ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅        遠い道・・・・・13

2013-12-30 | 4章 遠い道・逃亡

中卸しに何かあった。禁断の苦しみで何をするか分からない二ナを外へ出られないように鍵を掛けてランジャンはスタッフを探しに出かけた。
「トミー、グリーンGHに急いで行って、パラかムサカがスタッフを持っているわ」
「お願い、トミー、助けて」
ぼくは後退りし駆けるようにして階段を下りた。トミー、トミー、助けて、二ナの苦しげな声がぼくを追いかける。ぼくを捕えようとする。狂気だ。凄まじい力でぼくを引き摺り戻そうとする。もう逃げ切れないかもしれない、ぼくは。
 ベッドで横になりぼんやりしていた。どうしょうもないよ二ナ、ぼくは何もできない。ごめんよ、二ナ。あれが今までのぼくの姿だったのか、身も心も蝕まれスタッフの命令で生きていた。ハード・ドラックを長期間継続すると現実の脳とは別に模倣された影の脳が形成される。現実の脳の指揮と命令系統の主導権は少しずつ失われていく。主導権を奪った影の擬似脳の中心には紅い芥子の花が咲いた。主導権を掌握した擬似脳はリアリティーから分離していく。日常生活で得た情報や知識はすべて配線回路の分岐点から擬似脳に送られる。ぼくはリアリティーから分離した視点と時間そして思考に生き続けた。
 2日夜行列車の予約切符は手に入らなかった。1月8日の出発に変更する。偽造パスポートができるまで数日は必要だろう、それで良い。どういうつもりなのかフィリップスは自分の偽名パスポートをぼくに見せた。それにはネパール入国ビザのスタンプが押されていた。同行するネパール人が見つからなかったら俺が一緒に行ってやると奴は言う。何を考えているのかぼくには理解ができない。アフリカンの奴とボーダーを抜けたら余計に目立って危険だ。
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ジャンキーの旅        遠い道・・・・・12

2013-12-26 | 4章 遠い道・逃亡

  1996年1月1日
 インドの旅もこれが最後になるだろう、できるだけ多くの友人に会っておきたい。まず二ナとフレッドに会うためピクニックGHへ行った。3階に上がると左にちょっと広いフロアーがある。3階は正面と左奥にツインの2部屋があるだけだ。3階に上がって真直ぐ進むと屋上へ上る細い階段がある。屋上には個室はなくドミトリーだけでアフリカンの溜まり場になっていた。3階の正面が二ナとフレッドが住んでいた部屋だ。ノックしようとすると左奥の部屋から女の声がする
「トミー、トミー、助けて」
左の部屋から二ナの声がする、しかしどこから呼んでいるのか分からない、ドアは閉まっているのだ。良く見るとドアの横に縦に細長い小窓がある、そこに二ナは顔を押しつけぼくを呼んでいた。彼女は小窓から出した手でドアを探っている。
「トミー、こっちへ来て、助けて」
ドアは外から鍵が掛けられていた。
「鍵はどうしだ?」
「ランジャンよ、気がついたら鍵が掛けられていた。鍵を開けて、お願い」
インドの鍵は合鍵かピッキングでもしないと開けられない。
「駄目だ、鍵は開けられない」
「ねぇ、トミー、わたしシックなの。スタッフを頂戴、少しだけで良いの」
「二ナ、分かるだろう。ぼくはスタッフを止めている」
小窓から二ナの顔が見える。髪は解れ、目の縁は汚れと涙で黒ずんでいた。涙を流しながら一生懸命に外の鍵を開けようとしていた。
ぼくは叫びそうに悲しかった。二ナを助けることができない。
「フレッドが、フレッドがスタッフを持っているわ。貰ってきて、早く、早くお願い」
二ナは禁断の苦しみに落ちている。フレッドに会った。
「シックなんだ」
鼻水が流れている。袖で何度も拭いて口の回りは鼻水と涎で汚れていた。目はとろんとして
「シックなんだよ、俺も。皆シックだ」
「どうしたんだ、フレッド。何があったんだ、お前らしくない」
「スタッフは今夜、手に入る。今夜だ。それまではない」
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・42

2013-12-24 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward

 夜9時頃になると白い蚊避けのネットを張った。近くの鉄格子に紐を結ぶ。反対側は通路を挟んだベッドの向こうにしか紐を掛ける場所がない。通路では紐が弛んで通行の邪魔になっているが誰も文句は言わない。ネットの右側はエマのベッドだ。ぼくらはスタッフを始めたいのだが彼はぼくらの方へ横向きに寝てマガジンを読んでいる、どうも見られているようでちょっとやり難い、ネットの中は丸見えだ。ぼくは気になってしょうがないのだがショッカンはノープロブレムだと言う。あまり心地良くない。左側はかなり酷いガ二股の大男アシュラムだ。奴から時々ビリを買っているので心配はない。ぼくはブリーフからパケを出した。ぼくの動きをショッカンとアミーゴの視線が追い続ける。パケを開いてスタッフをマガジンの上に乗せた。
「Good, today is big one」
パケの紙は背を2度程爪で弾いてまだ未練がましく鼻でふんと吸い取った。今日は3人でやる。マガジンの上のスタッフをナイフで集める。半分はぼくの権利だ。ちょうど半分のところにナイフをいれ左右に分けた。ほんの少量だが遣り取りをする。ふたりの目を見て納得しているので作業を続ける。ぼくの分のスタッフを手前にナイフで寄せた。残ったスタッフは等分し置く。ぼくはスタッフを均等にして2本の細いラインを作った。紙の細いパイプを右の鼻に入れ左の鼻は指で塞ぎラインに沿って一気に吸い込む、左の鼻でもう1本のラインを吸った。右手親指の腹を交互に鼻の穴に当てふんふんと息を吸い込みスタッフを少し奥へ入れ込んだ。突然くしゃみでもして大切なスタッフを飛び散らかしては堪らない。次の方さあどうぞという風に顔を上げた。2番手かラストかとなると誰しもラストをやりたがる、吸い残しがあったりするから。
―停電―
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・41

2013-12-17 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward

 今日またニューガイが入って来た。Cバラックは収容人員を遥かに超えパンク状態だ。ベッドの間は全て埋まっている。今では通路にも5つの寝床が作られていた。ネットを追い出されたぼくの寝床もそのひとつだ。通路の左右に勝手に寝床を作っている。バラックの突き当たりはトイレで臭いし汚い、入口の方は鉄格子で冷たい風が入って来る、勢い真中あたりに寝床が集中する。左右の寝床が平行した場所の通路は幅50cmくらいしかない。トイレへの行き帰りパタパタとサンダルの音がした。ネットの中と違って通路は風が通るので寒い、しかし思ったほど蚊はいなかった。ここのベッドは床に直接作り付けた長方形の石のような硬い物で出来ているので蚊が隠れる場所がない。アシアナのベッドは一応病院用に作られていてベッドの下の暗い所に蚊がいた。その蚊を表に出さない為に12月だというのに天井の扇風機を回していた。12月でも水溜りがあれば蚊は繁殖する。最高気温が連日40度を超える5月から8月のモンスーンまでの間は乾期で土地は乾燥してしまう。
 夕方6時施錠される。夕食の準備をしていると後ろにある鉄格子の窓からフィリップスがぼくを呼ぶ。素早く2パケとビリ3本をぼくが受け取ると彼は消えて行った。どうして彼は施錠時間が過ぎているのに外に出られるのか?ぼくには分からなかった。だが彼は毎日そのやり方でぼくにスタッフを渡した。たぶん彼はスタッフをキープする時間を最小限にしているのだろう。施錠直前に彼はBバラックで用意されたスタッフとビリを受け取り施錠の合図、鉄格子を打ち鳴らすガンガンという金属音がするとCバラックの窓に来てスタッフをぼくに渡す。それが済むと彼は何食わぬ顔でAバラックに戻って行く。ぼくは素早くスタッフをブリーフの中に隠し夕食を待った。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・40

2013-12-15 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward

 まずい、ピーターをネットに入れたところでアンクル・チャチャが強い口調で文句を言ってきた。ピーターには悪い事をしてしまった。ちょうどショッカンが粉の用意をしていたしタイミングが悪かった。
 移動売店での買物は石鹸、歯磨きそれとタオルだ。数日後にはワード変更があるだろうそれまでの我慢だ。フィリップスのグループに入ろうか、それしかないだろう。だがそれもきついだろうな。外で自由に生活している訳ではないのだから辛抱しなくっちゃ。
   1月2日(月曜日)
 朝9時から10時30分まではクラスだ。アミーゴが許可を得て始めたスペイン語のクラスに出席している。陽当りの良い場所に黒板と莚を持って行って学習は始まる。アミーゴは英語が良く理解できない。授業を進めるのはインド系ポーランド人のカマルだ。
ERES ESPANOLA? Are you Spanish?(fem)
ES USTED ESPANOL? Are you Spanish?(m)
この日のノートは2ページを使っていた。スペイン語に対応する英文を黒板に書く。スペイン語の発音はアミーゴの仕事だ。単複、性別変化などが書かれている。毎日10個くらいの新しい単語が出された。スペイン語を習い始めるとスリランカ人は直ぐスペイン語でアミーゴに話し掛けた。10日もするとアミーゴとの口喧嘩を口ごもりはするがスペイン語で遣り合った。語学の学習能力は高い、生活が掛かっているからだろう。この時間、朝吸ったスタッフの効きが出てくる頃でぼくは夢心地で度々注意をされた。
 クラスが終るとどうしてもビリを一服したくなる。水場の裏通りに竈があり置き火が残っていてそれからビリに火を点けていたがいつからだろう消されたままだ。禁止になったのかもしれない。開錠中に隠し火を持っているのはBバラックの監房内だけだ。薄暗い真中の通路を挟んで両側に各5つの監房がある。デリー中央第1刑務所内のアフリカン・ドラッグ・シンジケートはここにある。その実態をぼくはまだ知らない。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・39

2013-12-12 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward

 第2収監区Cバラックに来て1ケ月も経っていないのにこのグループだけはガタガタになってしまった。ぼくが入ったからなのかもしれない、他のグループは平穏なのだから。そしてその原因はスタッフにあるとぼくは思った。Cバラックで常習的にスタッフを吸っているのはドイツ人のトーマス、ピーターとスペイン人のアミーゴそれにスリランカ人グループとぼくだ。他にもジャンキーはいる、表に出ないようにしている利口な奴、当然危険が伴うのだから。トーマスとピーターは単独でやっているが他はぼくらのグループに属していた。そこでのビリやスタッフの貸し借りがトラブルの原因になっていた。スタッフが買えずシックになった者は機嫌が悪い。
 ぼくらのグループはマークされていると度々フィリップスから注意を受けていた。いつか抜き打ちの調査が入るだろう。スタッフのパケを隠す場所など何処にもない。アフリカンはビキニ・タイプのブリーフをはいていたがぼくは大使館が差し入れしてくれたBVDの前開きのブリーフをはいていた。2枚重なったブリーフの下の方はちょうど袋のようになっている、ぼくはそこにパケを隠していた。ボディー・チェックで内股に手を当てられてもそれは分からないだろう。
 またショッカンと口喧嘩になった。不愉快なグループだ。やはり出るしかないのか、明日は別の寝場所を確保しなければならないだろう。フィリップスと組んでいたら事情は違っていたかもしれない。ディクソンはただ黙って見ているだけ、アミーゴが心配して色々と助言してくれた。このグループを出るにしても日常生活に必要な物を何一つぼくは持っていない。アシアナからここへ来た時ぼくが持っていた物はビニール袋に入った少しの衣類だけだった。しかしその夜から何不自由なく生活が出来た、それは食器、毛布から寝床まで彼らが用意してくれたからだ。ネット内で今までぼくが使っていた寝床は本来ショッカンの場所だった。彼はそれをぼくに譲り他の条件の悪い場所へ替わって寝ていた。それはぼくも知っていた。ダニエルのように何をされ無視されても寝床を替えられても文句を言わず従う、それはぼくには出来ない。収監区が替わるという話しはどうなっているのだろうか、インド的メイー・ビーでいつになるのか。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・38

2013-12-09 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward

頭の中を電流がショートし発光する、睡眠薬を飲んでも身体の痛みと不眠は続いていた。ワンシート10錠を飲むと真っ直ぐには歩けない、それ程睡眠薬は効いているのにドラッグによって生まれた擬似脳は眠らないのだ。きつい禁断の苦しみを何度やったことか。その中でも最も苦しんだのは初めてのスタッフ切りだった。断って1週間、2週間が過ぎても禁断の苦しみから解放されない、その症状がいつまで続くのか先が全く見えない、不安に絶望した。1ヶ月を過ぎた頃から時々体調の良い日があったりするが翌日また逆戻りしてしまう、精神的に落ち込んだ。妖しいケシの花、禁断の蜜の味を知ってしまった者は生涯その苦しみから抜け出す事は出来ないのかもしれない。そんな絶望感が死への扉を開くのだろう。4月に始まった禁断による身体の痛みと不眠は6月になってやっとぼくの身体から抜け出して行った。そのときぼくはスタッフの恐さを知った、と同時に耐え続ける精神力があれば禁断から抜け出せるとも思った。パールガンジ警察署に逮捕されたときぼくは長期間に約300g以上のスタッフを継続していた。フレッドから買った150gのスタッフはぼく個人が数ヶ月で使用する量である、今までの日数と量とは桁が違う。今回スタッフを切り抜ける可能性はないと思った、その時点でぼくは死を覚悟した。しかしデリー中央第4刑務所アシアナは重症の薬物中毒者を専門的な治療によって患者を回復させた。ぼくは生き長らえた。
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ジャンキーの旅        遠い道・・・・・11

2013-12-07 | 4章 遠い道・逃亡

 逃亡計画・・・2

1月6日(土) ネパール休日
1月7日(日) この2日間はなにも出来ない。カトマンズに置いていた荷物の整理をする。日本へ持ち帰るものは日本円と約150gの金それとノート類だけだ、残りはスンダルに保管してもらう。
1月8日(月) カトマンズ出入国管理事務所へ行きビザ発給の手続きをする。今回の逃亡で最も重要な問題点がここにある、とぼくは思っている。盗難にあったとするパスポートに記載されているビザ番号と入国場所の確認である。ビザ発給記録と入国記録が確認されなければ管理官は新しいビザの発給に難色を示すだろう。この問題点についてぼくは何度も考えてみた、がまだ解決していない。これが解決しない限り今までの苦労は何の意味も持たない。
一、ビザ発給記録の照合
ぼくがカトマンズでパスポートを盗まれたとしても、ネパールへの入国ビザをどこかで収得しているはずだ。ビザがなければ入国はできないのだから。インドから入国したのであればデリーにあるネパール大使館か、もしスノウリの出入国管理事務所でビザ収得手続きをしていればそこに、そのどちらかに記録は残っているはずである。スノウリの事務所からビザと入国記録は定期的にカトマンズの事務所に送られてくる。急ぎであれば電話で確認ができる。どこに連絡してもぼくのビザは確認されない。最後のネパール滞在ビザは95年6月末、外国語学校の1年間学生ビザで有効期限は既に切れている。
二、入国記録の確認
カトマンズ空港から入国していれば確認は簡単だ。インドから陸路で入国できる国境は数ヶ所ある。記録は全てカトマンズに送られてくる。どの入国記録を調べてもぼくの記録は残っていない。まずいな、どうする。ネパールだから粘ってバクシシで何とかなるかもしれない、が分からない。大使館はどういう態度を取るだろうか、これも何とも言えない。デリーを出発して15日間は100パーセント安全だと考えている。それだけの時間があれば何とかなるだろう、失敗したらぼくに運がなかったということだ。
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ジャンキーの旅        遠い道・・・・・10

2013-12-04 | 4章 遠い道・逃亡

 逃亡計画・・・1    1996年1月  

1月2日 裁判所出頭その後荷物を整理し夕方出発する。ニューデリー19・45発バイシャーリーExp
1月3日 8・00時ゴラクプール着
国境を抜けるには時間が早過ぎる。バスで2時間程のところに仏教4大聖地の一つ仏陀涅槃の地クシナガルがありそこへ行く。時間的にちょうど良い。夕方5時頃、国境の町スノウリへ戻る。町の真中をインドからネパールへ通る一本道がある約100m、途中にインド出入国管理事務所と税関がある。道幅は5mくらい。印・ネ国境には通行止め遮断機の長い棒がある。ネパール側に向かって右端に頑丈な杭があり、その杭に取り付けられた跳ね上げ式遮断棒だ。棒の先端をロープで縛りそのロープによって遮断棒の角度を調整している。普段は45度くらいの角度で遮断棒は開いていた。夜間は地面から1mくらいの高さで固定され車輌は進入できないようになっているが人間は棒の下を通る事ができる。遮断棒の先端側に国境警備隊員の詰所があるが常駐しているかどうかは不明だ。印・ネ国境の遮断棒を抜けるとネパール国内になる。がそこにもインドと同じ様にネパール側の出入国管理事務所と税関がある。それを抜ければ国境を突破した事になり、まあ一安心というところだ。スノウリ発カトマンズ行きの最終夜行バスは20・00時だと聞いている。だがこの便は信用できない。乗客が多ければ積み残すし、乗客が少なければ運休になる。国境を無事に越えたら早いバスでスノウリを離れることだ。町に長くいると何が起こるか分からない、危険でもある。外国人旅行者が多いカトマンズに紛れ込んでしまえば、もし捜査が始まったとしても時間を稼げる。
1月4日(木) 朝、カトマンズ着。定宿であるモニュメンタル・ロッジにチェック・インする。これから先は一度マリーと作った計画と同じだ。スンダルに会い警察署へ行く、パスポートの盗難証明書の交付手続きをして証明書を受取る。
1月5日(金) カトマンズ在日本大使館へ行きトラベル・ドキュメントの交付手続きをする。だが、この日は大使館が開いているかどうか不明だ。6日(土)7日(日)は閉館だから年始の仕事初めは8日(月)と考えた方が良さそうだ。そうであるなら出発を1週間遅らせるべきだ。その点についてぼくは迷っている。こういう迷いは良い結果を生まない。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・37

2013-12-03 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward

 今、12時になった。ハッピーニューイヤーだ。本当にここで新年を迎えてしまった。外では花火が盛大に打ち上げられている。Cバラック内ではアフリカンのミサが始まった。浮かれたお調子者が眠っている奴を次々と叩き起こしハッピーニューイヤーと声をかけた。眠りを破られた奴は機嫌が悪い。
「ハッピーニューイヤー?馬鹿野郎、何がハッピーだ・・・」
と怒鳴って又眠ってしまった。紅白歌合戦も日本料理、お酒もないそれでもやはり新年だ。朝、起きたらいつもと変わらない収監者の退屈な1日が始まるのだろう。1日は1日として刑期の日数に加算される1日となる。まだ多くの収監者が起きていた。何も起こらない、何もない。アフリカンのミサの祈りだけがまだ続いていた。
   1995年1月1日
 明けましておめでとうございます。
誰に言うでもなく日本語で言いそしてノートに書いた。日本を出て何回目の正月だろう楽しい思い出を残した正月はあったのか。91年はカトマンズだったと思う、その後タイランドのチェンライ、それから聖地リシケシ、94年はデリー、95年もデリーだけど刑務所とはまた変った場所だ。リシケシでは偶然にも日本人が10名ぐらい滞在していた。2人の女性が日本食らしいものを作ってくれた。或る男性はわざわざデリーまで行きウイスキー等の飲み物を買ってきてくれた。久し振りのウイスキーなのだがインド製だからなのか分からないが美味しくなかった。日本では仕事が終わると赤暖簾で日課のように飲んでいたのに旅をしている間はアルコールを余り飲まない。
 ぼくにはやはりチラムの方が良かった。ちょうどスタッフを断っていたときでまだ禁断の後遺症に苦しんでいた。
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