ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅         マリー・・・・・17

2012-01-31 | 2部1章 マリー


 裁判所の手続きは簡単に終わり何時ものように郵便局に寄った。手紙を取ってくるからと一人で郵便局へ入って行くマリーを見ながら、ぼくは近くの屋台でミネラルウオーターを買った。何処でも一本、十ルピーが相場なのだが十二ルピーだと言う、交渉するのが面倒臭くて言い値で払った。ぼくが黙っていれば良かったのだが戻って来たマリーが
「トミー幾ら払ったの?」
「ちょっと高いと思ったけど、十二ルピー払った」 と、言ってしまった。
屋台のおやじと客らしいインド人が二名、そこへ彼女は怒鳴り込んだ。又、ひと悶着起こしてしまった。女性だと思って甘く見たのかインド人達はニャニャしている、お金を戻さないのならと、アイスボックスからミネラルウオーターを一本抜き取り彼女は戻って力車に乗り
「チョロ」 と、力車の運転手に言った、がスタートしない
「チョロ、チョロ」
運転手は両方の間に立たされ苦しい立場だ。思案しながら相互の顔を見比べていたが、しょうがないという顔をしてマリーが持っているミネラルウオーターを取り、屋台に行き二ルピーと引き換えにボトルを戻した。インドを旅すると良くある金銭のトラブルだ。やっとオート力車はパテラハウスへ向かって出発した。
 パテラハウスは高裁だと聞いているが正確な事は分からない。表通りから入り前庭を歩いて行くと左側にある二階建てがそうだ。オールドデリー裁判所と較べると随分と小さい。表玄関から入り廊下を真っ直ぐ突き当たりまで進むと左側が小法廷、廊下には長椅子が置かれ待合所になっている。法廷内にはピーター、チャーリー、セガの三名が入っていた。ぼくが中へ入る振りをすると入口で止められた。関係者以外の立ち入りは禁止されているのだろう。法廷内に傍聴席用だろうか椅子が並べられているが、日本のように裁判関係者席と傍聴席が完全に分けられている訳ではない。
「ここで待っていてくれる」 と言ってマリーは表へ出て行った。
ぼくは煙草でも一服しょうと玄関へ向かって歩いていると、刑務官に連れられて玄関から入って来る男に気付いた。逆光になって男の顔がはっきりとは見えない。二人の間合いが詰まった瞬間、立ち止まった男はぼくの手を強く握り締めた、ボブだった。
「ボブ」  ぼくは両手で彼の手を握った。
「大丈夫だったんだな、ボブ」
うん、うん、と二度頷きぼくの目を見詰めている。刑務官に再度、促がされぼくの手を放しながら法廷へ入っていくボブ。彼は尚もぼくの目を見続け又、一つ頷いた。彼が強く握り締めたぼくの手に彼の気持ちが残っている。
「生きていて良かった」 彼の目はそうぼくに語った。
「良かったな、ボブ」
だがボブは一言も話さなかった、話せなかったのか?鉄格子に吊るしたロープが彼の首に喰い込んだのか、ぼくはボブが生きている事を知った、それだけで十分だ。ぼくはボブに会った事をマリーには話さなかった、これ以上の事を知りたくなかった。
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ジャンキーの旅         マリー・・・・・16

2012-01-30 | 2部1章 マリー
  

 自分の事なのにぼくは裁判について何も知らない。
「トミー用意は出来たの?」
毎朝、スタッフを吸ってのんびりしていたぼくにとって裁判所出頭日は忙しい。
「ほら、髭を剃ってよ。服はどれを着ていくの?」
「これで大丈夫だよ」
「何が大丈夫なの、裁判官の印象が良くないわ」
「だったら帰りにメインバザールに寄ってジィーンズとTシャツを買おう」
「そうね」
毎週、月曜日の朝、いつも愚図々しているぼくに彼女の言葉はきつくなる。ぼくの娘ほどにも年齢差があるのにマリーはいつもぼくの保護者のように振る舞い、何も出来ないぼくはそれに従うという関係が出来上がっていた。アパートを出ると直ぐ四つ角がありそこで客待ちをしているオート力車と交渉するが料金が高い。大通りへ歩きながら次々と交渉しても金額が折り合わない、少しくらい高くても良いじゃないかとぼくは思うのだが彼女は妥協しない結局、交通量の多い大通りまで10分程歩かされてしまった。オート力車の運転手にとってみれば料金の事もあるがあまり行きたくない方面というのがあるのではないだろうか、やっとオールドデリー、ティスハザール裁判所へ行ってくれるオート力車に乗る事が出来た。
 
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ジャンキーの旅       マリー   15

2012-01-28 | 2部1章 マリー
 ショッカンの居場所を探してくれとフィリップスに頼んでいたが奴はもうデリーにはいない、ボンベイ(ムンバイ)へ行ったと教えてくれた。ぼくが保釈される事を知った奴はボンベイへ逃げた。考えて見ればそれで良かったのかもしれない。ぼくの目の前をちょろ々と動かれたらインディアン・マフィアを使ってでもけじめをつけ様と思っていた。しかし仕返しは相互に繰り返し泥沼化することになる。デリーを離れたショッカンに二度と会うことはないだろう。
 ぼくの予定がない日だけマリーは学校へ行っているようだ。コンピューターの勉強をしていると彼女は言っているが、何処の何という学校なのかぼくは知る理由もなかったし聞きもしなかった。アパートの出入り口である一階と二階のドアはキーがないとロックが出来ない。スペアキーがないので如何するか話し合った。マリーを学校へ送り出し中から鍵を掛けると、二世帯分の広い二階の奥の部屋に居るぼくに彼女が帰って来た事を知らせる方法がない。インターホーンのような文明の利器はインドの高級住宅といえどもなかった。二階にぼくを置いて外から鍵を掛けて彼女は学校へ行く事にした。昼間、ぼくは外出する用はないし行きたい場所もない、問題は昼食だがバナナやコーンフレークに牛乳を入れて食べるくらいで十分だ。
 夜、メインバザールの商店がシャッターを閉めるとその前に夜店がオープンする。いつも同じ場所で本が入ったダンボールを五~六個並べて商いをしているのは顔馴染みになった古本屋だ。ぼくはいつも文庫本を四冊だけ買う。店の親爺にとって日本語の本の内容など如何でも良い、本の大きさとページ数によって四十~六十ルピーの値段を付けている。初回、文庫本を四冊買うと約二百ルピーを支払うが次回、読み終わった本を持って行くと半額で引き取ってくれる。カトマンズのタメルには大きな古本屋が何軒もあるがシステムは全く同じだ。新たに四冊を買う時、前の四冊を戻すと支払いは百ルピーで済む。ページ数の多い本、特に新書版で上下二段組になった本はつい嬉しくなって買ってしまう、時間は幾らでもあったから。マリーが学校へ行った後、静かな部屋で日がなスタッフを吸っては本を読んでいた。  
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・24

2012-01-26 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
 
 今回の粉の抜けは1ケ月では終りそうにない。前回、第4刑務所内のアシアナでは約7週間、入所して粉を断ち治療を受けた。ちょうど一年前だった。その時点ではまだ完全に禁断から抜け切ったとは思っていない。アシアナでの治療を終え第1刑務所の第2収監区に移送された。ぼくの依存症は当然ながら完治していない。1度、日本で完全に抜き切った時の感じ「あ~抜けた」という思いまでいっていなかった。その夜、ショッカンが持っていたスタッフをぼくは吸った。完治しないで今回のスタッフと繋げていたのだとしたら、3年間続いていることになる。今回もし1ヶ月入院したとしてもそれだけでは完全に抜け切れない。退院後、即帰国すれば切り抜ける事が出来るだろうが、帰国しないでメインバザールに残れば同じ事を繰り返す。
 ドクターには早く退院したいと言ってあるが出してくれそうにない。ぼくは以前、定期的にスタッフを断っていた。スタッフの量と日数を長期化させないためだ。何度も自分自身の判断でスタッフを切った経験があるので今、自分の症状がどの辺りか分かっている。薬が強いので身体の痛みは殆ど感じない。昨夜、2度トイレで目が覚めているのだが早朝まで眠っていた。今、病院の薬を止めたら酷い身体の痛みと不眠に苦しむはずだ。後1週間ぐらいで身体の痛みは背中から肩と首筋辺りまで小さくなる。そうなればもう入院している必要などない。本当は1ヶ月、年内は入院していた方がベターだ。それはぼくも分かっている、外部と隔離しておけば粉は吸えない。強制的な隔離を続けていけば薬物中毒症は再発しない。だからと言って一生病院に隔離する事は出来ない。薬物の治療が終れば危険な街に患者を放すしかない。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・23

2012-01-25 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録


  12月14日(木)(入院して11日)
 
 毎日、変な人間が病院にやって来る。朝の日光浴を終え自分の病室に戻ると机が持ち込まれ女医が女性患者の問診をしていた。
「ご迷惑でしょうか?」
ご迷惑に決まってんだろう、おいらは病人なんだよ、その病人の病室で診察なんか出来るの?え~女医さん、と言いたかったが
「どうぞ」と言ってしまった。あの変な精神科で使う絵を見せられた患者は
「英語でお願いします。ヒンディ語は嫌いだから」
あのね~英語でも何語でも構わないけど、あんたのおつむが壊れてんじゃないの?
「この絵は何に見えますか?」
女医は患者の要望に合わせて英語での問診を続けた。何だか変だなこの病院は。ぼくは薬物中毒でちょっと精神回路に変調をきたしているようだが、無茶苦茶になっているわけではない。そのぼくから見てもこの女性患者の雰囲気は収拾がつかないんじゃないの。ぼくは煙草を持って前庭に行った。少し雲が出て風が冷たい。


 
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・22

2012-01-24 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録


 1年が過ぎてしまった。まあ良くはないが一つの経験ではある。カトマンズでの予定が全く狂ってしまう。アッサン・トーレで適当な空き店舗があり、借りる交渉までしていた。ぼくがデリーから戻ったら具体的に進めようとスンダルと話し合っていた、ネパール独特の民芸品やアクセサリー等のお土産店でもやろうと。スンダルにも悪い事をしたな、彼はまだぼくを待っているだろうか?日本では心配を通り越して怒っているだろうな。しようがないよ、こうなってしまっているんだから。まず何から糸を解していけば良いのか。問題は簡単だ、まず第一に病院を出る事、次は裁判を終らせる、最後にお金と新しいパスポートを大使館から受取る、この3点だと思う。整理すればそうだろう。たった3点なのだが簡単にはいかない。退院はドクターと大使館が決める。裁判の審理はインド人裁判官がやっているが、いつになったら終るのか。パスポートの再交付は大使館の権限だ。どれ1つとってみても自分の意志では決められないのだ。あなた任せの決定に従うしかないという、弱い立場にぼくは立っている。   
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・21

2012-01-23 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録


 今回は本当に失敗した。白を切り通さなくっちゃ、例え相手に嘘だと思われても。白を切り通せば最後にはぼくのお金なんだから、大使館はぼくにお金を渡さざるを得なかっただろう。裁判所にパスポートを没収されているぼくは個人的に日本からの送金を受け取る手段はなかった。
「送金は大使館口座を使って良い」
厚意に感謝して送金していたのだがそこで疑われこのざまだ。要注意人物のお金の流れを100パーセント大使館はキャッチしていた。好いように手玉に取られたぼくはアホとしか言いようがない。去年、捕まったのがケチのつき始めだった。カトマンズを出る時、何故だか分からないが嫌な気持ちがちらっとあった。予感と言うか、虫の知らせと言うか、その上インドではペストが流行って危険だという、カトマンズの新聞は写真入りでデリーのペスト騒動を報道していた。どれもこれもぼくにとっては悪い兆候ばかりだった。何度もデリーへ買出しに行っていたがそんな変な感じを持った事は今迄一度もなかった。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・20

2012-01-22 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
   12月13日(水)(入院して10日)
 
 毎日、多量の薬を飲んでいる。薬物への欲求を抑え破壊された脳神経の修復のためだろう。長期にわたり蝕まれた神経の回復はそれを使用した年月に比例すると言われている。アシアナで50日間スタッフを断った以外約3年間、多量のスタッフを吸い続けてしまった。ダメージを受けたぼくの脳神経は完全には回復しないかもしれない。一日々、体内から薬物を出す、長い時間と自分との闘いだ。
 入院して10日になるのか。何だか何もかも嫌になった。面白い事など何一つない。身体の痛みは薬で抑え切っている。まだふらふらするし頭もぼうとしているが全体的にはかなり良くなってきていると言える。それだけにここに居ることが耐え難く感じられる。今週は誰もこない。大使館と話をして、とにかく早く病院を出るようにしたいのだが、来ないのだから話のしようがない。気分は落ち込むばかりだ。気分が重い。まだ刑務所の方が楽しかった。どうしたものか、何か良い方法はないものか。マリーも今週は顔を出さない。それにしても次の裁判所出頭はどうするのか、18日の月曜日だが。出頭しないとペナルティーとして7万5千ルピーを裁判所に支払わなければならないとマリーが言っていたように思う。裁判の事もあるんだ、この件についてマリーは考えてくれているだろう。まあ来週月曜日ぐらいなら何とかぼく1人でも裁判所へ行けなくはない。病院は何と言うだろうか、ぼくを1人で出すと逃げるかもしれないと思うだろう。
 病院の門の扉は高さ1・5mぐらいの鉄格子で出来ている。観音開きの片方の扉は閉めたままで、もう一方だけ人の出入りで開閉する。患者が逃げ出さないように、見張りの髭を生やした大男の門番がいる。塀もゲートも高くはないがここは刑務所と同じ様なものだ。外の社会と完全に隔離されている。恐かった髭の門番は最近になると「ナマステ」とぼくに挨拶をしてくれる。ぼくがビリを吸っているのを見ても文句を言わない。ぼくの病状がある程度安定してきたとドクターは判断したのだろうか、いつの間にか看護士もつかなくなった。ぼくがトイレに入ってもドアーを開け看視を怠らない鬱陶しい奴だった。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・19

2012-01-21 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録


 かなり強い薬を処方されていと思う。夜中にトイレで目が覚める事があっても大体、朝の5時頃まで眠り続けているようだ。強い薬の副作用があるかもしれないがアシアナでの禁断治療より楽だ。アシアナでは身体が痛くてとても眠れたものではなかった。毎夜インド人とマッサージをし合っていた。ヘロインの禁断症状で最も辛いのは長く続く身体の痛みと不眠にある。予備知識の無いまま初めての禁断症状に襲われた時、今まで体験した事のない苦痛に囚われた。(1ヶ月やったら1ヶ月切れ、ブツの入手不可能の場所で、と教えられていた)同じ姿勢で座っていられない、身体を揺すり頭を前に下げ、そのままゴローンと横に倒れる。立って窓の前へ行き、1日中部屋の中を動き回った。スタッフを入れていた袋や引き千切ったパイプに粉が付着していないか、隠し忘れたかもしれないパケを探し出そうとして、ゴミ入れ漁りを何度もやった。初めての禁断にどうすればこの苦痛から解放されるのか全く分からなかった。禁断の1日目が終り夜になれば疲れ切って眠りがこの苦しみから救ってくれるであろうと、自分に都合の良い進展を考えていた。長い1日が終わり夜が来た。薬局で買った痛み止めと睡眠薬を飲んで明かりを消しベッドで横になる。吐きそうな荒い息。粉が欲しい。粉があれば、それだけが、それだけしか頭になかった。何度も左右に寝返りを打ち転げ回った。堪らずベッドに起き上がる。ベッドの下に座り込み両腕で抱えた頭をベッドの上に押し付ける。1シート、10錠の睡眠薬を飲んでいた。壁に沿ってふらふらとトイレへ行き座り込む。真直ぐ歩けない程睡眠薬は効いているのにスタッフによって形成された擬似脳は眠る事なく
「スタッフを体内に入れよ」と、いう指示を出し肉体を攻撃し続けた。こんな苦しみが続くなら
「続くなら、どうする。その先を言って見ろ」
「死にたいんだろう、勝手に死ねよ」
まだ耐えられる。一晩だけ耐えて生きる。ぎりぎり死に直面したら終りだ。
 インドでは当り前なのだが時間は大きく緩やかに流れている、日本のように正確ではない。病院で患者の食事担当をしているラウラシカでさへ食事の時間は適当なのだ。シスターによる投薬時間もそう言えばぼくから見ればいい加減に思われる。だがインドでは規定時間の前後30分ぐらいのずれは正常に進行している、誰にも文句付けられる筋合いはないのだ。
 

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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・18

2012-01-20 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録

 
  12月12日(火)(入院して9日)
 
 朝六時のデリーはまだ暗くて肌寒い。毛布に包まって夜が明けるのを待っている。入院して9日目になるが、以前はティーや食事がテーブルに置かれていても、手をつけなかったり無理に食べたりしていた。肉体が回復に向かっているのだ、食べ物を欲しがる。六時はとうに過ぎただろう、ティーはまだテーブルに置かれていない。ラウラシカの奴また朝寝坊をしたのか?毎朝5時頃に起きて新鮮な牛乳をバザールに取りに行かなければならない、奴の仕事だ。ミルクをたっぷり入れた良い香りがする甘いティー、インドでは朝、起きると何はともあれ一杯のティーだ。
 ラウラシカはノックもしないでぼくの病室に入ってくると、テーブルの上にティーを置き黙って出て行った。何もカップから溢れるまでティーを入れる事はないだろう。毎日、零れたティーの上にカップが置いてある。ティー・カップを持ち上げて飲もうとすると、ポタポタと垂れるティーが着ているジャージやシーツを汚す。ラウラシカに注文をつけたが
「ノープロブレム」
インドでは何を言ってもノープロブレムだ。 毎日が同じだというふうになってきた。身体は動かないが食欲だけは1人前に食べられるようになった。午前も午後も陽が差せば狭いけど室外に出て、病院内の10mぐらいの通路を行ったり来たり歩いている。下半身が非常にだるい。毎日同じ状態なのだがそれでも少しずつ粉が体内から抜け出し良くなっているのだ。問題は遅々として進まないような1日をひとつひとつ消して行くしか良くなる特別な方法等ない。
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