1987年に他界した俳優、石原裕次郎の二十三回忌法要が7月5日に東京・国立競技場で行われ、約12万人が参列したという。
今回が最後の法要となるとかで、国立競技場に石原家の菩提寺である総持寺の本堂が再現されたそうである。発表時の新聞記事によれば、『高さ約17メートル×長さ約50メートルのほぼ原寸大の“即席”総持寺を、6月28日から6日間かけて競技場の聖火台真下に“建立”。鉄骨200トンで屋台骨を組み、木造で外装を施し、屋根には1個500万円相当の鬼瓦などを装飾。そして、「裕次郎さんの魂なくして寺以外での法要はありえない」と総持寺の関係者を説得し、2メートル80にもおよぶ本尊の釈迦如来像を同所に運び込む』ということだった。総工費については「大きな映画1本くらい軽く作れる」という金額は、推定20億円だとか。
開場は午前7時、セレモニーは9時からだそうだが、その様子はスポンサーのテレ朝が午後3時半から独占生放送した。おそらく億単位の金が流れたのであろうが、さすがに日曜日10時からの「サンデープロジェクト」を中止してまで生中継しなかったのは、テレ朝にもまだ報道機関としての使命感・倫理感を失ってはいなかったということだろう。しかし、前日は午後7時~11時過ぎまで裕次郎オンパレード、視聴率が稼げるなら何でもいいという商売根性がうとましい。
裕次郎ファンにはお叱りを受けるかも知れないが、往年は熱烈な裕次郎ファンだった私だから、あえて言わせていただきたい。
私にとって石原裕次郎は青春そのものといっていいくらい、夢中になった時代もあった。だが、すでに私の中では裕次郎は過去の人、時折、彼の歌を聞いて往時を偲んでいる。「彼の年忌法要をファンとともに…」という企画に異論はない。が、いい歳をした大人たちが頭を付き合わせ考え出したのがこんな馬鹿げたものだとは…、世間の常識を逸脱したこんなセレモニーしか思いつかなかったのかとあきれて、テレビを見る気もしなかった。裕次郎人気にぶら下がって石原軍団をアピールしたいのだろうが、こんなやり方で裕次郎を“偶像化”するのはやめてもらいたい。
お寺もお寺である。過去に、こんなことにご本尊を貸し出したというお寺の話は聞いたことがない。札束で頬っぺたを張られたのか、このお寺の他の檀家さんたちはどう思っているだろう。それよりも、3分割してまでこんなショーまがいの法要に引っ張り出されたご本尊さまが一番驚いていらっしゃることだろう。
葬儀ならともかく、年忌法要は本来ならば故人を偲ぶ厳かで神聖な行事のはず、身内と関係者で静かにやればいいことである。また、ファンもそれぞれが静かに裕次郎を偲ぶというのが本当のファンではないだろうか。
これまでにも何度か年忌法要が行われ大金が使われたようだが、今回は総額20億円といわれるこれらの大金を、もっと生きた使い方はなかったのだろうか。裕次郎が生きた証となるものが何かあるだろうかと、なんだか虚しさを感じた。
過去に地方の災害発生時には石原軍団総勢で各地に出向き、ボランティア活動をやってきたことに対して、たとえ売名行為だとしても世間は高く評価していた。今回の20億円というお金を、例えば、交通遺児など片親で、勉強したくてもできない子どもたちや、親に捨てられ児童施設で暮らす子どもたち、また、色々な分野において苦学している若者たちへの教育的支援など、人のために広く有意義に使われていたらどんなに感動しただろう。「裕次郎基金」でも設立して、社会のおかげで得た利益は広く社会に還元する。それが裕次郎の“偉業”としていつまでも人々の記憶に残るではないかと…。よそ様のすることに大きなお世話であるが、へそ曲がりのババは残念でならない。
読売新聞に、『今後、誰もがなしえないであろう国立での二十三回忌法要。裕次郎の“偉業”は、再び未来へと語り継がれる』と書かれていた。他の新聞も似たり寄ったりの記事だったが、「誰もがなしえないであろう」ではなく、バカバカしくて「誰もやらないだろう」である。とかく世間の風評次第で迎合しおもねった記事を書くマスコミ、一流新聞の感覚がこれかと情けなくなった。
今回が最後の法要となるとかで、国立競技場に石原家の菩提寺である総持寺の本堂が再現されたそうである。発表時の新聞記事によれば、『高さ約17メートル×長さ約50メートルのほぼ原寸大の“即席”総持寺を、6月28日から6日間かけて競技場の聖火台真下に“建立”。鉄骨200トンで屋台骨を組み、木造で外装を施し、屋根には1個500万円相当の鬼瓦などを装飾。そして、「裕次郎さんの魂なくして寺以外での法要はありえない」と総持寺の関係者を説得し、2メートル80にもおよぶ本尊の釈迦如来像を同所に運び込む』ということだった。総工費については「大きな映画1本くらい軽く作れる」という金額は、推定20億円だとか。
開場は午前7時、セレモニーは9時からだそうだが、その様子はスポンサーのテレ朝が午後3時半から独占生放送した。おそらく億単位の金が流れたのであろうが、さすがに日曜日10時からの「サンデープロジェクト」を中止してまで生中継しなかったのは、テレ朝にもまだ報道機関としての使命感・倫理感を失ってはいなかったということだろう。しかし、前日は午後7時~11時過ぎまで裕次郎オンパレード、視聴率が稼げるなら何でもいいという商売根性がうとましい。
裕次郎ファンにはお叱りを受けるかも知れないが、往年は熱烈な裕次郎ファンだった私だから、あえて言わせていただきたい。
私にとって石原裕次郎は青春そのものといっていいくらい、夢中になった時代もあった。だが、すでに私の中では裕次郎は過去の人、時折、彼の歌を聞いて往時を偲んでいる。「彼の年忌法要をファンとともに…」という企画に異論はない。が、いい歳をした大人たちが頭を付き合わせ考え出したのがこんな馬鹿げたものだとは…、世間の常識を逸脱したこんなセレモニーしか思いつかなかったのかとあきれて、テレビを見る気もしなかった。裕次郎人気にぶら下がって石原軍団をアピールしたいのだろうが、こんなやり方で裕次郎を“偶像化”するのはやめてもらいたい。
お寺もお寺である。過去に、こんなことにご本尊を貸し出したというお寺の話は聞いたことがない。札束で頬っぺたを張られたのか、このお寺の他の檀家さんたちはどう思っているだろう。それよりも、3分割してまでこんなショーまがいの法要に引っ張り出されたご本尊さまが一番驚いていらっしゃることだろう。
葬儀ならともかく、年忌法要は本来ならば故人を偲ぶ厳かで神聖な行事のはず、身内と関係者で静かにやればいいことである。また、ファンもそれぞれが静かに裕次郎を偲ぶというのが本当のファンではないだろうか。
これまでにも何度か年忌法要が行われ大金が使われたようだが、今回は総額20億円といわれるこれらの大金を、もっと生きた使い方はなかったのだろうか。裕次郎が生きた証となるものが何かあるだろうかと、なんだか虚しさを感じた。
過去に地方の災害発生時には石原軍団総勢で各地に出向き、ボランティア活動をやってきたことに対して、たとえ売名行為だとしても世間は高く評価していた。今回の20億円というお金を、例えば、交通遺児など片親で、勉強したくてもできない子どもたちや、親に捨てられ児童施設で暮らす子どもたち、また、色々な分野において苦学している若者たちへの教育的支援など、人のために広く有意義に使われていたらどんなに感動しただろう。「裕次郎基金」でも設立して、社会のおかげで得た利益は広く社会に還元する。それが裕次郎の“偉業”としていつまでも人々の記憶に残るではないかと…。よそ様のすることに大きなお世話であるが、へそ曲がりのババは残念でならない。
読売新聞に、『今後、誰もがなしえないであろう国立での二十三回忌法要。裕次郎の“偉業”は、再び未来へと語り継がれる』と書かれていた。他の新聞も似たり寄ったりの記事だったが、「誰もがなしえないであろう」ではなく、バカバカしくて「誰もやらないだろう」である。とかく世間の風評次第で迎合しおもねった記事を書くマスコミ、一流新聞の感覚がこれかと情けなくなった。
だからお寺によっては普段は一般には拝観できなくって、数年あるいは数十年に一度のご開帳なんて儀式もあるくらい貴重だと思うんです。
だからこのお寺様、総持寺ですか、何かの理由があって広く多くの人に対してご開帳するならそれはそれで理解もできます。
でも何万人集まったとかのこの法要の参列者のほぼ全てはご本尊目当てではなくただ1人の個人(故人)のために集まったわけですよね。
あきらかに行き過ぎだし他の信奉者に対しても失礼にあたると思いました。
そしてTV局、こんなんだからマスコミ不信が増大すると思うのは私だけでしょうか。
馬鹿らしいと思ったので全く見ませんでしたが。
>石原裕次郎の二十三回忌法要が7月5日に東京・国立競技場で行われ、
>、『高さ約17メートル×長さ約 云々、何かやってるな~ぐらいは分かってはいましたが、そういう事でしたか!!今朝の朝日の新聞も見ました、凄い人…
元々私は裕次郎世代でしたが、若い時の私の男性の好みからは枠外でしたので友達の騒ぎ方に自分が変わってるのかな~なんてその思いが今に至っています^^
人は何を思ってこのイベントに参加しているのか、宮崎の知事に集まる年配の女性たちの騒ぎ方や石原軍団にしがみついている俳優たち、マスコミよくわからない自分です
ニュースで『裕チャーン』って叫んでいる渡哲也に何だか私が恥ずかしく思う私が又変ですね~
裕次郎ファンの方本当に御免なさい
でもこの世の中の「なんでかな~」何て思わないで、受け入れなきゃいけないのでしょうね、可愛く年をとる為にも
私は石原裕次郎の映画や歌は好きでしたが、冷静に考えると(笑)今ではまったく過去の人だというのは同じ考えです。
歌を聴けば当時を思い出して懐かしさはありますが・・。
でも、今の時代にこんなことをするとは、裕次郎ご本人が「石原軍団は何をとち狂ったのか」といちばんガッカリしているように思います。
そんなお金が有ったら「裕次郎基金」でも設立する、という提案、大いに賛成いたします。
石原軍団も裕次郎自身があたかも望んでいるように好き勝手な解釈をつけていますが、こんなのあの裕次郎自身が望んでないと思うのです。本尊移転は前回の法要に集まった人々が多すぎたからという理由のようですが、それは明らかにこじつけ。前回だって人集めをするようなあざとい企画をしたからじゃないですか。そして更なる今回のばかげた大イベント、誰が主導して企画したんですかねぇ。
それに本来こういう意見は、多くの報道側に、もっと提言として存在していいはずです。それが、どこもかしこも同じような報道ばかりとは…。メディア規制でもされているのかなぁと思いたくなるほど、画一的記事ばかり。
なんとも困った人達です。
僕はこのイベントによって、生前の裕次郎の本来の人格をも歪曲させ、もっていた品格を落としてしまったような気がしてなりません。
太陽にほえろや西部警察をリアルタイムで見ていた世代の者です。
今回の二十三回忌、荒唐無稽なだけに否定的意見はあって当然だと思います。裕次郎さんがこれを望んでるか、といえばたぶん望んでないでしょう。
あれだけのことをするだけのお金があれば、ハンディキャップを抱えてらっしゃる方へ差し伸べることだってできるでしょう。
ただ、彼らのやっていることはエンターテイメントです。
それは葬式でも変わりません。本当に葬式らしくしたいなら、はなから寺で誰も集めず、しめやかに行えばいい話です。
それは裕次郎さんも天国でおわかりのこと思います。
全てのエンターテイメントが小さくせこくなってしまってる昨今、芸能を提供する側にはこういう派手な(ある意味無駄な)ことをやっていってほしいと考えています。
エンターテイメント自体、福祉からはかけ離れてるのですから。これは「お祭り」でしょ?
芸能人が芸能にいくら派手にお金を湯水の如く使っても、福祉を必要とする人にはきちんと福祉が受けられる、それは行政のすることです。
決して芸能人のすることではありません。
いいんじゃないですか?こういうのも。
批判することを止める事はしませんが、スタンスとして、こういうことにあまり批判的なのもどうかと思いますよ。
「お祭り」を趣旨ごと批判する人はあまりいないと思います。
確かに過去の人ですが、プレスリーやモンローと同じく何か特別な輝きを持った人だったですね。
私は、黒部の太陽が印象的だったのですが、この記録映画は本人の遺言でビデオやDVDになっていません。
そんな裕次郎さんが、このお祭り騒ぎを喜んだでしょうか?
移動さされたお釈迦様にあの世で会わす顔が無いのではないでしょうか。
まるでショーそのもの、さぞかしご本尊様は居心地がわるかっただろうと思います。
それにあの200人の僧の行列、お金があれば神仏でも意のままにできる世の中なのですかね。
私と同年代の老人が徹夜で待ったなど、得々とテレビでしゃべっていたり、また、裕次郎を全く知らない若者が多かったと言うのも理解に苦しみますね。
同感です。渡哲也が「裕ちゃ~ん」と叫んでみんなが大合唱しているのを見て、関係ない私が恥ずかしさに背筋が寒くなりました。
多くのファンが集まったからと言って、記念品ほしさの人もいれば、興味本位の人もいるでしょうね。ただ人がたくさん集まれば成功だと満足したのでしょうか。
でも、マスコミの力って怖いですね。
私が裕次郎の奥さんなら、こんなセレモニーは反対しますね。
「徹子の部屋」で裕次郎が出た番組を再映してましたが、あまりにぎやかなことが苦手でシャイだったと知って、これを裕次郎が喜んでいると思っている奥さんたちが滑稽にさえ見えました。
当初は15万人だ、20万人だといわれていたようですが、ちょっと期待はずれだったようですね。
記念品を配るなど大きく前宣伝して人を集めて、それが裕次郎の人気だと勘違いしているように思います。
天下のNHKが7時のニュースで取り上げたことにも驚きました。石原軍団ってそれほど影響力があるのでしょうかね。
マスコミはみんな同じように持ち上げた記事ばかり、裕次郎って確かに人気はありましたが、彼は国民栄誉賞をもらっていませんし、英雄でも何でもありません。
こんなバカ騒ぎをして満足しているようなら石原軍団も先が見えています。