1995年1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」から今日で丸20年。阪神・淡路大震災の記録写真はまるで戦争映画の1シーンを見るようで鳥肌が立ってくる。写真は1000枚以上あるそうだが、貴重な写真の数々はどれも想像の域をはるかに超えている。
毎年1月17日になると、私はいつも反省することがある。当時、県北の津山市に住んでいたが、あの日の午前5時46分、異様な音に目が覚め、続いてやってきた大きな揺れになすすべもなくベッドの中でじっとしていた。周りに倒れるようなものはないが、宮付きベッドだったので、頭の上の棚に置いていた電気スタンドと目覚まし時計が落ちてこないように、両手で支えて揺れがおさまるのを待った。そして揺れがおさまると、また寝てしまったのである。震度は3強だったようだが、あとで「あの状況でまた寝るなんて…」と、姉にあきれられた。
8時前に起きて、ニュースで阪神一帯で大きな地震が発生したとは分かったが、どこのテレビ局もいつものようにモーニングショーを放映中で、まだ詳細な災害情報は報道されていなかった。外出の予定がなければ引き続きニュースを見ただろうが、その日はスイミングの日。9時過ぎに出かけ、午後1時過ぎに帰宅するまで、あんな大惨事になっているとはまったく知らなかったのである。ただ、プールに来ている人が少ないなとは思ったが、いつものようにのん気に泳いでいたのだからあきれる。
帰宅してテレビをつけてびっくり。テレビ画面に映る被害状況は悲惨を極め、まるで戦後の焼け野原そっくり。そうとも知らずのん気にスイミングで遊んできた自分が恥ずかしくもあり、申し訳なく思った。プールに来なかった人たちは、きっと事の重大さに驚き、神戸や大阪に住む親類縁者たちの安否確認に必死だっただろう。
神戸は私にも馴染みの深い街である。大震災の20年くらい前、弟一家が東灘区の小さなアパートに住んでいたことがあり、その東灘区が最も被害が大きかったと聞いて驚いた。子ども達が小さかったころはよく訪ねていたので、行き帰りに三ノ宮駅前の商店街あたりでショッピングを楽しんだものである。靴店がたくさんあって、靴はいつも三ノ宮で買っていた。その後、明石市に分譲マンションを購入したので、私が三ノ宮へ足を運ぶことは少なくなった。
あの朝、弟は背の高い大きな本棚が倒れないようにずっと手で支えていたという。冷蔵庫の上に置いていた電子レンジが落ちるし、食器棚はめちゃくちゃ。だが、屋上の水槽タンクにヒビが入り断水、外壁に亀裂が入ったくらいで、建物は無事だったというのは本当に運が良かった。
その2日前の1月15日は弟の長女の成人式だった。長女の晴れ姿と家族写真を撮るとかで、大学生だった長男が広島から帰省。その2日後の大惨事である。記念写真は、写真館の倒壊でダメかもしれないと思ったそうだが、幸いなことにフィルムは無事だったそうで、何ヶ月もの後、忘れかけていた頃に写真が届いたという。
見事に復興を成し遂げた神戸を訪れたのは大震災の10年後ぐらいだったか。その復興の早さに驚いたものである。大震災から20年、当時の惨状は今ではその片鱗もない。だが、復興住宅入居者は65歳以上が半数を超え、この20年間で「孤独死」は1000人を超えたという。また、復興住宅は都市再生機構から自治体が借り上げたもので、契約期間20年を理由に退去命令が出ているという。今さら住み慣れたところを追われて、どこへ行けというのだろうか。私がその立場だったら、もう生きていたくない、そう思うだろう。形あるものは元に戻せても、人々の心の痛みや傷を癒すのは容易なことではない。
何時何処で起こっても不思議の無い地震列島日本国。
自助、共助、被災者の悲しみを忘れない、日常にさり気なく取り組める社会をと願っています。
復興住宅もそのまま住めるようにできないものでしょうか。そうでなくても孤独死が多いというのに、見知らぬ土地でどう生きてゆけばいいのか、お気の毒でなりません。わが身に置き換えて考えると、生きる意欲が萎えてきます。
これからもいつ何時起こるかもしれない地震、家庭で防災用具を備えておくだけでいいのでしょうか。
阪神・淡路大震災が起きた時、わたしはまだ11歳でした。
登校して教室に入った時、テレビが倒れているのを見て驚いた記憶があります。
20年たっても、家族を失った悲しみが癒えることはありません。
東日本大震災からもうすぐ4年になりますが、年々震災の記憶が薄れていきそうで怖いです。