屋代源三様
はじめまして。
あなた様のウェブサイトを数日前に知りまして、曽祖父・友澤伊助の名前を発見していた次第です。
かむろ会ホームページをご覧になったようですので詳細は省きますが、伊助が沖家室から神戸に出てくるまでのことは不明でした。
妻が長男を懐妊中に神戸に出てきたのですが、長男は明治34年8月に生まれています。
明治34年6月発行の防長紳士録に「大島郡水産業組合副組合長 安下庄村 友澤伊助」と記載されているということは、神戸に出てくる直前には安下庄在住で、漁業に従事していたということになり、これは私には新たな発見でした。
「東和町誌」に明治初期には沖家室の有力な家々が魚の仲買人をしていたとの記述があり、その中に
友澤、二宮という家が含まれています。明治34年に若くして漁協のナンバー2だったというのはこの流れだと思います。
安下庄に住んでいたというのは新たな発見なのですが、私の祖父(伊助次男)が入手していた古い戸籍によりますと、伊助の実質的な養父であった二宮九八が明治33年3月に安下庄で亡くなっています。ですので伊助も九八とともに安下庄に住んでいたというのはうなずけます。
明治も30年代になり、漁協というかたちで漁業を行う上で沖家室よりも安下庄に住んだ方が都合が良かったのかもしれません。
しかし九八が亡くなって間もなくその仕事も辞め、神戸に出てきたようです。
防長紳士録を拝見しておりまして、ちょっと興味を持ったことがあります。
ひとつは「家室西方村村会議員 二宮兵太郎」という名前です。
二宮九八の長男、つまり伊助の兄として育った人物は忠作という名前なのですが、「二宮兵太郎」が同一人物である可能性はないのか、ということです。
もうひとつは、野口姓の方々4名についてです。
伊助は外入の野口平八の次男でした。しかしその実家・野口家の他の方々のことは全くわかりません。
名前の類似性から、「家室西方村外入尋常小学校校長 野口半七」というのが平八の息子、つまり伊助の実の兄弟ではないか、ということです。
しかしこれらのことは単なる私の推測に過ぎません。
もし何か他に資料等をお持ちでしたらぜひ情報をいただきたいと思います。
はじめまして。
あなた様のウェブサイトを数日前に知りまして、曽祖父・友澤伊助の名前を発見していた次第です。
かむろ会ホームページをご覧になったようですので詳細は省きますが、伊助が沖家室から神戸に出てくるまでのことは不明でした。
妻が長男を懐妊中に神戸に出てきたのですが、長男は明治34年8月に生まれています。
明治34年6月発行の防長紳士録に「大島郡水産業組合副組合長 安下庄村 友澤伊助」と記載されているということは、神戸に出てくる直前には安下庄在住で、漁業に従事していたということになり、これは私には新たな発見でした。
「東和町誌」に明治初期には沖家室の有力な家々が魚の仲買人をしていたとの記述があり、その中に
友澤、二宮という家が含まれています。明治34年に若くして漁協のナンバー2だったというのはこの流れだと思います。
安下庄に住んでいたというのは新たな発見なのですが、私の祖父(伊助次男)が入手していた古い戸籍によりますと、伊助の実質的な養父であった二宮九八が明治33年3月に安下庄で亡くなっています。ですので伊助も九八とともに安下庄に住んでいたというのはうなずけます。
明治も30年代になり、漁協というかたちで漁業を行う上で沖家室よりも安下庄に住んだ方が都合が良かったのかもしれません。
しかし九八が亡くなって間もなくその仕事も辞め、神戸に出てきたようです。
防長紳士録を拝見しておりまして、ちょっと興味を持ったことがあります。
ひとつは「家室西方村村会議員 二宮兵太郎」という名前です。
二宮九八の長男、つまり伊助の兄として育った人物は忠作という名前なのですが、「二宮兵太郎」が同一人物である可能性はないのか、ということです。
もうひとつは、野口姓の方々4名についてです。
伊助は外入の野口平八の次男でした。しかしその実家・野口家の他の方々のことは全くわかりません。
名前の類似性から、「家室西方村外入尋常小学校校長 野口半七」というのが平八の息子、つまり伊助の実の兄弟ではないか、ということです。
しかしこれらのことは単なる私の推測に過ぎません。
もし何か他に資料等をお持ちでしたらぜひ情報をいただきたいと思います。
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