「父滅の刃」樺沢紫苑著 読書感想
現代日本社会に顕在化している様々な問題。「首相が変わっても変わらない政治」「学校のいじめ・学級崩壊」「ひきこもり」「ニート」「不登校」「パラサイトシングル」これらは、父性不在と密接に関係している。そう述べる著者。また、映画評論家でもある樺沢氏は、2012年公開の映画を見て非常に似たパターンのものが多いことに気付いたそうだ。「父親探し」がテーマの作品6作。「父性回復」がテーマの作品2作。映画は長い製作期間をかけるものなので互いに影響を受けた可能性は低いと断じる。つまり、2012年以前に映画製作者たちが時代性を感じ取り制作したに違いないと。
映画・アニメ等のメディアを中心に「父性」という切り口で現代社会の時代性・課題を探ろうとした「父滅の刃」からの感想を述べていく。
①父性とは
あこがれ・規範・外の世界への誘導だとするのなら、私自身の父性は何だったのか?
幸いにも私にはつい最近まで実父が存命していた。物心がつき、社会人として自立できるまで生きていてくれた。そして、幼少期から青年期まで規範意識を家庭の中で発揮していてくれた。小学生ぐらいまではあこがれの存在だった。しかし、年齢が上がるにつれてあこがれは別の対象になる。学校の先輩だったり、スポーツ選手だったり。外の世界への誘導だとするとそれは友達だっただろう。狭い生活範囲から連れ出してくれたのは同級生の友達だった。
つまり、私には父性的な存在が周りにたくさんあった。たくさんの父性に導かれて、成長してきたのだと振り返る。
②父親殺し
3年ほど前、落下事故がもとで亡くなった父。父はまじめで厳しい人だった。物心つかぬ幼少の頃、食べ物の好き嫌いでかなりひどく叱られたらしい。その後が今でも私の額に刻まれている。記憶はないがよく昔話として語られてきた。少年野球をしていた小学生のころ。寝坊をして朝食をとらずに駆け付けようとしたら怒られた。しぶしぶ、泣きながら朝食を食べ少年野球に参加したことを覚えている。自転車の乗り方にも厳しかった。道の端を進む。交差点を渡る時には安全確認。自動車の免許を取った時も助手席に乗って色々と指導してくれた。雨の日に、歩行者の近くを通る時に水しぶきを上げないように速度を落として通るように指導されたのは今でも心に残っている。とても厳しく、とても正しく。父は私の尊敬の対象だった。そして、人生の師でもあった。自分が父となり、息子にどのように接しようか?と悩んだとき、25歳の父も同じように悩んだのだろうか?と考えたことがあった。今となっては確かめようがない。きっと、悩みはしなかったんだろうな?いや、若かりし日ならば自分の父親としての在り方を悩んだのかもしれない。母に尋ねてみたが、
「仕事一筋の人だったからね。」
との返事。そういえば、中学生の頃1度だけ父に反発したことがあったのを思い出す。
「お父さんは、まじめ一筋で酒もたばこも遊びもしない生活だけど、何が楽しくて生きてるの?」
と聞いたことがあった。
「子供の成長が楽しみで、生きているんだよ。」
との答えだった。
「ふーーん。」
と答えたが、心の中では、
(つまらない人生だな。)と思った。(もちろん今ならわかりますが)
これが、私の父親殺しだったのかな?
それともあこがれだった父の背を超えた時だったのかな?
それとも、走り幅跳びで父の記録を超えた時だったのかな?
いや、父を乗り越えてはいないかもしれない。
ただ、この「父親殺し」という単語。私は不賛成だ。とても衝撃的で記憶に残る。しかし、誤解をする人や「殺す」という表現に私のように過敏に反応する日値も一定数いるはずだ。「父越え」とか「父性獲得」だとかより良い用語の使用を提案したい。
③自分は父性を発揮できているのか?
子供が小さいときは、大いに発揮できていたという自負がある。ただ、子供たちが親と同じ職業を目指さなかったという点では、なにかあこがれのようなものは与えることができなかったのではないかと反省はしている。現在は子どもたちも成人し父性を発揮するという場面は少ないが、いざという時には正しい道を示さねばならないという思いは持っている。そのためには、自分自身が心身ともに健康でなくてはいけない。結局、睡眠・運動・朝散歩。こころとからだを整え、不測の事態にも対応できる準備をしていかなくてはならないと感じる。
「不滅の刃」
を読むと、時代が現代に近づくにつれてメディア(映画・アニメ等)の世界の中では父性が希薄になってきているのが分かる。これは、先述したように実社会を反映しているともとれるし、メディアが実社会に影響を与えていると取ることもできる。
様々な角度から読むことができる子の「不滅の刃」
また、しばらくしたら読み返してみよう。次回は違う感想が浮かぶはず。