これも今は昔、周防大島最大の河川である屋代川は毎年夏になると、大正橋近辺で
水が涸れるのは風物詩でもありました。上流の屋代橋までは細くの流れ、大正橋から
下流の片山橋手前で伏流水がまた表の顔を出します。
よって涸れるのは数百メートルです。
涸れる直前から子供たちはワクワクしました。鮎やドンバイ、鯉、鮒、鰻が掴み取り
状態になるからです。早いもの勝ちでした。ドンバイや鯉、鮒は食べないので
あまり価値はありませんが、鮎も鰻は美味しい。
特に鰻は田やタンポにいるものは泥臭いが、川の鰻は臭みが無いので最高でした。
【タンボは田ですが、タンポは田に水をやる溜池です。藩政時代は「堤」と云います】
上流にダムが出来たから屋代川は涸れることは無くなりましたが、川草が生い茂り
川床が1M上がりましたので、大雨の時はその分、洪水の危険は高まりました。
子供が少なくなりましたので川遊びや、魚を獲る姿も見られなくなりました。
かっては片山地区の盆の精霊送りも、近くの弘法堂の卒塔婆を集め、近くの大工さんが
舟を作り、お供え物を満載して、あの世の御帰りになりご先祖様を大正橋の涸れた
川で火をつけて送っていました。
等覚院の和尚様の読経されるなか、すべての家から見送りしましたが、
その光景も無くなりました。
まだ、鮎は上がってきます。
ある時、おっさんが屋代川でコソゴソしているので、今の町長がたまたま通りかかり
「あんた何しよるんね?」と聞けば、鮎を採取しているとのこと、釣り師の風体でない
おっさんは「この川の鮎のDNAは万葉時代からのものを継承しているので研究している」
とのこと。このおっさん、どこかの大学の教授であったそうな。
そうか万葉から続くのか。
万葉時代は旧屋代小学校あたりが屋代川の河口であったのだから、鮎も代々
時分の川を子供たちに教えて1500年以上、屋代川を母川としてくれていたの
ですね。
大島に帰らない、また、帰れない人達のために、徒然なるままに・・・
水が涸れるのは風物詩でもありました。上流の屋代橋までは細くの流れ、大正橋から
下流の片山橋手前で伏流水がまた表の顔を出します。
よって涸れるのは数百メートルです。
涸れる直前から子供たちはワクワクしました。鮎やドンバイ、鯉、鮒、鰻が掴み取り
状態になるからです。早いもの勝ちでした。ドンバイや鯉、鮒は食べないので
あまり価値はありませんが、鮎も鰻は美味しい。
特に鰻は田やタンポにいるものは泥臭いが、川の鰻は臭みが無いので最高でした。
【タンボは田ですが、タンポは田に水をやる溜池です。藩政時代は「堤」と云います】
上流にダムが出来たから屋代川は涸れることは無くなりましたが、川草が生い茂り
川床が1M上がりましたので、大雨の時はその分、洪水の危険は高まりました。
子供が少なくなりましたので川遊びや、魚を獲る姿も見られなくなりました。
かっては片山地区の盆の精霊送りも、近くの弘法堂の卒塔婆を集め、近くの大工さんが
舟を作り、お供え物を満載して、あの世の御帰りになりご先祖様を大正橋の涸れた
川で火をつけて送っていました。
等覚院の和尚様の読経されるなか、すべての家から見送りしましたが、
その光景も無くなりました。
まだ、鮎は上がってきます。
ある時、おっさんが屋代川でコソゴソしているので、今の町長がたまたま通りかかり
「あんた何しよるんね?」と聞けば、鮎を採取しているとのこと、釣り師の風体でない
おっさんは「この川の鮎のDNAは万葉時代からのものを継承しているので研究している」
とのこと。このおっさん、どこかの大学の教授であったそうな。
そうか万葉から続くのか。
万葉時代は旧屋代小学校あたりが屋代川の河口であったのだから、鮎も代々
時分の川を子供たちに教えて1500年以上、屋代川を母川としてくれていたの
ですね。
大島に帰らない、また、帰れない人達のために、徒然なるままに・・・
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