雨が、まだ続きますね(大阪は)。
ついこのあいだの話。
外をふらふらと歩いてたら、歩道の車よけの上に、ずぶ濡れの小さい猫が死んで横たわっていました。一瞬、ぬいぐるみだと思った。このまえうちの窓の下で鳴いてた黒い猫と同じくらいの、まだ若い茶色い猫でした。
その前日の夜には、雷がすごくて、私はスペクタクルだなーと思って喜んでいたのですが、もしかしたらその大雨のせいで、この猫も死ななくてはならなかったのかもしれないと思うと、なんとも言えない気持ちになります。
もしも本当に優しい人だったら、あの猫をどこかへ埋めてあげたでしょうか。でも、この近くにはどこへも埋めてあげられる場所がないんですよね。土が見えている場所を思いつかないし、そもそもどこにも私の好きになる場所がない。
そんなことをまず第一に考えてしまう私は自分でも冷たい奴だと感じます。私にはこういう酷薄なところがあるんですね。
猫のことはとても可哀想だとは思ったけど、それよりもびっくりしてつい素通りしてしまった。
ついでに、私がまだ子供だった大昔の大雨の晩に、実家の開いた窓から2階へ逃げ込んできて寝ていた雀を(なぜか雨の夜なのに、窓が開いている、そんな家でした)、暗闇のなかで母がそれを踏んでしまって、雀の死骸を恐れる母のかわりに、朝になってから私が庭に埋めてやった時のことも思い出したりしました。
あの時は、私は雀が可哀想というよりも、ああ、雀って軽いんだなーと思ったりしていたのです。
ほんとうに、私は冷たい。物事を、遠くから眺めるような、すっとそばを素通りしてしまうような、絶対に自分から何かしようとかどうにかしようとか思わないあたりが、実に私らしい。
だけど、これはつまり、こういうことなのかもしれない。私は、私に向かってどっと押し寄せてくるものに対しては反応できるけれど、私のほうから誰か、何かに向かって働きかけることができない。猫や雀は死んでいて、死んでいるという事実以外、他にはなにも訴えてこないから、私は何か物でも見るような気持ちでいるのかもしれません。
と、死んだ猫を前にして、結局は自分のことばかり考えていることにも我ながら驚くというか情けないというか、どうなんだろうとつくづく考えてしまいました。
それに、よく考えてみると、私は死んだ生き物に対してだけでなく、時には生きている人たち、私を好きでいてくれる人たちにもこんな態度ではなかったでしょうか。いや、こんな態度でした。それも、「時には」というよりも、むしろ「頻繁に」。何か遠くにある物みたいに。
死んだ猫のことは、しばらくすると忘れてしまいました。でも、時折ふと、あの猫の口が少しだけ開いていたのを思い出して、私は甲斐もないことを考えてしまいます。私には何もしてやれないと思ったけれど、本当にそうだったろうか。たとえばそれが偽善とか自己満足とか、そういうものに過ぎなかったとしても、たとえ相手から返ってくるものが何もないと分かりきっていたとしても、私はなにか思うところがあるならば、そのようにすべきではなかっただろうか。
どうして私はいつも素通りしてしまうのだろう。私は冷たいやつだけど、でも、みんなが、できるだけ幸福であってほしいと願ってはいるのに、そのための具体的なことが、何一つ思いつかないし、思いついたとしてもきっと行動に移せない。もしかしたら、ささやかなことから始めるべきなのかもしれないけど、それさえも出来ない。
ああ、それにしても、美しい嵐の夜の下に、こういう悲しみがあるのだということを、いったいどう考えたらいいのだろう。世界はたぶん、私のこんな悲しみを簡単に通り越してしまう。お構いなしに押し流してゆく。私はほんの少しだってそれに抗うことができない。
あの猫、あのあとどうなったかな。私はそれさえ確かめに行けないでいる。今日も少し雨。