しばらくの間 お休みします 次の更新は未定です tomy
ぼくが初めてカトマンズに来た頃、カトマンズ盆地は糞つぼだと悪口を言われていた。カトマンズ市内でさえホテルを除いて多くの民家にはトイレ等なかった。狭い路地がトイレ代わりで早朝には皆が座ってそこで用を足していた。後片付けをするのは豚と野良犬である。そんなこと等つゆ知らずぼくはポーク焼飯や焼そばを美味しいと言って食べていた。その頃やけに豚や野良犬が多かったのはそういう背景があったからだろう。野良犬はそこそこ今でもいるが市街地で豚を見ることは少なくなっている。民家のトイレが完備され餌の人糞がなくなったからだ。旅をしていると度々下痢になるがその原因の一つは野糞だと、ある先生から教えてもらった。空気が乾燥しているので埃と一緒に大腸菌が舞い、それが体内に入ると下痢になるらしい。土地のインド人やネパール人は免疫を持っているから平気だが。
カトマンズから近郊の村へ行く途中、バクマティ河に架かる吊り橋がある。この河は下流でガンジス河と合流する聖なる河である。
吊り橋のすぐ上流には寺院があり時々死者を焼いて灰を河に流していた。橋の上から下流を見ると左岸の市内側にはゴミが山積みされている。ゴミの山に上って座っている子供を見た。どうも大便をしているようだが落ち着きがない。きゅろきゅろ見回しては用を足している、が何に驚いたのか子供はいきなり立ち上がり慌てて左手でズボンを右手には尻を洗う水の入った瓶を持って逃げ出した。汚い子供だ尻ぐらい洗えよ、と思っているとそこへ豚が突進してくる。うんこを狙ってくる豚を恐がっていたのか、まあ子供だからビビッタのだろう。小学生くらいの男の子だが犬は狂犬病があるからやばいが、豚は恐くはない。座っていると尻の下にあるうんこを食べようとする豚から、鼻で押しのけられたかもしれないが咬みつかれることはない。
ある先生とは・・・1970年代 カトマンズ近郊のパタン市に奥様と滞在されていた医者でもある
岩村昇先生のことである 帰国して先生がお書きになった「ネパールの青い空」を読んだ
このページ書くため検索をして先生がお亡くなりになっていることを知った 合掌
いつ意識を失ったのだろうか、センターゲート前でアフリカンから声をかけられた記憶はある、がその後の記憶は途切れた。気がつくと数日前に来た病院のベッドの上でぼくは横になっていた。意識が少しずつ戻ってきていたがぼくは動かなかった。うつろな意識で注射を打たれてからの場景を思い出そうとしていた。どのぐらい時間が経ったのだろうか、ベッドに起き上がろうとして上半身を動かすとドクターは止めた。瞳の動きを確かめた後、血圧や脈拍を調べていた、が正常に戻っていたのだろう
「立てますか?」
と言うので立ち上がって歩いてみた。まだ少しふらつく感じがあり眠りから覚めた時のようなぼんやりとした意識ではあったが不快感はなかった。
ぼくと刑務官は廊下を歩いていた。彼はぼくを気遣うようにゆっくりと歩き特に階段ではぼくの身体を支えるようにして注意深く下りてくれた。先日、来院して見た各階の廊下に溢れる程多かったインド人の患者達、今は疎らで静かだ。これが今回、バクシ弁護士が描いたシナリオの最後であろう。ぼくの保釈までの日数は後10日しか残っていない筈だ。
9月15日(金曜日)
朝、クラスでスペイン語の勉強をしていると、インド人が来て診療所のドクターがぼくを呼んでいると知らせてくれた。ポケットの中に危ない物が入っていないかチェックし急いで診療所へ向かった。診察室に入るとドクターはリラックスしてベッドの上で横になるようにと言った。今から一本の注射を君に打つ、ちょっと意識が乱れて身体が痙攣するが心配する事はない、数時間後には元に戻る。君も少し意識して激しく痙攣しているように振舞ってくれた方が良いだろう。
本当にそんな薬があるのか、薬の量を間違えて意識の乱れと痙攣が治らないなんて事があったら不味いよ。こういう微妙な匙加減となるとぼくはインド人を信用出来ない。不安はあったがここはもうドクターに任せるしかないだろう。ドクターは注射器を持って来てぼくの腕に針を刺した。数分すると本当に意識が薄れ身体の痙攣が始まった。ドクターの大きな声や人間が動き回る音がする、ぼくは直ぐタンカーに乗せられ第一刑務所のセンターゲートへ小走りで運ばれた。ゲート前にいた数名のアフリカンが心配してぼくの顔を覗き見していた。
「どうした大丈夫か、トミー?」
声は聞えるがぼくは話せない、痙攣は続いていた。
ぼくはやっとの思いで9日、刑務所内の診療所での診察とその時ドクターがぼくに言ったバクシ弁護士を知っているか、との問いから弁護士からの依頼であるとぼくは確信している。と同時に11日は外部の総合病院で診察を受けた事などからバクシ弁護士は裁判所へ提出すべきメディカル・レポート、つまり医学的所見を制作しているのではないかとぼくは説明した。弁護士はマリーを通して保釈までの期間を1ヶ月以内とぼくに伝えてきている。刑務所内生活からくるぼくの健康障害はかなり悪化しこれが続けば非常に危険な状態に陥る可能性がある、としてメディカル・レポートによってぼくの保釈の判決文を引き出そうしている、これがバクシ弁護士の考えではないかとぼくは言った。これで大使館の方が納得されたかどうかぼくには分からない。私生活については唯ひたすら御迷惑をお掛けした事を詫び、私生活の改善をすべく努力していると弁解した。日本からの送金については土、日曜日が挟まるとデリーまで5~7日ぐらい必要である、25日、前後の保釈を考えると早急に日本へ送金の依頼をして下さるようくれぐれもお願いした。
ドクターは書類に目を通していた。暫らく待っているとドクターの問診が始まり続いてベッドの上に横になるよう指示を受けた。ドクターはぼくの胸に聴診器を当てたり打診していたが後はシスターに血圧と脈拍数を調べるよう指示していた。診察はその程度で特別な検査などはなく終った。
病院の外に出て護送車の近くで他のインド人の診察が終って戻って来るのを一時間以上も待っていた。大した検査もなく何故、外の総合病院まで来る必要があったのだろうか。こんな事で保釈まで進めるのか、ぼくは多少心配になった。今日の診察内容から考えられる事は単なる内臓疾患ではなさそうだ、心臓とかの呼吸器系統ではないだろうか。バクシ弁護士は次の一手をどんな風に打ってくるのか。
9月14日(木曜日)
大使館の面会。話の中心はバクシ弁護士に既に十五万ルピーが支払われている以上、保釈に向けて具体的な動きがある筈であるとして保釈の進め方、具体的な手段方法の説明を大使館は求めてきた。又、弁護士に支払った金額の内十万ルピーは裁判所への保釈預託金のアドバンスとあったが支払われていれば裁判所発行の預り証明書がある筈だがそれはどうしたのか、そして最後に選任弁護士は面会に来ているのかと問われた。何とも不甲斐ない自分に気付いた。大使館に言われればその通りであった。
昨日 作った花輪を背かごに入れ村から暗い道を歩いてきた 早朝 寺院へ祈りに行く人に売る花だ
陽が昇ってしまった 人通りが少ない たくさん残っている もう花は売れないかもしれない
じっと待つ 母と娘
女の子の視線は何故 ぼくとカメラに向けられているのか 祈りに向かうネパールの人の背
何度もこの画像を使ったが 今でもぼくには分からない
一日は神への祈りから始まる
(以前に使用した画像)昨日の夕方は冷たい雪になった それでも湾の海水温は上がっている
日曜日 甲イカを釣りに湾へいった 全員4人とも見事にボウズだった 帰り海を泳ぐクラゲを見つけた
作業用の鉄船 ぼくたちは台船と呼んでいる 岸壁に係留され それが何台も数珠つなぎになり沖へと延びる
その分だけ沖で釣りができる 3月に入った そろそろアジが湾に入ってくる頃だ
今週はのんびりと過ごします