東京へ向かう新幹線の車中、窓外を後方へ一定の流線を描いて流れる雪、一面は冷たく白い雪景色だった。心が凍るような帰国となった。デリー・メインバザールで帰国の為に買った安物の革ジャンとジーンズそれにハイネック、1月の日本は寒いだろうと厚地のシャツを選んでいると
「そのサイズが丁度いいわよ」とマリー
保釈後、バザールへ買い物に行くと体重計があった。それに乗って50パイサ・コインを投入口から入れると窓口から鉄道の厚紙切符らしき物が出てきた、48㎏と印字してあった。ホテルへ戻ってシャツを着てみる、いつもと違う、何が?よく見るとボタンの列が反対側になっていた、女性用シャツだったのだ。48㎏のぼくに合う男性用シャツはなかった、それだけのこと気にするはない。
日本へ送ったスタッフ10g、銀行口座残高700万、これで薬物による禁断と後遺症の深い闇から抜け出し社会復帰しなければならない。
東京に住むことはできない、千葉のK、埼玉のK、駅前にたむろし網を張っているイラン人に依頼すればどんな薬物でもアレンジしてくれる。苦しむ禁断者はどんな手段を使ってもヤクを手に入れようとする。ぼくは何度も同じ事を繰り返していた。
デリー精神病院、退院するインド人に
「おまえ、外に出て止められるのか」
「おれには家族がある」
福岡へ行く決心をした。
旅の追想という言葉が浮かびなんとなく書いてみた。先の構想などなく毎回、手書きとなる。書き続けられるだろうか、何度も書いては訂正するを繰り返す、納得できる文章なんて書けないだろう。書き終わったとき、次の文章について、三通の手紙を書くが浮かんだ、どうなるのか自分でも分からない。
東京の友人からチョコ(チャラス)を送ったと電話があった。
千葉k、埼玉kは1996年頃のことである、当然のこと、今は変わっているのではないかと思っている。