2023年3月のタスマニア6日目
タスマニア州第2の都市ロー
ンセストンの博物館QVMAG
旅行中の大雨の博物館巡りは
それなりに充実して助かる
ローンセストンが位置するタ
スマニア北部は良質な粘土を
産出するため、1870年代前半
より窯業で栄えたそうです。
(※蒸気陶業工場を描いた手
描きの1876年製造のタイル)
業界の後ろ盾となったのが、
ローンセストン市の下水整備
で、より衛生的という理由か
らコンクリートより素焼土管
への移行が進められました。
(※積んであるのが素焼土管)
1880年以降はマックヒュー
社とキャンベル社の2社で土
管市場を2分し、前者はホバ
ート、後者はローンセストン
に納品し、複占体制は第2次
大戦後まで続いたそうです。
最盛期のキャンベル社は1時
間に120個以上(毎分2個)
の土管を生産していたそう。
製造は土管から、レンガ、タ
イル、下水管などへ広がり窯
業全体が発展し続けました。
2社とも陶磁器製造にも力を
入れ、中小の工房も誕生し、
多数の日用品陶磁器が生産さ
れ窯業全体が発展しました。
芸術性の高い作品も多く生産
され人気を博しました。時代
を映してアールヌーボー風も
当時の流行りなのか工房の特
徴なのか、重厚な艶のある緑
一度埋めたらまず掘り返さな
い土管への需要が続いたこと
こそ街の発展が続いていた証
しかし、発展は一本調子では
なく錫鉱や金鉱の発見と枯渇
などかなり波があったよう。
その中で景気てこ入れの1つ
となったのが、1891~92年の
ローンセストン万博でした。
19世紀には万博が持てはやさ
れ、植民地もこぞって開催し
ては地元産品を紹介し、輸出
機会を模索しました。同時に
経済成長を誇示する狙いもあ
り、会場はそのシンボルに。
我がNZでは1865年にゴール
ドラッシュで沸いたダニーデ
ンで万博が開催され、今はな
きこんな立派な建物が会場に
残っていたら世界遺産
ローンセストン万博会場とな
ったアルバートホール。ビク
トリア女王の夫のアルバート
公の名を冠した壮麗な建物。
木の陰の左右には会場になっ
た長いウィングがあります。
万博は欧米豪NZ等から1,372
社の出展者を集め、4ヵ月間
開催されたそう。地元窯業も
こぞって参加し、キャンベル
社は家庭用から工業用まであ
らゆる製品を出品しました。
(※キャンベル社のブース)
そもそもキャンベル社には、
アルバートホールの建設に必
要な75万個のレンガ供給とい
う万博特需が転がり込んでき
ており、1日当たりの生産量
を4千個から1万個に引き上げ
てフル稼働で納品したそう。
1880年のメルボルン万博の11
年後とはいえ、州都ホバート
万博(1894~95年)に先駆け、
ローンセストンっ子はさぞや
鼻高々だったことでしょう。
(※メルボルンの王立展示館)
1891年に完成したアルバート
ホールの総工費が1万4,000ポ
ンド。 タスマニアに1887年よ
り導入された中国人の入国に
際する人頭税が1人当たり10
ポンド。中国人1,400人が入
国したら、アルバートホール
がもう1つできたのかと思う
と額の重みが実感できます。
これらが同時に起きていたの
が19世紀という激動の時代