2021年4月のクイーンズタウ
ン。そこからクルマで20分ほ
どのアロータウン。19世紀に
中国人たちが住み始め居住区
を形成していたという史実。
招かれても歓迎されない人々
彼らはなぜここに来たのか
中国語の『招工入境』と英語
の『金鉱』に答えがあります。
1860年後半から1880年代に
かけて、NZ南端部のアロー
タウンのあるオタゴ地方や、
サウスランド地方にはいくつ
かの中国人居住区がありまし
た。彼らの目的はゴールドラ
ッシュでの一攫千金でした。
最盛期にはオタゴ、サウスラ
ンド、ウエストコーストの金
鉱には、約8,000人の中国
人がいたと言われています。
彼らがユニークなのは正規の
労働許可証、今で言えば就労
ビザを持っていた点です。
それが招工入境(採用入国)の
根拠で、ゴールドラッシュで
世界中から波のように押し寄
せ、波のように去って行った
西洋人たちとの違いでした。
オタゴのゴールドラッシュは
1865年にはほぼ終了し、金を
掘り当てようと集まった数千
人の西洋人たちはウエストコ
ーストに去って行きました。
(※ウエストコーストでの金
発見は1864年のことでした)
オタゴは人口の急減による地
元経済の悪化を恐れ、オース
トラリアの金鉱から中国人労
働者を招聘することを決定。
「人がいなくなるよりも、例
え猿のような外見であっても
人口が増える方が望ましい」
(1867年の地元新聞)
と自治体主導で決定しました。
中国人たちは広東省出身者で
オーストラリアの採鉱技術を
仲間内で共有し合いました。
1871年には近くのワカティプ
金鉱の労働者は、中国人が西
洋人を上回るようになり、ア
ロータウンは中国人居住区の
中心となって発展しました。
中国人人口と経済的影響力が
拡大するにつけ、それを懸念
する人種差別が激しくなりま
した。中国人による『植民地
化』を恐れるという説まで飛
び出し、NZも他国に倣って
1881年には悪名高い中国人
への人頭税を導入しました。
(「黄禍」と題されたマオリに
絡みつく辮髪のタコの挿絵。
新聞が世論を煽る傾向も顕著)
アロータウンには反中国人西
洋人金鉱労働者協会まで結成
されました。中国人たちはト
ラブル回避のために西洋社会
とは距離を置き、自分たちの
結束を一段と強め忍耐強く難
局を乗り越えていきました。
(※「隔離された生活」)
水のある川沿いに小屋を建て
互いに支え合っていきました。
一帯は今では想像もできない
見事な農地でまるで農村。自
給自足社会が実現しました。
写真上が居住区の中心でシン
ボルだった、アラム・ストア
背後の岩山も十分に活かされ
頑丈な石造りの小屋を建て、
丁寧に茅で葺けば立派な家に
さらに岩を背に小屋をかけ、
壁代わりにした質素な小屋も
トタン屋根のこんな戸建ては
憧れ🏡だったんでしょうね。
この厳しい環境下でも、彼ら
はなぜここに留まったのか
またまたこの話を続けます。