デリー在日本大使館
逮捕された翌日、パールガンジ警察署に二人の大使館員の面会があった。
「あなたのケースの場合、インド判例によればミニマムで10年の刑に相当します。良い弁護士を選任すれば少しは刑が短くなるかもしれません」
猛暑のデリー、10年生き延びて釈放される可能性はない、絶望的だった。
薬物中毒者の治療監房で50日、その後外国人収容監房へ移送された。そこで、顔見知りのジャンキーやプッシャーと会う。トミーのケースはノープロブレム、来年の春には釈放される、彼らは楽観的な判断をぼくに言った。記録的な猛暑を乗り越えた初秋、状況は一転し保釈へ進んだ。その時、大使館からの手紙
「どういう事情であろうと大使館、大使館員は個人の身元保証にはなれない」
保釈後、フィリップスからジャケットやネクタイとワイシャツを借りパスポート申請のために写真を撮りマリーと大使館へ行った
「お分かりでしょう、ここであなたにパスポードを発給できないことを・・・」
保釈中で裁判は進行している、そんなぼくにパスポートは発給できない、当然のことだった。デリー精神病院で治療が進みぼくは現実を理解し始めていた。マリーは逃亡に必要な情報を集め二人で計画を練った。Bさんの面会のとき、ぼくは逃亡計画のすべてを話した。退院しデリーに留まれば再び薬物に溺れる、薬物を断ったいまネパールへ逃亡し帰国する。
「それしか方法はないでしょう」Bさんは黙認された。
12月29日 退院手続きが遅くなり大使館に着いたのは暗くなっていた。28日、大使館は閉館されている がBさんは待っていてくれた。事務的処理が終わり、お世話になりました、とぼくがお礼を言うと
「ご無事で・・・」危険を伴なうぼくの逃亡について危惧されての言葉だ。
そして執務室を出ようとするぼくに
「無事帰国したら手紙を下さい」と付け加えられた。
カトマンズ在日本大使館についての推論はいずれ・・・
雨が降っている 南風が強い 暴風警報が発表された
ベランダの飛びそうな物は部屋の中に入れた
また渡船の桟橋が壊れるかもしれない