって、貧富は関係ないということを、強調したいのであれば、必ずしも間違ってはいない。
 経済力は幸せの必要条件ではない。しかし、人を思う温かい心は、幸せの必要条件である。

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偏に落ちる

2010年01月18日 23時57分25秒 | 日々の出来事・雑記

 どこにも心を置かぬこと。

 そうすれば心は我が身全体に行き渡り、全体にのび広がっているから、手が必要なときには手の働きを、足が必要なときは足の働きを、目が必要なときには目の働きをかなえ、その必要なところにすべて行き渡っているので、必要に応じて働きをかなえることができる。

 もし、一つ所に定めて置くなら、そこに心を取られて働きが欠ける。

 置き所を思案すればその思案しているところに取られるから、思案も分別も残さず全身に心を投げ捨てて置き、どこにも心を止めず、その所々で働きをかなえるがよい。心を一つ所に置くところを偏に落ちるという

 

 これは禅僧・沢庵宗彭の言葉であり、剣術に関する話であるが、「心を一つ所に置かないということ」はいろいろ応用できる。
 

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セクシーな女性(メス)は損か得か

2010年01月09日 00時09分34秒 | 日々の出来事・雑記

 セクシーなメスは損、ショウジョウバエ  ナショナルジオグラフィック

 カナダのトロント大学の進化生物学者・ロング氏の研究によると、セクシーなメスのショウジョウバエは、魅力に欠けるメスよりも苦労が多いという。メスの魅力は体の大きさで決まるらしいが、体が大きく魅力的だとオスの求愛が殺到するため、実際の産む卵の数は少なくなってしまうとのことだ。

 同氏は損であることの理由を2つ挙げている。
 まず求愛が繰り返されるためメスがエサを探しに行けなくなること。
 もう一つは交尾回数があまりにも多いため、毒性の精液がメスの体内に過剰にため込まれてしまうことである。

 複数のオスが特定のメスに過剰な求愛をすれば出生率が下がり、結果的に戦いに敗れたオスは自分の遺伝子を残せなくなる。進化の観点から、そのようなオスの行為は種の存続にとって好ましくないといえる。
 ほかの種でも、魅力的なメスが、オスの求愛によって同様の被害を受けている。例えば、グッピーの場合、魅力的なメスに対してオスがあまりに激しく求愛するため、メスはエサを見つけることができなくなる。そして、オスの求愛から逃れようとして、捕食動物が生息する危険な水域まで移動することもある。魅力的なメスは命がけでセクハラから逃げているといえる。

 

 

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野獣の方法・ライオンと狐 マキャベリ「君主論」

2010年01月05日 01時08分02秒 | 社会・政治・思想哲学

 君主にとって、術策などを弄せず公明正大に生きることがどれほど賞賛に値するかは、誰もがわかっていることである。
 しかし、われわれの経験は、信義を守ることなど気にしなかった君主の方が偉大な事業を成し遂げていることを教えてくれる。
 この理由を探るには、まず次のことを頭に入れておく必要があるだろう。
 すなわち、成功を収めるには二つの方法があるということだ。
第一の方法は法律であり、第二の方法は力である。第一の方法は人間のものであり、第二の方法は、野獣のものである。
 たいていの場合、人間の方法だけでは不十分だから、野獣の方法も使わざるを得ない。だから、君主は野獣と人間をうまく使い分ける方法を会得しなければならない。

 野獣の振る舞いを学ぶには狐とライオンの双方を見習うべきである。ライオンだけならば、罠から身を守ることはできず、狐だけならば狼に勝てないからだ。狐であることによって罠から逃げられ、ライオンであることによって、狼を追い散らすことができるからである。ライオンであるだけで満足している君主はこの点がよく分かっていないし、狐であることだけで満足している君主についても同様のことがいえる。
 ただし狐的な性質は、巧みに使われなければならない。非常に巧妙に内に隠され、しらばっくれてとぼけて行使される必要がある。人間というのは単純な動物だから、目に見えることに引きずられやすいのだ。だから、だまそうとする者は、だます相手に不足することはないのである。 「マキアヴェッリ 君主論」

 

 

 

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