マリーは逃亡に必要な情報を集めてくれた。そして二人で計画を練った。Bさんの面会のとき、ぼくは逃亡計画のすべてを話した。退院しデリーに留まれば再び薬物に溺れる、薬物を断ったいまネパールへ逃亡し帰国する。
「それしか方法はないでしょう」Bさんは黙認された。
12月29日 退院手続きが遅くなり大使館に着いたのは暗くなっていた。28日、大使館は閉館されている がBさんは待っていてくれた。事務的処理が終わり、お世話になりました、とぼくがお礼を言うと
「ご無事で・・・」危険を伴なうぼくの逃亡について危惧されての言葉だ。もし国境で逮捕され再び刑務所に収監されるという最悪のシナリオになったとしても
「どういう事情であろうと大使館、大使館員は個人の身元保証にはなれない」
という意味が含まれていた。
執務室を出ようとするぼくに
「無事帰国したら手紙を下さい」と付け加えられた。
カトマンズ在日本大使館でDさんに会った。二日間、ネパール出入国管理事務所での経緯を話した。よほど憔悴した顔をしていたのだろう
「それは大変でしたね」と慰めてくれた。その後、Dさんは
「ネパールのボーダーにレコードがないというのは出入国管理事務所の責任であって、パスポートの盗難に合い苦労しているあなたは被害者じゃないですか。その被害者のあなたに速やかにビザを発給しないのはおかしい。早く連絡してくれたらよかったのに」
と言ってくれた。
「明日もう1度ここへ来て下さい。ビザ収得に必要な書類は用意しておきます。」
デリーではぼくの裁判が続いていた。だが、ここはボーダーを超えたネパール、一人の日本人旅行者として大使館は対応することが可能になる。
Dさんの言葉にBさんの意思を感じた。無事、訪ねてきたら速やかに帰国させて下さい。
無事帰国しました、ありがとうございました。
この文面だけ、それ以上、書く必要はなかった。デリー在日本大使館のBさんへ手紙を出した。
かなりの文章はブログからの引用です。構成だけ変えています。
次回はフランス人、クリスからの手紙について・・・うぅ~